十五 手紙
克代はアパートに健太を連れて帰り、その日の夕食はカラアゲと寄せ鍋にした。ワイワイ言いながら皆で鍋を囲めば、健太も打ち解けるだろうと考えたのだった。克代に頼まれて徳次もその席にいた。
鍋をつつき合ううちに気持ちが解れたのか、食事が終る頃には、健太は自分から進んで話し始めていた。
「高校二年の時でした。他校の生徒と喧嘩になり警察に引っ張られて……。友達がカツアゲされそうになったことが切っ掛けの喧嘩だったんすけど、警察も先生達もカツアゲには目を瞑り、俺が暴力を振るったことだけが問題視されて俺は停学になりました。カツアゲをした奴の父親が市の有力者だったからっす。
俺もそのまま黙って大人しくしてりゃ良かったんすが、或る日、町でソイツと出会って再び喧嘩になりました。奴に耳元で、『ザマアミロ』と嘲られて……、悔しかったんす!」膝に置かれた拳は震えていたが、健太は冷静に話を続けた。
「奴を殴って俺は退学になりました。俺が反抗的だと言って、先生方の誰一人として庇ってはくれませんでした。そんなときに優しく声をかけてくれたのが、日置だったんす。行く宛の無い俺を一緒に住まわせてくれ、仕事も与えてくれました。ただ、その仕事ってのが偽ブランドの商品や、根っこの無い植木なんかを売ったり、害虫駆除や家の修理と偽って法外な金銭を要求する詐欺まがいの仕事だったんす。
俺はこんなことをしてちゃいけねえと怖くなって、兄貴と縁を切ろうとしました。すると、お前には大層な金を貸してあるんだから、縁を切るなら先に金を返せって言われて…。
確かにゲーセンで遊んだり、飲んだり食ったりした金は日置が払っていましたが、働いた金は日置が全額を自分の懐に入れてたんで、俺は一銭も持ってなかったんす。それで三宅さんにお金を借りました」
「こんな子供を食い物にするなんて!」徳次が珍しく唇を震わせた。徳次が怒りを露わにするのを、始めて見た克代と比奈は顔を見合わせた。
「それでも……、顔役の息子なんかと喧嘩して、殴ったあんたがバカだったね」克代が健太に止めを刺した。
健太は項垂れたまま頷いた。
「そんなこと言ったって可哀そうじゃん」比奈が口を尖らせた。
「猫なで声で『そりゃあ大変だったね』と慰めるのは簡単な話。けれども、それじゃ健太君は救えないのよ。この子は今ならやり直すことが出来る!それには先ず我慢するってことを覚えなければ」
「我慢したっすよ俺。それでも、『ザマアミロ』って言われて!バカにされて!それでも我慢するんすか!」
「そうよ我慢するのよ!我慢て言うのはね、とことん我慢するから我慢って言うの。『ならぬ堪忍するが堪忍』って、さすが昔の人は上手いこと言うわ。も一つ教えてあげれば、『堪忍の袋が破れたら縫い、破れたら縫い』ってね、皆、そうやって我慢をしてきてんの。
良い?日本人はね、あんた達の祖先はね、耐え難きを耐え忍び難きを忍んで、この国を守ってきたの。『ザマアミロ』とか言われた位で簡単に切れて、手を出して、挙句に退学になったんじゃバカとしか言いようがない」
「克ちゃんの言う通りだ」静かな声で徳次が頷いた。
「じゃあ、も一つ言わせてもらえば」説教を続けようとする克代。
「まだあんの!」比奈が口を尖らせる。
「当り前でしょ。あんたも聞きなさい」克代は比奈に目を向けた。
「大体ね、生きものが生きてゆくっていうことは大変なことなの。人間だって同じ。古来、畑を耕し動物を殺して食糧を手に入れ、人間は必死になって生きてきた。それが、文明が発達してお金さえあれば、食糧でも何でも楽に手に入るようになると、足りないものばかりが目について不満だらけになった。それが今のあんた達!
身体の何処も痛くなくて、ご飯が美味しく食べられたらそれだけで、どれだけ有難いことか。それが幸せってことじゃないの! それなのに、周りの人を羨んでばかりいるから大切なことがわからなくなる。挙句の果てに、国だの社会だの誰それが悪いだのと、悪いことは全部人の所為にする。それじゃあ神さまだって守りたくても守れないわよ。
だけど神は公平よ。自然は公平よ。嘘だと思うんなら夜明けに浜辺に行ってごらんなさいよ。太陽が水平線から顔を出した時、太陽の光は水面を一直線に走り、見ている人にエネルギーを与えてくれる。誰もが、その光りは自分一人に向って走ってくると信じる。隣に何人いようとね、太陽の光りは自分だけに向けられていると思えるのよ」
「ホントだよ」比奈が言った。「日の出に手を合わせてるとね、太陽の光が黄金の矢となって水面を走り、そのエネルギーを私に与えてくれるの。隣におばさんがいても、私だけに与えてくれてるんだと思えるの」
健太は克代の話を神妙な顔で聞いていた。
克代は健太の人間性を信じた。食事の支度を手伝っていた時も後片付けの時も、克代の手元を見て何が必要かを素早く判断し、黙って動いていた。仕事も手早い。三宅夫人が気に入って、子や孫ではなく健太に財産をあげたいと思った気持を、克代は今さらながら理解し、なんとか健太を更生させいと思った。
「今のまんまだと、あんたがいくら更生したくてもまた花柄シャツのチンピラに狙われる。なんとしてもピシッと手を打たなければ。ところで、あんた、そのチンピラに幾ら取られたの?」
「最初は三十万って言われて、それ払ったらあと五十万って。そんで文句言ったら借金にや利子ってもんが付くのは常識だろうがって。三宅さんから借りたお金もみんな取られちゃって……」
「それを取り返そう!」憤然として克代が言った。
「取り返せるんっすか?」健太が目を丸くした。
「取り返せるんかい?」徳次も首を突き出した。
「取り返せないでか!」克代は自慢げに頷いた。「乾先生って、過払い金の請求を得意にしている弁護士先生がいるの。その先生は警察に協力して、少年院送りになった子供達の更生にも力を入れている偉い先生なの。だから、乾先生にお願いして花柄チンピラが二度と健太に手出し出来ないようにしてもらおう」
「だって俺、弁護士先生に払う金なんか……」
「過払い金の請求は、お金が戻ってきた時に戻ったお金の中から払えば良いし、お金のことは何とでもなる。たとえ借りることになっても一生懸命に働いて返せばそれで良い」
健太は黙ってうつむいていた。正座した両膝の上に置いた拳が細かく震え、そのうえにポトン、ポトンと涙が落ちた。
その夜、克代は二通の手紙を書いた。一通は夫の明良宛で、健太に仕事を見つけて夜学に通わせて欲しいと頼むもので、もう一通は乾弁護士に宛てた過払い金の返還請求と、健太の更生に力を貸して欲しいと依頼するものであった。
明良が妻の克代に詫びる為にこの村を訪れた日から、既に一月半が経っていた。あの日克代は、自分の生き方を見つめ直したいと言って明良に会うことを拒んだ。
「出来ることがあれば何でやらせて欲しい」と、それだけ言って、明良は仕方なく東京へ帰ったのだった。
その約束を明良はきっと守って、健太の仕事と住む所を見つけてくれるだろう。
克代の出勤前に、徳次に連れられてアパートに現われた健太は頭髪を黒く染め直し、徳次の息子のお古だという学生服を着ていた。克代は二通の手紙を健太に渡し、東京へ着いたら電話して会いに行きなさいと言った。
「花柄チンピラからお金を取り戻せれば、三宅さんに少しでも返せるでしょ」
「俺……、俺、何て言っていいか……」
「俺じゃなくて私」
「わたくし」健太は素直に言いなおした。
「あんたはまだ若輩者なんだから、社会に出たら私と言うの。それから、そうっすかじゃなくて、そうですか」
「はい」頭を下げ、健太は二通の手紙を押し戴いて東京へ発っていった。
蓮杖明良は克代からのメールを受けとった。用件は、中埜健太という青年が訊ねて行くから、就職と下宿を世話して貰いたいとのことで、故あって高校で退学処分になったが、頭も良いし素直な働き者であると記されていた。
明良にとっても克代の申出は願ってもないことであった。
それというのも、克代が家出したことをどうして知ったのか、奈緒美が子供を連れて平気で家に訪ねてくるので、困惑していたからだった。明良としても子供は可愛い。可愛いが克代の留守中に女を家にあげるなど絶対に許されることはではない。世の中にはけじめというものがある。
奈緒美を家に入れないようにと家政婦に命じたが、反対に「この子は蓮杖明良の娘よ。それを追い出そうっていうの!」と奈緒美に怒鳴りつけられたと言う。
健太という青年が書生として家に住んでくれれば、奈緒美も少しは遠慮するだろう。
明良は克代に一日も早く返ってきて欲しかった。熱い愛とか恋とかそんなものではなく、お互いに空気のような存在で一緒に居なければ生きていられない。それほど克代は、明良にとって必要な存在であった。
明良はすぐに、健太には書生として家の留守番をしてもらい、夜は学校に通わせるとの返信を打った。
ところが運命の悪戯か、健太から電話がかかってきた時に、明良は大事な取引先と商談の最中だったために電話に出られず、健太は先に乾弁護士を訪ねた。そして、乾弁護士の事務所で雑用係として働き、乾弁護士の自宅で一緒に暮らして、夜は夜学に通わせて貰うことを決めてしまったのだった。
一方、奈緒美は奈緒美で困惑していた。
せっかく優香がセント薔薇女学園小学部に合格したって言うのに……。同じ幼稚園から二十余名の生徒がセント薔薇女学園を受験して、受かったのは僅か五名だった。その一人が優香である。五名の母親達は手を取り合って喜び、変らぬ友情を誓いあった。
それなのに明良さんは何故、私達を家にも入れてくれないのだろう?奥さんは出て行ったじゃないか。もう邪魔者は誰も居ない。それなのに何故?優香が可愛くはないのだろうか。そんな筈はない。あの幼稚園のパンフレットを貰って来たのは明良さんだ。
あれは優香が四才の誕生日を迎えた日だった。
瀟洒な建物を背景に兎や栗鼠や小熊たちがあしらわれた、見るからに金のかかったパンフレットを、明良さんは貰ってきた。優香の為に。
「こんなところ!」奈緒美は尻込みした。その幼稚園が上流階級を相手にしているのは明らかで、月謝だってかなり高い。こんな幼稚園は私達には相応しくない。
けれども、その可愛らしいパンフレットを見て優香は飛び上がって喜んだ。
「親が子供にしてあげられるのは教育だ。良い環境で学ばせれば子供は伸びる」明良が熱心に言った。優香もそのパンフレットを抱きしめて「行きたい」と叫んだ。
奈緒美は亡き母を想った。「教育こそ大事」と母は常々言っていた。「あなたのお祖母さまは教育を受けることが出来ず、ただただ生きるためだけに生きていらした。だからあんな、可哀そうだと思うけど虚栄の塊のようになってしまって……。良い環境に恵まれさえすれば必ず良い芽は育つ」
その言葉通り、母の静香は倹しい生活の中で奈緒美の勉強のためのお金は惜しまなかった。とはいえ有名学校の付属小中学校に通う余裕などとても無く、奈緒美は区立の学校に進学した。それでも成績は常にトップクラスで、いつしか東大を目指すようになっていた。
祖母と暮らすようになると、学校へは通わせてもらえたものの、実際は炊事や掃除に追われて勉強する暇などほとんど無く、成績は釣瓶落しの如く下がり続け、挙句の果てに祖母の死で高校も中退せざるを得なかった。
そんな自分の半生を振返ると、奈緒美にムラムラと慾が湧きあがってきた。なんとしても優香だけは良い学校に行かせてやりたい!
そうして優香はその幼稚園に通うようになった。
その幼稚園では、多くの園児達がお譲さま学校として有名なセント薔薇女学園小学部にはいることを目指していて、さながらその予備校と化していた。
いつしか奈緒美の次の目標は、優香のセント薔薇女学園小学部合格になった。負けず嫌いの奈緒美は上流家庭に相応しい立ち居振る舞いを学びながら、茶断ち、砂糖断ちはおろか、あらゆる贅沢を断って祈った。
もし優香が、セント薔薇女学園に合格出来るならば私はそれ以上は何も望みません。
ところが、あるショッキングなニュースがテレビに流れたのはそんな折だった。
清廉な紳士だと思われていた人気俳優に隠し子がいることが発覚し、来る日も来る日もテレビはその俳優を批判し続け、俳優は暫く謹慎すると謝罪した。優香の通う幼稚園でもママ達は寄ると触るとその俳優の噂に熱中した。
奈緒美にとって明日は我が身だった。
私は兎も角、優香は間違いなく蓮杖明良のたった一人の子供なのだ。その蓮杖優香の母親が妾という立場では、優香が可哀そうではないか。かつて伯父にあたる匡が侮蔑され悩んだ挙句に自殺したように、このままでは優香がどんな思いをするか……。
その夜、奈緒美は思い切って蓮杖克代に手紙を出したのだった。