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名前を忘れました

「返してください」

「いいよ。でも、俺の名前を呼んでくれるかな?」

「はい?」


 脈絡のない提案に、思わず首を傾げてしまう。

 橙色の瞳は楽し気に細められているが、特に悪意は感じない。

 一体、何なのだろうか。

 上位貴族の御令息の考えていることは、よくわからない。


「そう言われましても。……エンロート公爵の御令息、ですよね?」

 恐る恐るそう口にすると、橙色の瞳がぱっと輝いた。

「そう。ようやく俺を認識してくれたね。自分で気付いたの?」

 まるで子供のように喜ぶ様子には、やはり害意を感じられない。


「いいえ。同僚に教えてもらいました」

 青年はうなずくとにこりと微笑む。

「それじゃあ、『紺碧の歌姫』ノーラ・クランツ。俺の名前を呼んでくれるかな」

 そう言って歩み寄ってきたが、さすがに少し近すぎる気がする。

 手を伸ばせば顔に触れられる距離に居心地が悪くなり、ノーラは一歩後退った。


「いえ、あの……」

「何? 恥ずかしい?」

「いえ。名前……何だったのか、忘れまして」


 少なくとも、フローラがカードに書いてあった名前を読み上げたし、エリアスにも教えられた気がする。

 だが、いかんせん興味がないので記憶に残らなかったのだ。

 ノーラは本人に名乗られていないので、仕方がないと言えなくもないが、さすがに少し気まずい。


 こんな時、上品な貴族女性ならば上手くかわせるのだろうか。

 今のノーラではどうにもならないので、正直に言うしかない。

 すると、呆気にとられた様子の美青年は、すぐに笑い出した。



「うーん、そうか。そんなに俺のこと、興味ないんだね」

「はあ。まあ」

 うっかり相槌を打ってしまい、少し緊張して答えを待つが、青年は笑顔のままだ。


「スヴェン・エンロートだよ。スヴェン、でいい」

 どうやら大して気にしていないらしく、スヴェンはそう言ってノーラの答えを待っている。

 意外と心の広い人なのかもしれない。

「では、スヴェン・エンロート様。茶葉の缶を返してください」

 そう言って手を差し出すと、スヴェンは何度か瞬きをした。


「……ためらわないね」

「呼べと言ったのはあなたです。約束です、返してください」

 すると、スヴェンは口元に手を当てて何やら考え始めた。


「うーん。もう少し恥じらってくれてもいいんだけどな」

「呼べば返すと言いました。返してください」

 語気を強めて訴えると、スヴェンから小さなため息がこぼれた。


「仕方ないな」

 ようやく戻された茶葉の缶を受け取ると、缶ごとノーラの手を包み込むように握られる。

「放してください」

 少しばかり睨みつけてみたのだが、スヴェンは楽しそうに微笑むばかりだ。



「……もうすぐ、君が歌う舞踏会があるね」

「よくご存知ですね」

「そりゃあ、『紺碧の歌姫』のファンだからね」


 至近距離でにこりと笑みを向けられれば、ノーラには刺激が強い。

 容姿が整った人達は、もう少し一般人への攻撃力を考えて行動してほしいものだ。

 茶葉の缶を放せば簡単に距離を取れる気もするが、ようやく返してもらったので手放したくない。

 折衷案として視線を逸らすと、スヴェンが笑う声がした。


「俺に、エスコートさせてほしい」

「え? お断りします」

 思わず向き直して即答すると、スヴェンはぽかんと口を開けている。

 どうやら断られるとは思っていなかったらしい。


 エリアスのことを知らないにしても、その自信はどこから来るのだろう。

 ……いや、容姿と身分からか。

 よく考えれば、自信を持ってもおつりがくる物件だった。


 心のままに即答してしまったが、よく考えれば相手は公爵令息だ。

 失礼にならないように、もう少しやんわりと断るべきだったかもしれない。

 こういうところが、ノーラに不足しているところだ。


 わかってはいても、咄嗟に上手く対応できるとは限らない。

 これはやはり、場数を踏んで身につけるしかないだろう。

 道のりは遠いが、まずは歩き出さなければ始まらない。



「少しは考えようよ。理由は聞かないの?」

「妹さんの敵討ちですか?」

 エンロート公爵令息がノーラに関わるとなると、それが一番の理由な気がする。

 だがスヴェンは、ノーラの答えに首を振った。


「まさか。ヴィオラは愚かだったよ。擁護する気はない。……寧ろ、毒杯を防いで修道院送りで済ませたカルムの坊主の行動の方がわからないね」

 そう言うと、スヴェンは握っていたノーラの手を放す。

 これ幸いと茶葉の缶を抱え込むノーラを見て、スヴェンの口元が綻んだ。


「その言い方では、まるで妹さんが死んでも構わないように聞こえます」

「エンロートの名で、陛下に背く真似をしたんだ。死罪でもおかしくはない。特に本人に罪の意識が薄いからね。ああいうのは、放って置くと同じことを繰り返す。エンロートにとっても、王家にとっても邪魔だよ」


 血を分けた妹だろうに、凄い言いようだ。

 だがノーラも曲がりなりにも貴族の端くれなので、スヴェンの言っていることはわからないでもない。

 ましてヴィオラには毒を盛られかけているので、擁護する気はなかった。


 でも、だったら何故、エリアスは毒杯を止めたのだろうか。

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