これが、乙女心らしいです
「け、結婚って……」
驚くノーラを尻目に、フローラはいくつかの楽譜をまとめ始める。
「初対面からプロポーズされていて……というか、それ以前から虎視眈々と婚約しようとしていたわけでしょう? エリアス様が結婚を考えていないわけないし。あの危険美生物の恋人になったのなら、それくらい考えるでしょう?」
「虎視眈々って……」
しかも何だか耳慣れぬ不穏な言葉があった気がするが、とりあえずはフローラに差し出された楽譜を受け取る。
「それですが……ちょっと、聞いてもらえます?」
「いいわよ。さあ、どうぞ」
フローラは楽譜を片付けるとノーラの前にコップに入った水を差し出す。
濡れないように楽譜を下げると、一口水を飲んでのどを潤した。
「何だかんだとありましたが。一応、エリアス様に好意はあります」
「恋人なんだからそれを言う必要はないと思うけれど……聞いて安心したわ。でも、一応なのね」
「比較対象がいない……いえ、やっぱりいないので、何とも言えません」
「何でちょっと悩むのよ」
ノーラは今まで男性とお付き合いしたことなどないし、婚約者だっていない。
書類上ではアランが一時的に婚約者だったが、ノーラは知らなかったし、その書類も白紙にしてくれたらしい。
となると思いつくのはアランの『お試し』だ。
エリアスと同じ顔と声で『好きだよ、ノーラ』と言われ、エリアスに言われたらどうかと考えて、好意に気付く一端になったわけだが。
……あれは、比較対象と言ってもいいものだろうか。
「まあ、そういうことで現在恋人なわけですが。年齢的にも恋人のまま、のんびりと何年も過ごすという感じではないですよね」
「まあ、そうね。貴族令嬢の結婚適齢期にも色々考えがあるだろうけれど、前半戦ではないのは確かだわ」
上位の貴族ともなれば年齢が一桁で婚約者がいるのも珍しくないし、生まれる前から決まっているという場合すらある。
さすがに大半は社交界デビューした後だが、それを踏まえてもノーラはそろそろ適齢期後半に入っていた。
身分も美貌も財産もない以上、なけなしの若さがあるうちにどうにかめどをつけたいと思うのは自然なことだろう。
「しかも、エリアス様は名門侯爵家の御令息です。跡を継ぐのか継がないのかは知りませんが、どちらにしても私では力不足です」
エリアスが十人並みの容姿の貧乏男爵令息や平民の商人だったならば、ともかく。
現状では、ノーラはただのお荷物で足手まといだ。
「容姿は今更どうしようもないので、清潔であればいいとして。一般的なマナーや、貴族としての振舞いなどをもう少し学べるといいのですが」
由緒正しい貧乏男爵令嬢のノーラは、いわゆるマナーレッスンなどもすべて母親仕込みで、講師に学んだことはない。
最低限は身についていると思いたいが、やはり不安が大きい。
「それと財力は……借金が消えただけマシですね。あとは特産の葡萄ジュースの販路を拡大したいです。それから、借金にしても葡萄ジュースにしてもエリアス様の協力が大きいので、何かお返ししたいなとは思っています」
「そうねえ……まとめて、ノーラをプレゼントでいいんじゃない?」
「フローラ、私は真剣に話しているんです」
じろりと睨むと、フローラが背筋を正した。
「はいはい、ごめん。つまり、結婚を考えるとすると貴族令嬢としての嗜みや財力が心配ってことね?」
「それもありますが、それ以上に……私、このまま歌を歌い続けられるのか、わからなくて」
今は『紺碧の歌姫』などと呼ばれているが、そもそも貴族の令嬢が庶民の通うレストランで歌っているということ自体、あまりほめられたことではない。
ノーラはこのレストランが好きだし、歌うことも好きだ。
だが、貴族社会では一般的に嫌厭されるというのもわかっている。
エリアスがカルム侯爵を継ぐというのならば、そのそばにいる女性が歌い続けるのは害悪でしかないだろう。
「色々、気になるんです。でも、何となく聞くのが難しいんですよね」
ノーラの勝手な不安は、すべてエリアスとの将来を想定したものだ。
エリアスと結婚したいのかと言われると何とも言えないが、だらだらと恋人を続ける余裕はないので、どうしても先のことを考えてしまう。
だが、エリアスがまだ先のことを考えていないとしたらとんだ勇み足だし、負担に思われるのも何だか嫌だ。
だから第三者の意見を聞きたくてこうして相談したのだが、フローラは何度かうなずくとコップに水を注いで飲み始めた。
「ノーラ。それが、乙女心よ」
「これが、乙女……」
真剣な眼差しで余裕たっぷりに告げられたので思わず繰り返してしまうが、結局どのあたりが乙女なのだろう。
葡萄ジュースの販路拡大ではなさそうな気がするが。
「わかっていないみたいだけれど、進歩よ、成長よ。いいじゃない。エリアス様に全部任せて甘えてもいいのよ? たぶん、喜ぶだろうし」
「それは嫌です。何だか……納得できません」
確かに、エリアスに丸投げしてしまえば片付くこともあるだろうし、ノーラが取り組むよりも効率も結果もいいかもしれない。
だが、それはノーラの気持ちとして受け入れ難かった。
「いっそ、懸念をすべて克服なり改善なりすれば……自信を持って甘えるか、あるいは別れられる気がします」
「……極端ねえ」
フローラはため息をつくと、楽譜を手にして立ち上がる。
「まあとにかく、今は歌が優先よ。行きましょう、『紺碧の歌姫』」