胸がないのですが
次の瞬間、助走をつけて一気に池を飛び越え、島に着地する。
水分が多い土らしく、ぐちゃりと足に泥がはねた。
素早く帽子を枝から外すと、今度は陸に向かって飛ぶ。
こちらは土が固いので泥はつかなかったが、濡れた靴に砂が付着した。
「――まあ」
驚きの声が耳に届いたので視線を向ければ、女性がノーラの方を向いていた。
後ろを向いていろと言ったのに、何故こちらを向いたのかと言いたいが、相手は恐らく上位貴族。
指示されることに慣れていないか、あるいはノーラの指示など破ったところで痛くもかゆくもないので自由にしているのだろう。
男性の方は律儀に後ろを向いているが、こちらの反応の方が珍しいのかもしれない。
「お待たせいたしました。どうぞ」
「あ、ありがとう」
礼をして帽子を差し出すと、女性が恐る恐るという様子で受け取る。
きっと、突然池を飛び越えたメイドに驚いているのだろうが、見なくてもいいものを見たのは自分のせいなのだ。
帽子は無事なので不問にしていただきたい。
「あ、リボンが」
女性の声に帽子をよく見てみると、装飾のリボンを縫い付けた糸がほつれて外れかかっていた。
木の枝に引っかかったせいなのだろうが、しょんぼりと肩を落とす女性に、何だか放っておけなくなってきた。
「恐れ入ります。少しお借りしてもよろしいですか?」
「え? ええ」
帽子を受け取ると、ノーラはポケットから小さなポーチを取り出す。
裁縫道具入れであるポーチからリボンと同じ黄色の糸を取って、針に通す。
さすがに帽子職人の仕事を手伝ったことはないが、応急処置として縫い付けるくらいのことはできる。
外からは見えないようにリボンを固定すると、女性に帽子を返した。
「凄いわね。あなた、帽子職人なの?」
女性が目を輝かせてノーラを見つめてくる。
年齢は母のリータと同じくらいだろうが、上品な見た目に反して活発な印象だ。
「いえ。お針子のバイトをしたことがあるだけです。目立たないとは思いますが、これは仮縫いです。あとで帽子屋に修理にお出しください」
「ええ、わかったわ。本当にありがとう」
「助かったよ。これは妻のお気に入りでね。これは少しだが、感謝の気持ちだ」
男性が差し出した物に気付いたノーラは、慌てて首を振った。
差し出されたのは、金貨だ。
こんなことでお金を貰う気もないし、だいたいあまりにも高額すぎる。
世間知らずなのか、手持ちがそれだけなのか、あるいは感謝の気持ちなのかもしれないが、何にしてもとても受け取れる額ではない。
「いえ、結構です。命じられてしたことではありませんし、お気になさらないでください」
断られると思っていなかったらしく、男性は何度か瞬くと、困ったように眉を下げた。
「だが……では、君の名前を教えてくれるかな」
それはそれでまずい。
男性は褒める意味で聞いているのかもしれないが、池を飛び越えたと知られれば、寧ろ怒られそうだ。
ノーラのためを思うのなら、どうか忘れてほしい。
「いえ、困った時はお互い様です」
すると、夫婦はきょとんと顔を見合わせている。
貴族に対しての使用人の言葉ではなかったか。
だが既に言ってしまったものは、取り返しがつかない。
「あの、ええと。庶民の助け合いの言葉、といいますか。――とにかく、結構です」
もう、頼むからなかったことにしてほしい。
ノーラの必死の願いが通じたのか、男性が苦笑した。
「わかったよ。ありがとう、親切なお嬢さん」
「いえ。それでは、失礼いたします」
こちらこそ察してくれてありがとう、と言いたい。
今更ながらアランの『偉い人からの命ならば、受けるしかない』が脳裏によぎる。
それはつまり、偉い人からのお礼はありがたく受け取れということだろうか。
だとすると、ノーラはしっかりと悪い対応をしてしまったことになる。
この二人がそれに対して怒る人ではなかったことを、感謝しなくてはいけない。
ノーラは深く礼をすると、足早に夫婦のそばから立ち去った。
ついにやってきた舞踏会当日。
ノーラとフローラは、クランツ家で支度をしていた。
とはいえ、フローラは既にドレスを着て化粧も終えた状態で来たので、ほとんどノーラの手伝いのためなのだが。
「よし、これでいいわ。今回のドレスもよく似合っているわよ。さすがはエリアス様。……少し胸元が色っぽいけれど、これくらいはアリよね」
「胸元も何も、胸がないのですが」
気になる点を訴えると、フローラは優しい笑みを返してきた。
「あら。V字のカットが深いけれど、お花の刺繍と飾りが上品だから大丈夫よ」
「いえ、品ではなく。胸が」
「レベッカみたいに、豊満な胸を惜しげもなく出す下品な歌姫とは違うって、見せつけてやりなさい」
「いえ、ですから。見せる胸が」
「大丈夫、大丈夫。人はね、見えない部分に思いを馳せるのよ」
「見えないのではなく、ないのですが」
しばし無言で見つめあうと、フローラはノーラの肩をポンポンと叩いた。
「……大丈夫。エリアス様が巨乳好きでなければ、問題ないわ」
「そんなの、知りませんよ」
「聞いてあげようか?」
「結構です」
以前にも似たような会話をしたような気がするが、何にしてもそんなものは知りたくない。
揉めながら部屋から出ると、ちょうどペールがお茶を飲んでいた。
「へえ。姉さん、今回は随分と大人なドレスですね。お似合いですよ」
「ありがとう」
今回のドレスは、エリアスの瞳の色に近い、水色のドレスだ。
首周りは深いV字であわや胸の谷間が……いや、谷間があるべきところが見えそうなくらいだ。
だが、きわどい部分はすべて透ける生地の上に花と蔓の刺繍と飾りが散りばめられているので、決して肌を見せすぎることはない。
背中はその刺繍がないぶんだけざっくりと開いているので、肌が見えている。
だが、胸元から腕を覆って背中にかけて、透ける生地がストールを羽織るように縫い付けられたデザインだ。
おかげで、背中も丸出しにはならない。
フローラいわく「丸出しより色っぽい」らしいが、とにかく丸出しよりはいいはずである。
そのストール部分の端にも、胸元と同じく花と蔓の刺繍と飾りが散りばめられている。
腕を動かすたびにさらりと動く様は、ノーラから見ても美しかった。
ウエスト付近まではシンプルな作りで、ウエスト周りには花と蔓の刺繍と飾りが咲き乱れるように配置されている。
スカート部分は一転して、何の装飾もない。
だが、少しずつ色合いを変えた薄手の水色の生地が幾重にも重ねられた様子は、まるで滝を流れる水のように爽やかだ。
結い上げた髪にはドレスと同じ花の飾りをあしらい、首元にはシンプルな一粒石のネックレス。
靴と手袋は白という、全体的に涼やかな装いになっている。
「フローラさんのドレスも素敵ですね。甘すぎなくて、華やかで、ぴったりですよ」
「あら、ありがとう。ペール君も大人になったわね」
微笑むフローラに、ペールも笑みを返す。
フローラは、真紅のフリルが目を引くドレスだ。
飾りはフリルだけなのだが、生地の輝きや色味を微妙に変えることによって、ただのフリルとは思えない華やかさである。





