裏庭のコンサート
「いえ、まだ結構です」
ノーラの返答を聞いたパウラは、口をぽかんと開けて固まる。
借りたシャベルを返すために土を落としていると、慌てた様子のパウラがノーラの手からシャベルを取り上げた。
「ちゃんと聞いていた? メルネス様よ? じきに王妃になる方なのよ?」
「聞いていますよ。でも、アンドレア様のそばに伺うには、一通りの雑務をこなせるようになってからだと」
「あなた、一通りの雑務どころか、おかしな仕事までこなしているじゃないの。悔しいけれど、問題なしよ。……問題があるとすれば、ちっとも貴族令嬢らしくないことくらいだわ」
パウラからのまさかの褒め言葉に、今度はノーラがぽかんと口を開けた。
「な、何よ」
「パウラさんから褒めていただけるとは思わなかったので。……嬉しいです」
最初の口振りからして、アンドレアのそばに侍ることには否定的だったはずなのに、随分と変化したものだ。
一生懸命働いたノーラを評価してくれたのだろうが、気に入らないからという理由で評価を下げない辺りは、やはり根がいい人なのだと思われる。
何だか嬉しくて笑みを浮かべていると、パウラの顔がほのかに赤くなってきた。
「あ、あなた、そうやって庭師や料理人を懐柔しているのね」
懐柔とは穏やかではない言葉だが、一体何のことだろう。
「別に、何もしていませんよ。普通にお仕事をしただけです」
「それよ。そういうところよ。……それで、本当にメルネス様のところに行かなくていいの?」
何度も念を押すところを見ると、やはりアンドレアのそばに行くのは名誉なことなのだろう。
「私は王城で働きたいとお願いしました。まずは仕事を十分にこなせるようになるのが先だと思います。アンドレア様のおそばに行きたい方がいるのなら、そちらが優先だと思いますし。……それに、このままでも十分勉強になります」
「勉強?」
「貴人の振舞いを学びたくて、ここで働かせてもらったんです。アンドレア様はもちろん素晴らしい淑女ですが、他の方の様子を見るだけでも学びは多いです。あと、お金にもなります」
シャベルを持ったままのパウラは、何か胡散臭い者でも見るような眼差しをノーラに注ぐ。
「あなた、貴族の御令嬢でしょう?」
「名ばかりの貧乏貴族ですよ。きっと、世の貴族の中で私が一番バイトをしていると思います」
「……バイトって、例えばどんな?」
「そうですね。お店の売り子や皿洗いは基本として。あとは芋の収穫とか、荷運びに染色に陶芸……今も続けているのは、歌ですね」
指を折って主なバイトを挙げると、最後の一言でパウラの瞳が輝いた。
「そうだ。あなた、建国の舞踏会で歌姫を務めたんでしょう? 少しでいいから、聞いてみたいわ」
「休憩時間でしたら、いいですよ」
思った以上にパウラが反応したので、ノーラは少し嬉しくなりながら片付けを始めた。
「……パウラさん。少しって、言いましたよね?」
休憩時間に指定された裏庭に行くと、そこには既に大勢の使用人達が集まっていた。
顔を見たことのある庭師や料理人をはじめとして、メイドや騎士と思しき格好の男性までいるのだが、どういうことだろう。
「それが。ノーラの歌を聴くってちょっと口を滑らせたら……こんなことに」
ノーラの素性は隠されていないので、ノーラ・クランツという名前は誰でも知ることができる。
制服を着て働いている状態とドレスアップした『紺碧の歌姫』ではさすがに様子が違うので気付かなかっただろうが、名前を聞けば思い当たる人もいたのだろう。
となれば、仕事の合間の余興としてそれなりに楽しめそうだ、と判断されたということか。
パウラはああ言っているが、女性の「ちょっと」は「ちょっと」ではない。
集まった人数から推察するに、かなりの勢いで触れ回ったのだろう。
パウラは根はいい人なのだろうが、口が軽いというか、そういうノリに弱い人なのかもしれない。
今回は安易に承諾したノーラにも責任があるし、歌うこと自体は問題ないのだから、腹を括ろう。
「そんなに時間もありませんし、伴奏もありませんから……一曲だけですよ?」
断わられると思っていたらしいパウラの顔が、ぱっと明るくなった。
「いいのよ、ありがとう」
満面の笑みのパウラに押されて裏庭に入って行くと、どこからともなく拍手で迎えられた。
ノーラを人垣の中央に押し込むと、パウラは人垣に戻って楽しそうに笑みを浮かべている。
どうも調子のいい人のようだから、今後は少し気を付けよう。
「皆さん休憩時間中だと思いますので、一曲だけ歌いますね」
そう言うと、ノーラは軽く深呼吸をした。
豊かな森に暮らす鳥たちが、ある日木の枝に引っかかった風船を見つける。
緑の木々の間で赤い風船はとても目を引いて、鳥たちは興味津々で集まってくる。
新しい仲間だろうか、違う動物だろうか。
皆で話し合っているうちに、風船は風に飛ばされ遠くに行ってしまう。
少しコミカルな曲調で、行動しなければ失うものがあると教えてくれる歌だ。
歌い終えると、一瞬の間を置いて、拍手が巻き起こった。
笑顔で拍手をしてくれる人がいると、それだけで嬉しくなる。
「――これは、どういうことですか?」
ノーラが笑みを浮かべたその時、女性のよく通る声があたりに響いた。