考えなくてもいいことが、世の中にはあります
エリアス達との食事で自身の失礼を自覚したノーラは、翌日すぐにアンドレアに謝罪した。
気分を害しただろうし、そばに仕えるのも辞退しようと申し出たのだが、目を丸くしたアンドレアに一笑されてしまった。
「陛下とエリアスの話を聞いていましたから、あなたに悪気がないのはわかっていましたよ。だから、メイド長にも席を外してもらっていました。公衆の面前で私の招待を断ったとなれば面倒ですが、今回は何も気にしなくていいのですよ」
楽しそうに笑うと、そう言ってノーラの淹れた紅茶に口をつける。
アンドレアは美しくて上品で胸が大きい上に、心も広い。
ノーラは感謝と感動で目の前の美女を拝みたくなるのを、ぐっと堪えた。
「でもノーラの言う通り、勉強は必要ですね。エリアスと夜会に出るのは賛成です。私も、色々と教えてあげますからね」
「は、はい。ありがとうございます」
とても光栄ではあるが、何となく怖いのは気のせいだろうか。
少し引くノーラの手を握りしめると、橙色の瞳の美女は優雅な笑みを浮かべた。
お茶会の当日、ノーラは朝からお茶会のための準備で大忙しだった。
アンドレアの支度が主な仕事なのだが、これが思った以上に大変だ。
ノーラの支度と言えば、顔を洗って髪をまとめて服を着るだけである。
さすがに王城に出入りしているので今は化粧をしているが、力仕事のバイトの場合には化粧すらしないことが多い。
ドレスを着る場合でもあまりそれは変わらないので、大した時間がかかることはない。
だが、そこは生粋の侯爵令嬢にして王妃となる女性。
湯浴みから始まった支度は、仕上がるまでにノーラの何倍もの手間暇をかけて行われた。
高価な化粧水や、いい香りの香油で磨き上げられたアンドレアは、その時点で既に美しさが溢れんばかりだ。
その上で清楚な印象のドレスを身にまとい、艶々に輝く髪に飾りをつけ、控えめながら色香を感じる化粧を施す。
すべての支度を終えたアンドレアは、思わず見惚れるほどの美しさだった。
「とても綺麗です。女神がいるとしたら、アンドレア様のような美しい方なのでしょうね」
思わずそうこぼすと、アンドレアは扇を口元に当て、優雅に微笑んだ。
「ありがとう。でも、陛下のドレス姿も素晴らしいのですよ?」
「陛下の……ドレス姿、ですか?」
聞き間違いだろうかと思ったのだが、アンドレアは笑顔のままだ。
「エリアスは陛下よりも線が細いし、顔立ちが中性的ですから、きっとドレスも似合うでしょうね」
エリアスのドレス姿……。
既に並みいる女性を蹴散らせる圧倒的な美貌の持ち主が、化粧をしてドレスを着たとしたら……。
「凄い美女が誕生しますね」
「でしょう? 今度、お願いしてみましょうか」
「え? あの」
頭の中に絶世の美女が登場したせいで肯定してしまったが、よく考えるとおかしい気がする。
だが、アンドレアはふわりと微笑むと、そのまま扉に向かう。
「いってきますね、ノーラ」
上品に微笑むアンドレアとメイド長を見送ると、暫しの間を置いて、ノーラは首を傾げた。
「陛下とエリアス様の、ドレス……?」
何故そうなったのかよくわからないが、少なくともトールヴァルドはドレスを着たことがあるような口ぶりだった。
「……うん。忘れましょう。仕事仕事!」
アンドレアがノーラをからかったのなら悩むだけ無駄だし、事実なのだとしたらそれはそれで危険だ。
考えなくてもいいことが、世の中にはある。
危ない橋を渡るよりも、まずはこの部屋を片付けなくては。
ノーラは腕まくりすると、早速仕事にとりかかった。
部屋の片付けを終えると洗濯物を済ませて、そのまま厨房で芋の皮むきを手伝う。
厨房での仕事は久しぶりだが、単純作業を続けるのも嫌いではない。
黙々と時間を忘れて皮むきをしていると、いつの間にかノーラの傍らに人影があった。
「ノーラ、この茶葉を持って行ってくれない?」
メイド長と共にお茶会に向かったはずのパウラは、そう言うと繊細な細工の施された缶をノーラに差し出した。
「パウラさんが戻る時に、持って行けばいいのではありませんか?」
「別の準備があるのよ。この茶葉を早めに届けたいの」
お茶会の給仕というものを経験したことがないので段取りは不明だが、用意した茶葉がなくなるほど紅茶を飲む場合もあるのか。
「でも、私は会場に入るわけには」
わざわざアンドレアが給仕から外してくれたのに、届け物とはいえ会場に入るのはどうなのだろう。
「大丈夫よ。会場のホール手前の回廊で待っている人がいるから、その人に渡すだけでいいわ」
会場自体の場所はわかるし、回廊での受け渡しだけならばアンドレアや招待客の目に入ることもない。
それに茶葉を早く届けなければ、アンドレアに迷惑がかかってしまう。
「わかりました。いってきます」
厨房の使用人に声をかけると、ノーラは茶葉の缶を持ってすぐに回廊に向かった。
件の回廊は白い壁が美しく、日の光を反射して花の模様が浮かび上がる細工が見事だ。
回廊に到着したものの誰の姿も見当たらず、困ったノーラは小さなため息をついた。
場所は合っているのだから、何らかの理由で行き違いにでもなったのかもしれない。
このまま会場に入って誰かに缶を渡すべきか、それとも厨房に戻ってパウラにお願いするべきか。
「こんにちは」
突然かけられた声に振り向くと、そこには深紅の髪、橙色の瞳の美しい容姿の青年の姿があった。
「また会えたね、『紺碧の歌姫』」
人懐こい笑みを向けられるが、ノーラとしては特に関わる理由がない。
「こんにちは」
挨拶と共に頭を下げるが、これ以上話すこともない。
桃の花を贈ったのはエンロート公爵令息だとエリアスは言っていたが、ノーラは名乗られたわけではないし、今は茶葉を届けるという大事な仕事がある。
そのまま自然に立ち去ろうとすると、手にしていた茶葉の缶をひょいと取り上げられた。





