迷惑をかけたくありません
「アンドレア様。貴族の女性が人前で歌うのは、あまり褒められたことではありませんよね?」
ティーカップを差し出してそう問いかけると、アンドレアの手がピタリと止まった。
「何ですか、それは。誰かに文句を言われたのですか? 誰です? 締め上げますから、教えてください」
美貌の貴婦人の口から流れるように物騒な言葉が飛び出したので、ノーラは慌てて首を振る。
「いえ、誰に言われたというわけではありません」
「そうですか? ……ああ、そうだ。あなたがここで働き始めた時に嫌がらせをした、困った子がいたでしょう? とりあえず厳重注意と減給の処分だったのですが……また、余計なことをしたらしいですね」
アンドレアの紅茶を飲む仕草は優美で、話している内容と雰囲気が合わない。
「ええと、パウラさんのことですよね? ……余計なこと、というのは」
「エンロート公爵令息の手引きをしたでしょう?」
確かにした。
というか、された。
だが、それを知っているのは当事者であるスヴェンとノーラとパウラ。
あとは話を聞いていたメイド達くらいだろうが、何故アンドレアが知っているのだろうか。
「私が主催するお茶会で、出席者が使用人であるノーラにちょっかいを出そうとしたのです。考え方によっては、私のものに手を出したと同じこと。それに手を貸した子を、放置するわけにはいきません」
きっぱりと言い切る横顔は、いつもの上品なアンドレアでありながら、鋭い視線が印象的だ。
「エリアスがアレなおかげで、間に合ったから良かったものの。ノーラに何かあったらどうするのですか」
「……アレ、ですか」
言わんとすることはわからないでもないが、エリアスはアンドレアにまでちょっとしたストーカー扱いされていたのか。
そしてアンドレアに情報を伝えたのは、エリアスか。
確かに、あの時事情を説明したのだからパウラの存在を知っている。
「まあ、エンロート公爵令息も馬鹿ではありませんから、無理強いはしないと思いたいですが。……何にしても、私のものに手を出す手伝いをしたのです。無罪放免というわけにはいきません。それに、私が処分を下さなければ、あの子がどんな目に遭うかわかりませんし」
今、最後の方に何だか不穏な言葉が聞こえたのだが、気のせいだろうか。
……いや、気のせいだろう。
気のせいであってほしい。
「それで、どうなるのでしょうか」
パウラは確かに困った行動をしたが、ノーラの方からも釘を刺した。
更に何故かエリアスとノーラの仲を盛り上げる方向に気持ちが向いているようなので、今後は大丈夫だろうと思うのだが。
「そうですね。今まではメイドとして働いていたようですが、暫くは厨房の助手をしてもらいます。その働きぶり次第で、復帰させるか解雇するか決まるでしょうね」
「そうですか」
今回はノーラがスヴェンに会うよう手引きしただけだが、仮にスヴェンが悪意を持って誰かを呼び出そうとしていたら、事件が起こったかもしれないのだ。
そう考えれば、パウラへの処分は優しい方なのかもしれない。
「それで、人前で歌うことが褒められたことではない、でしたか。……ノーラ。あなたは陛下直々に招かれて、建国の舞踏会の歌い手を務めたのですよ? 自信を持ってください」
アンドレアはトールヴァルドに関することだと、少しばかり勢いが怖い。
以前、エリアスが『アンドレア様は重度の陛下好き』と言っていたが、この様子ではその通りなのだろう。
「ですが、一般的にはあまり褒められたことではありませんよね?」
「何ですか、今更。……エリアスのことですか?」
ずばり見抜かれてしまい、ノーラはうなずくしかない。
「はい。……私が歌うことで、迷惑をかけてしまうのではないかと、思いまして」
「エリアスならば、気にしませんよ。何か言う相手は潰すでしょうし、問題ありません」
また、さらっと恐ろしいことを言っている。
「あの。それって問題だと思うのですが」
思わず突っ込むと、アンドレアは一口紅茶を飲んでカップを置いた。
「大体、歌を歌って何がいけないというのでしょう。そもそも、前の歌い手のレベッカのせいで、印象が良くないのですよ」
「レベッカさん、ですか」
「彼女がリンデル公爵の愛人なのは、公然の秘密でしたからね。妙に色っぽくて男性には人気がありましたから、かえって女性の顰蹙を買っていましたしね」
そこまで一気にいうと、アンドレアは悩まし気なため息をついた。
「だから、歌い手にそういうイメージがついてしまったのでしょう。……ノーラが悪いわけではないのですが。困ったものです」
「歌は、好きなんです。歌うと楽しいですし、喜んでもらえると嬉しいです。でも、それで迷惑をかけるのかと思うと……どうするのが正しいのか、よくわからなくなります」
焼き菓子をテーブルに置いたノーラを、アンドレアが手招きする。
手の動きで『隣に座れ』と言っているのがわかり躊躇するが、部屋には他に誰もいないし、主人の命なのだから従うべきなのだろう。
ゆっくりとソファーに腰掛けるノーラを見ると、アンドレアは満足そうに笑みを浮かべた。
「まあ、頭の固い連中や、嫉妬する人間はうるさいかもしれませんね。……それで? 歌うのをやめるつもりですか?」
エリアスのことかと最初に聞いてきたのだから、これは今というよりも将来のことを尋ねられているのだろう。
「その方がいいのかとも思います。……でも、きっと後悔するでしょう。そんな気持ちでは、一緒にいられません」
ノーラの答えを聞くと、アンドレアは小さくため息をこぼした。
「そんなに真面目に思いつめなくても大丈夫です。陛下も協力してくださいますよ」
「陛下、ですか?」
突然の登場に意味がわからず、ノーラは首を傾げる。
「そうです。陛下は『紺碧の歌姫』のファンですから。あなたが侯爵邸に囲われて、二度と歌が聴けないなんて、許しませんよ」
囲われるという表現はどうかとも思ったが、歌を待っている人がいるというのは、素直に嬉しい。
「それに、陛下はエリアスも気に入っています。王太子となる前に命を助けられて以来の友人ですしね。あの優秀さも腹黒さしつこさも評価しています」
それは褒めているのだろうかと疑問が浮かんだが、何となく口を挟むのもはばかられ、大人しく話を聞く。
「ノーラが歌えないという理由でエリアスが自分から離れるのも、許しませんよ。きっと」
「離れる、というのは何でしょう?」
「カルムを継がずに平民になる、とかでしょうね」
「まさか。そんなことは……」
跡を継ぐかどうかはともかく、平民になるなどありえない。
そう思ったが、思い返せば少し前にそんなことを聞かれた気がする。
カルムを継がなかったら、と言っていたが……あれはまさか、本気なのだろうか。
「ノーラのためなら絶対にないとは言えないのが、怖いところですね。それは陛下もわかっていますから、手を打つと思いますよ」
確かに。
こう言っては自惚れているとは思うが、ノーラがそれをお願いすれば、エリアスは貴族の立場を捨てるかもしれない。
だが、それはトールヴァルドはもちろんのこと、ノーラだって望んでいない未来だ。
エリアスのものを取り上げるくらいならば、離れたほうがいい。
少なくとも、ノーラはそう思っている。
「エリアス様が私のために平民になるとするならば、それを阻むには引き離すのが手っ取り早いですね」
すると、それを聞いたアンドレアが目を瞠り、次いで苦笑した。
「ですから、あなたのことも陛下は気に入っているのですよ? そんなことはしません。……大丈夫ですよ」
優しい言葉に、ノーラはかえって困惑する。
エリアスのために離れろと言われるのなら、理解はできる。
だが、このままでは迷惑をかけてしまうことに変わりはないのだ。





