惚れた弱みというやつです
「本当に、挨拶するの?」
帰りの夜道を二人で歩いていると、ふとエリアスが問いかけてきた。
「はい。こういうものは、先手必勝です」
ノーラ自身の価値という点では惨敗なのだから、せめてこれくらいはしっかりしておきたい。
だが嬉々として両親に紹介するのかと思いきや、エリアスは何だか浮かない表情だ。
やはり、エリアスから見ても望みのない戦なのだろうか。
今更それを理由にノーラと別れるとも思えないが、このままでは爵位はおろか貴族としての地位そのものを捨てる可能性だってゼロではない。
それならそれでたくましく生きていけそうにも見えるが、本来エリアスが持っていたものを取り上げることになるのは心苦しかった。
「……迷惑でしたか?」
先延ばしするよりは早い方がいいと思ったのだが、エリアスの考えるタイミングがあったのかもしれない。
すると、エリアスの口元が綻ぶ。
「まさか。……嬉しいな、と思って」
「嬉しい、ですか」
「ああ。公に俺の恋人だって言ってくれるんだろう? 嬉しいよ」
エリアスは楽しそうだが、何だかノーラが思っていた挨拶と違うような気がする。
「いえ、あの。ご挨拶をするだけですので、そんな宣言をするわけでは」
「俺はするよ」
――何てことだ。
しれっと言っているが、かなり凄いことなのだとエリアスはわかっているのだろうか。
『はじめまして』が上手くいくのかもわからないというのに、『恋人です』は難易度が高い。
眉間に皺を寄せて考え込むノーラを見て、エリアスが苦笑している。
「挨拶、やめる?」
「……します。言うと決めたんです。します。しまくります」
ここで恐れて撤退しては、今後ずっと怯えて生きていくことになる。
戦死するにしても、潔く散って見せようではないか。
思わず拳を握るノーラの頭を、エリアスの手が優しく撫でた。
「うん。ありがとう、ノーラ」
「だから、その顔でそういうことは……」
ふと、眉間に皺を寄せ始めたノーラを見て、エリアスが首を傾げる。
「どうしたの? ノーラ」
「私、エリアス様に失礼でしょうか」
「何? 何の話?」
「いえ、先程の身分の話で。陛下やアンドレア様に対して失礼のないように、というのはわかりますし気を付けようと思います。ただ、それ以外の方にどこまでどうしたらいいのか、まだわからなくて」
国王や王妃となる女性を敬うべきというのは、すんなりと理解できる。
では、そのほかの貴族はどうしたらいいのだろう。
他者を敬うというだけならばいいのだが、身分をわきまえるというのが慣れていないぶん、しっくりこないのだ。
「身分で言うなら、エリアス様は名門侯爵家の御令息です。となると、エリアス様に対する日頃の私の態度は不敬なのでしょうか」
真剣に聞くノーラを見たエリアスは数回瞬きをすると、こらえきれないとばかりに吹き出した。
「何を言うのかと思えば。……俺はノーラの恋人だよ? 公衆の面前で罵倒するというのならともかく、こうして二人で話しているぶんには何も気にしなくていいよ」
美貌の名門侯爵令息を公衆の面前で罵倒する、貧乏男爵令嬢……何の罰ゲームだろうか。
想像するだけで恐ろしいが、とにかくエリアスに関しては問題ないらしい。
「アラン様も、平気でしょうか」
「少なくとも、今は何も問題ないよ」
それは良かった。
エリアスやアランと食事しながら気を付けなければいけないとなれば、窮屈で仕方がない。
まあ、窮屈とか言っている時点でノーラの貴族力の低さが垣間見えるわけだが。
「ノーラは、そのままでいいよ」
「ええ? さっきの話と矛盾しませんか?」
「王族に対しての礼儀や、貴族としての振舞いは必要だよ。ただ、それに必要以上に浸ってしまったら、ノーラがノーラじゃなくなってしまうと思うんだ」
エリアスは非難というよりも、心配するような眼差しを向ける。
「例えば、アランが婚約破棄宣言をした夜会で、『あなた、どなたですか?』って聞いているだろう? 世慣れた女性ならば、笑顔でかわしながらアランの容姿や言動などから身分を推察し、穏便に済ませようとするだろう」
そう言うと、エリアスはそっとノーラの手を取った。
「でも、そんなのノーラじゃない」
暗に上品にかわすことはできないだろうと言われて少し切ないが、実際できていなかったので何も言えない。
「……でも、必要なんですよね?」
「必要だよ。けれど、飲まれないでほしいんだ。貴族の慣習に染まった人間になってほしいわけじゃなくて、そういう人間達から身を守るために立ち振る舞いを身に着けた方がいいってこと」
エリアスはそう言うと、ノーラの手に自身の手を重ねた。
「表面では笑顔で親しげでも裏では足を引っ張り合う奴らがいる。そういう中でノーラみたいにまっすぐな人は癒しだけど、同時に危険だからね。標的にならないよう、身を守る術が必要だ」
『それから、まっすぐで歪んでいないところも安心する。そういうのばかり見ていると、やっぱり疲れるからね。……ノーラといると、癒されるんだよ』
エリアスの言葉が脳裏によみがえる。
恐らく、エリアス自身はノーラの態度を特に気にしてはいないし、どちらかと言えば好ましく思ってくれている。
だが、それでは貴族社会を生き抜けないと心配もしている。
同時に、ノーラが貴族然とした御令嬢になるのは嫌だと思っているのだろう。
「……つまり、上手く立ち回れということですか?」
王族への敬意は当たり前だし必要なので、これは除外するとして。
身分や年齢が上の人間を敬うこと自体も、当然なので問題ないとして。
貴族だからと自身を縛り付けることなく、それでいて、そういう人間達に足元をすくわれないように振舞えと言いたいのだろうか。
貴族らしさを習得しながらも、ノーラらしさを失わない。
言葉で言えば簡単だが、なかなか難しい。
「まあ、そういうことかな」
麗しい笑みに騙されそうになるが、結構な難題だ。
「エリアス様と違って、私は凡人ですからね。そんなに簡単に切り替えられませんよ」
「わかっているよ。もちろん、俺もできる限りフォローする」
手を握られ真摯に見つめられると、顔の良さに危うく流されそうになるのだから恐ろしい。
「……貴族令嬢として不勉強なのは間違いないので、そこは努力します。でも、上手くいくとは限りませんからね。根っからのほぼ平民なんですから」
「わかっているよ。そのノーラが好きなんだ」
そう言って手の甲に唇を落とすエリアスは、絵本に出てくる王子様のようで、もう何とも文句を言いにくい。
これが惚れた弱みというやつだろうか、とふと思い、その考えに頬が熱を持つのがわかった。
「どうしたの? ノーラ」
「何でもありません」
「そう?」
悪戯っぽく覗き込む空色の瞳は本当に綺麗で、それが何とも悔しくて。
ノーラは必死に美貌の青年から視線を逸らした。





