恥じらいを育てるのは
「……私、どうしたら、邪魔にならないでしょうか。何か、役に立てればいいのですが」
エリアスのためを思うならば、歌をやめるのが早い。
だが、それを決断しきれないのだ。
歌わなくなったら、それを捨てるきっかけになったエリアスのことを、恨んでしまうかもしれない。
歌い続ければ、どうやってもエリアスに迷惑がかかる。
エリアスが平民ならば確かに歌は続けられるが、そうして彼のものを奪うのはノーラ自身が許せない。
……堂々巡りだ。
思わずため息をつくノーラを見て、アンドレアが笑みを浮かべる。
「あのエリアスに、大切なものができたのですよ? 十分すぎるくらいです」
どのエリアスだと思いはしたが、何となく聞かないほうがいい気がする。
「そうでしょうか」
「そうですよ」
アンドレアはそう言うと、焼き菓子をひとつ摘まんでノーラの口に放り込んだ。
ほろりと口の中で解ける甘さが、心地良い。
「そう言えば、振る舞いを学びたいと聞いていましたけれど。確かに貴族令嬢としての言動や行動は経験不足な部分がみられますが、他は大きな問題はありませんよ。もう少し……いえ、ちょっと大袈裟に恥じらうようにすれば、かなりの部分が解決すると思います」
「恥じらい、ですか」
恥じらう淑女は、男に追いかけられて路地を駆け回らないし、木箱を登らないし、足が見えそうになっても気にせず飛び降りたりはしないだろう。
……こうして振り返ると、ノーラに今一番必要なものは恥じらいのような気がしてきた。
「それどころか、メイドとしては一流レベルだとメイド長も言っていました。染み抜きから皮むきに荷運びに案内まで、完璧だと聞きましたが。……ノーラ。あなた、貴族ですよね?」
「一応、名ばかりの貧乏男爵家ですが」
何なら平民の商人のほうが余程裕福な暮らしをしていると思う。
「では、マナーのレッスンやダンスなどは? どうしていたのですか?」
基本的に貴族の子女は、自宅に講師を招いてマナーやダンスのレッスンを受ける。
講師にもピンからキリまであるとはいえ、決してその費用は安くはない。
当然、借金まみれの貧乏男爵家にそれだけの余裕はなかった。
「すべて、母から教えられました」
「……お母様の手腕が凄いのでしょうか。まあ、何にしても問題ありませんから、心配無用です。どうせ何の非がなくとも騒ぐ者は騒ぎます。堂々としていればいいのです」
そう言って背筋を伸ばして見せるアンドレアは、少しばかりいたずらっ子のようで可愛らしい。
「私も、あなたを気に入っているのですよ。何かあれば、遠慮なく私の名前を使ってください」
とんでもない申し出に、ノーラは慌てて首を振る。
「それはいけません」
アンドレアは現在でも侯爵令嬢で、じきに王妃となる女性。
国中でも一二を争う高貴な存在である。
その名前を勝手に使うなど、恐れ多いし、お腹が痛い。
すると、アンドレアは楽しそうに笑い出した。
「ここでこれ幸いと悪用しない子だから、言っているのですよ。あなたは、あなたが思うよりもずっと、周りに認められています。……忘れないでくださいね」
アンドレアの部屋を退出すると、ティーセットを片付ける。
明日は舞踏会なので、今日は少し早めに仕事が終わる。
後は、着替えて帰宅するだけだ。
そうして王城の中を移動していると、中庭の池の前に貴族らしい出で立ちの男女の姿があることに気づいた。
王城は働く使用人はもちろん、騎士や貴族の出入りも多い。
なのでそれほど珍しいことではないが、池の前で何やらそわそわしているのが気になった。
何か困っているのかもしれない。
ノーラの手が必要なければ謝って去ればいいのだから、とりあえず声をかけてみることにした。
「失礼いたします。何か困りごとでしょうか?」
ノーラの声に振り向いたのは、壮年の男女だ。
どちらも仕立てのいい上品な身なりと佇まいで、一目で上位貴族だとわかる。
恐らくは夫婦なのだろうが、容姿が目を引く。
男性は焦げ茶色の髪に山吹色の瞳とそこまで目立たない色合いだが、女性は濃い目の金髪に碧眼という眩い色彩だ。
本当に、上位貴族は誰も彼もが容姿に恵まれているのだが、何なのだろうか。
「ああ、ちょうど良かった。誰か……衛兵か、庭師でもいいから、呼んできてちょうだい」
金髪の女性がちらちらと視線を送る先には、池の中に浮かぶ島がある。
その島に生えている小さな木の枝に、鮮やかな青色の帽子が引っ掛かっていた。
「見ての通り、妻の帽子が飛んでしまってね。池に落ちる前に取りたいんだよ」
男性はそう言って、そわそわする女性の肩を抱く。
上位貴族であることは間違いないのだろうから、帽子ひとつ失くしたところで、金銭的には痛くもかゆくもないだろう。
それでもこうして帽子を拾おうとしているのだから、物を大切にする人か、あるいは思い出の品なのか。
今は木の枝に引っかかっているが、風が吹けばすぐにでも池に落ちてしまうだろう。
こう言っては何だが、池の水は決して綺麗とは言えない。
上質な帽子が汚れれば、元の状態には戻せないかもしれない。
島に渡る橋はなく、誰かに声をかけても梯子や木の板を運んでくるだけで、結構な時間がかかるだろう。
――これは、時間との勝負だ。
「少し、お待ちください」
二人に断りを入れると、ノーラはすぐに靴を脱ごうとして……止まる。
さっきアンドレアと話をしたばかりではないか。
ノーラに足りないのは、恥じらい。
ノーラとしては靴と靴下を脱ぎ、スカートをたくし上げて一気にジャンプして帽子を取りたい。
だが、その行動には何ひとつ恥じらいの欠片もない。
淑女の片鱗すら感じられない。
ここが街中でこの二人が一般人ならば、通りすがりの痴女として靴を脱ぐのも可能かもしれない。
だが、ここは王城で、ノーラはメイドだ。
ノーラの行動がアンドレアやトールヴァルドにまで迷惑を及ばすかもしれないのだから、安易に脱いではいけない。
……とはいえ、このままでは帽子は池に落ちてしまう。
ノーラは頭をフル回転させると、二人に向かって頭を下げる。
「申し訳ありません。少しの間、後ろを向いていていただけませんか? 帽子のためですので」
「え?」
「ああ、わかった」
二人は顔を見合わせて首を傾げたものの、そのままくるりと向きを変えて池に背を向ける形になった。
「ありがとうございます。すぐに済みますので」
本当は靴を脱ぎたい。
靴下も脱ぎたい。
泥汚れを落とすのは容易ではないし、足を洗った方が早い。
だが、ここは我慢だ。
忍耐が、恥じらいを育てるのだ。
……たぶん。
ノーラはスカートの裾をつまんで持ち上げると、一歩後ろに下がった。