こじれた婚約
エリアスが店を出てすぐに、灰茶色の髪の青年が入店してくるのが見えた。
戻ってきたのだろうかと見てみれば、髪色は同じでも瞳の色が違う。
アランはノーラを見つけると、手招きをした。
面倒ではあったが、アランのテーブルに向かう。
店内ではきちんと大人しく飲み食いしているらしいので、バイトの身としてはありがたいお客様である。
「今、エリアスが出て行ったが。……喧嘩でもしたのか?」
手慣れた様子で酒を注文する様は、初対面の頃の俺様貴族と同じ人とは思えない紳士ぶりだ。
「いいえ。喧嘩するほどの仲でもありませんし」
所詮は賭けの対象として接していたのだろうし、さっきの話で『お友達から』も多分解消されただろう。
「じゃあ、俺にするか?」
「……はい?」
「もう一度、俺と婚約するか? 俺から申し込んだら、考えてくれるか?」
どういう意味かわからなかったが、アランは静かにノーラの返事を待っている。
「第二夫人の件ならお断りしましたよ? ソフィア様からも釘を刺されました」
「そうか」
『侯爵家の第二夫人だぞ』と以前のように怒るのかと思えば、何も言ってこない。
アランは注文した酒が届くと一口だけ飲んで、ため息をついた。
「やっぱり、エリアスがいいのか。俺じゃ駄目か。……昔の知り合いなんだろう?」
「え? 誰がですか?」
「おまえとエリアス」
身に覚えのない言葉に、ノーラは首を傾げる。
「小さい頃に、迷子になったエリアスを助けたと聞いている。歌を聴かせてくれて、それがとても上手で。不安で泣いていたエリアスを励ましてくれたと。……違うのか?」
そんなこともあったような、なかったような。
ノーラは下町で遊ぶことも多かったので、子供たちの面倒を見ることも日常茶飯事だった。
「守ってあげるとか何とか言われて、とても心強かったと言っていたぞ」
『大丈夫、守ってあげる』
その言葉に、小さい頃の記憶がよみがえる。
珍しく貴族の子供が路地に迷い込んでいて、あんまり泣いていたからそう言って励ましたのだ。
灰茶色の髪の、綺麗な顔をした子供だった。
そう言えば、エリアスも迷子の子供に同じ言葉をかけていた。
あれは、自分が言われた言葉だったというのか。
以前、子供に歌を聴かせているのかと問われた時も、何故知っているのかと疑問だった。
あれも、自分が歌を聴いていたからか。
「あれが、エリアス様? ……でも、子供の頃のことを、よく覚えていますね」
ノーラだって、今の今まで忘れていたのに。
「それに、何で私だってわかるんですか?」
「ノーラという名前は覚えていたぞ。……おまえは覚えていないんだな」
「迷子の相手なんて日常茶飯事でしたし。まあ、貴族の子は珍しかったですけど」
「俺は、当時『歌が上手いノーラ』の話を、耳にタコができるくらい聞かされた」
「それは……お疲れさまでした」
「エリアスは一年ほど前に、偶然この店に来た。その時に、おまえの歌を聴いたらしい。面影があるし、歌声でわかったと言っていたよ」
店の人間に聞けばノーラの名前はわかるだろうが、それでもよくわかったものだ。
ノーラなら無理だろう。
「その頃、俺達兄弟にとある縁談が来ていた。カルム侯爵家の息子ならどっちでも良いというふざけた話だ」
それはまた、上流貴族では仕方ないのかもしれないが、随分と失礼な縁談だ。
「ふざけた縁談でも家同士のつながりとしては良い話だったから、爵位を継ぐ予定のエリアスが適任だった。だが、エリアスは両親に気になる人がいると言って断った」
グラスを傾けて、アランはため息をつく。
「代わりに俺が縁談を受ければ、俺が爵位を継ぐことになる。縁談はそういう相手だったが、エリアスはそれで構わないと言った。だから、両親も最後には折れたんだ」
おかげで今も俺が継ぐことになっている、と笑うアランの顔は険しい。
「俺は爵位を継ぎたかったわけじゃない。それまでは侯爵家の人間として、結婚相手が選べなくても仕方ないと思っていた。だが、エリアスだけが好きな女と結婚すると思うと、腹立たしかったよ。周囲がエリアスに継いでほしいと思っているのはわかっていたから、なおさら不愉快だった」
一口酒を飲んだアランは、結局その縁談は破談になったがな、と呟く。
「エリアスはおまえの親から承諾の意思を伝えられて、婚約の手続きを始めた。……だが、王城での書類の手違いで俺が婚約者になってしまった。エリアスはすぐに変更を求めたが、できなかった」
「……何故ですか?」
「俺が拒否したからだ」
アランはそう言って苦笑いすると、残りの酒を飲み干した。
「俺は、昔から何をしてもエリアスに勝てなかった。双子なのにと比べられていた。ずっと、エリアスに嫉妬していたんだ」
そう言えば、エリアスも『昔から俺に対して対抗意識が強いんだ』と言っていた。
「じゃあ、エリアス様に嫌がらせしたということですか?」
「そうだな。自分でも馬鹿だとは思うが」
一時的だとしても、顔も知らないノーラと婚約までするとは。
ノーラには全く理解できないが、アランの嫉妬は相当にこじれているようだ。
「正式な婚約者である俺が拒否しては、エリアスに為す術はない。婚約にも解消にも申請と許可がいる。何度も変更するのは外聞が良くないというのもあって、すぐに解消することを両親は許さなかった。……あわよくば、そのまま俺が結婚して、エリアスが侯爵を継ぐのを狙っていたのかもしれないな」
「じゃあ、私が婚約を知らなかったのは、ご両親の意向ですか?」
ほとぼりが冷めるまで内密にして、解消しようとしたのだろうか。
「いや。それはエリアスがやったことだ」
首を傾げるノーラの前で、アランが酒のお代わりを注文する。
店でもお高い部類の酒なので、何となく『毎度ありがとうございます』と言いたくなるが、ぐっとこらえる。
「エリアスは手違いがわかってすぐに、クランツ家に連絡した。だが、おまえの父親は婚約自体は承諾していたが、おまえ自身には伝えていなかった。侯爵家からの突然の婚約打診に半信半疑だったんだろう。正式に話がまとまるようなら、娘に話そうと思っていたらしい。無駄に期待させてはかわいそうだからとな」
父の気持ちは、わからないでもない。
ノーラなら半信半疑どころか、余すところなく全部疑うだろう。
「俺とおまえの婚約をすぐに解消するのは難しかった。だが、婚約しているということは、その間に他の男におまえを取られる心配はないという利点もある。エリアスはそれを利用したんだ」
「よくわかりません」
「俺が婚約者だと知れば、良くも悪くも意識するだろう? それを阻止するために、内密にさせた。外堀を埋めさせないためでもあるな。俺は婚約をしたかったわけじゃないから、わざわざ他人に言わないし、おまえに接触もしない。おまえの親が漏らさなければ、誰も知らない状態になった。その上で、婚約解消の近道を探した」
確かに、婚約者だと知っていれば、気になって当然だ。
恋心を抱かないにしても、いずれ伴侶となる人だからと特別な目で見るのは普通だと思う。
「ノーラ・クランツのことは口にしなくなり、気の迷いだったとばかりに、夜会で他の女達と踊っていた。……少なくとも、俺はそう思った。だから、婚約のことは忘れていった」
お代わりの酒に口をつけようとして、やめる。
「それも、あいつの思惑通りだったわけだ」
アランはノーラに説明するというより、自問自答しているようだった。
「俺はソフィアに出会って、恋をした。だがそこで自分には婚約者がいることを思い出した。ソフィアは第一夫人でなければ嫌だというし、俺だって名前しか知らない婚約者よりもソフィアの方が良かった」
「それで、婚約破棄ですね。……でも、何もあんなに大勢の目の前で言わなくてもいいんじゃないですか?」
ノーラは二股をかけられた上に婚約破棄された傷物の令嬢として、周知されてしまった。
無実とはいえ、多少なりとも恥ずかしいし情けない。
事情を話してもらえれば、いくらでも解消したのに。
すると、アランは呆れたとばかりに肩をすくめる。
「それは、おまえが婚約を解消しないと言ったからだろう」