私を見つけて、手を差し伸べて
「……はい?」
今、アランは何と言った?
「だから、ソフィアが婚約を解消してほしいと言いに行ったんだろう? その時に、断固拒否されて取り付く島もなかったと聞いたぞ。ソフィアが、大勢の中で伝えればさすがに承諾するだろうと言ったから……」
みるみる険しい顔になるノーラを見て、アランが口ごもる。
「……違うのか?」
「私はあの夜会までアラン様と婚約しているのを知りませんでした。ソフィア様を見かけたのもあの時が初めてです」
「だが、さっきソフィアと話したと」
「先日、我が家にソフィア様が来たんです。もう婚約者じゃないんだから、アラン様にちょっかいを出すなと怒っていました。自分は子爵令嬢で終わる人間ではないそうです。今に見てろと言って、帰って行きました」
仮にも侯爵夫人になろうという令嬢が口にする言葉ではないが、ソフィアは何故あんなに怒っていたのだろう。
ソフィアの嘘のせいで、ノーラは衆人環視の中の婚約破棄に陥ったのだ。
こちらが怒りたいくらいである。
婚約は解消されているし、アランはソフィアに夢中なのだから、何も問題ないではないか。
「おまえと婚約しているから、すぐにソフィアと婚約は難しいと話したんだ。手続きを待ってほしいと。ソフィアは納得せず、すぐに婚約破棄すればいいと主張していた。だが、まさか嘘をついてまで婚約破棄を勧めるとは思わなかった。……おまえには迷惑をかけてしまったな。すまない」
アランは静かに頭を下げた。
しばし黙ると、アランはお酒のグラスを手に取る。
「……誰も、俺を選ばない。いつもエリアスが上なんだ」
「ソフィア様がいるでしょう?」
「ソフィアだって、侯爵家が好きなだけなんだ。さっき言った通り、エリアスは縁談を断ってお前に求婚する時点で、爵位を辞退している。ソフィアが俺に声をかけてきたのは、その後。次期侯爵に決まった後からだ。……俺を好きなわけじゃないというのが、よくわかった」
グラスを回して揺れるお酒を見ながら、アランが愚痴をこぼす。
自信満々に婚約破棄を叫んだアランからは、想像できない姿だ。
情けないというか、打たれ弱いというか。
だが、勝手な俺様貴族よりは、まだ好感が持てる。
ノーラは下町の子供達を世話しているような気持ちになってきた。
「好きになってもらえる家があるだけでも、いいじゃないですか。誇れるお家ですよ。自信を持ってください。アラン様のことを好きじゃないと思うのなら、今からソフィア様を夢中にさせる素敵な男性になればいいじゃないですか」
アランはノーラを見つめると、一気にお酒を飲み干した。
「……おまえのこと、嫌いじゃない。だから、教えてやる」
面倒くさい乙女みたいな物言いだなと思っているノーラに、アランは近くの公園の場所を告げた。
「……ノーラ。私、気付いてたの」
楽屋でアランの話を伝えると、フローラはそう言って苦笑いを浮かべた。
「気付いてたって、何を?」
「灰茶色の髪の男の人は、あの夜会よりもずっと前からお店に来てたのよ」
「どういうことですか?」
「一年くらい前からかしら? 遠目でもわかるくらいには美青年で目立っていたから、何となく覚えていて。ノーラのいる日だけ来て、歌が終われば帰って行くから『紺碧の歌姫』のファンなのかな、とは思っていたの」
あの夜会の時はバタバタしていたのですぐにはわからなかったが、ノーラの家に灰茶色の髪の侯爵令息が来るという話を聞いて、思い至ったという。
「婚約破棄と婚約申し込みの件は、私にはよくわからないことだけど」
そう言って、フローラが取り出したのは一枚の楽譜。
地方に伝わる恋の歌。
ノーラが成り行きでエリアスとアランをお店に連れてきた日に、歌った曲だ。
「……一度、ちゃんと話をしてみたらどうかしら」
フローラは楽譜を広げると、歌詞を指差す。
『私を見つけて、手を差し伸べて』
「今度はノーラが見つけてあげて」
フローラはにこりと微笑んだ。
「店長、私、今日はこれで帰らせてもらってもいいですか」
滅多に私室に来ないノーラに驚いたようだったが、店長はすぐににやりと笑った。
「なんだ、ようやく青薔薇の君の気持ちが伝わったのかい?」
「青薔薇って……」
確か、最初にエリアスがノーラに会いに来た時に持ってきた花束だ。
扱いに困って、お店に飾ってもらおうと店長に渡したのだ。
「あの子、いつもいつも欠かさずノーラちゃんの歌を聴きに来ているから、話をしたことがあってね。花を贈るなら何がいいかと相談されたんで、青い薔薇を勧めたんだよ」
「店長が?」
では、店長はすべて知っていたのだ。
「ノーラちゃんの青みがかった黒髪と、あの子の青い瞳にかけたのもあるけどね。花言葉、前にも教えただろう? あれには、もうひとつ花言葉があってね……」
ノーラは店を出た。
聞きたいことが沢山ある。
エリアスと、話をしなくてはいけない。
アランが教えてくれたのは、丘の上の公園だった。
エリアスは、落ち込むと必ずそこに行くらしい。
公園の中に入るが、意外と広い。
どこにエリアスがいるのだろうと辺りを見まわしていると、ノーラが来た方向から一人の男性が走ってくる。
「ノーラ!」
一瞬エリアスかと思ったが、髪の色が黒いので違う。
ノーラの前で息を切らすのは、以前にも花をくれた男性だった。
『紺碧の歌姫』のファンだと言っていたが、何故ここにいるのか、ノーラの名前を呼び捨てにしているのかよくわからない。
「あの、何か御用ですか?」
ノーラが尋ねると、男性はノーラの手を握ってきた。
びっくりして手を引こうとするが、強い力で離すことができない。
「ノーラ、酔っ払いに絡まれたんだって? 俺がいれば良かったんだけど。大丈夫?」
「あの、離してください」
ノーラの声が聞こえないのか、男性は手を握ったまま捲し立てる。
「ノーラに触ろうなんて、許せないな。その後、貴族にも何か言われたんだって? 貴族ってやつは、本当にろくでもない」
「そんなことありません。酔っ払いから助けてくれたんです。あの、手を離してください」
すると、男は手を離したかと思えば、ノーラの両肩を掴んでくる。
「あんな貴族の肩を持つのか、ノーラ! 俺の方が、あんたをずっと見てきた」
指が食い込むほどの力で掴まれて痛いが、それ以上に男に恐怖を感じる。
まるで恋人が浮気をしたかのような問い詰め方だが、ノーラはこの男性の名前すら知らない。
ファンとして接したことがあるというだけだ。
それが、何故こんなことをするのか全くわからない。
「ノーラ、俺のことが好きなんだろう? お友達の金髪のお嬢さんが教えてくれたんだ」
何のことだと混乱するノーラの脳裏に、ふとソフィアの言葉が浮かぶ。
『しらばっくれても無駄よ。……今に見てなさい』
まさか、ソフィアがこの男性に嘘を吹き込んだというのか。
どれだけノーラのことが邪魔なのだ。
「それは誤解です。私はそんなこと言っていない」
男性の手を振りほどこうと必死に抵抗するが、更に力を強めてきた。
「おまえは俺のものだ、ノーラ!」
肩を引き寄せられ、男性の顔が近付く。
恐怖と嫌悪で体がこわばって、ノーラは動くことができなかった。