頑張るよ
「……どうして」
「もう、つらいので」
ノーラがそう言うと、エリアスは美しい瞳がこぼれそうなほど、目を瞠る。
それから、ゆっくりとうなだれた。
「……そうか。こんな目に遭わせてしまったし、そう思っても仕方ない。ただ、仮の恋人はやめても、店で歌を聴くのだけは許してくれないかな」
「いえ、あの」
「……それも、嫌かな」
美貌の侯爵令息がどこまでもうなだれていく様に、こちらの方が申し訳なくなってきた。
「いえ、そうではなく」
「うん?」
ほんの少し顔を上げてノーラを見るエリアスは、雨に濡れた子犬のように弱々しい。
とても毒見が趣味の油断ならない男には見えない。
「あの、仮ではなくて、普通にしたいのですけれど」
「……え?」
たっぷりとした間の後に、エリアスが出した声はその一言だった。
「あ、いえ。嫌ならいいんです。ごめんなさい」
返事ができないほど嫌だというのなら、もちろん無理強いするつもりはない。
慌てて手を振って取り消そうとすると、その手を包み込むように勢いよく握られた。
「待って、ノーラ。……普通って、普通ってこと? ――普通に恋人?」
「は、はい」
急に勢いづいたエリアスに若干引きつつ、うなずく。
「本当に、普通に、いつでもどこでもキスし放題?」
「いえ、それは普通じゃないです」
いつもの油断ならないエリアスが復活したらしい。
しばし無言で見つめ合うとどちらからともなく、笑う。
「……本当に、いいの?」
「はい。私、エリアス様が特別みたいです。アラン様の好きとは違いましたし、アンドレア様とエリアス様が陛下公認のいかがわしい仲なのだと思った時はショックでした」
正直に伝えると、エリアスが額を押さえてうつむいている。
「……待って。色々、気になることしかないんだけど。陛下公認のいかがわしい仲って何?」
「エリアス様の秘密の恋人というのが、アンドレア様なのかと」
「何でそうなったのかわからないけれど、全然違うから」
「でも普通、女性から男性の胸に触れて、エリアス様も笑顔を返すなんて、親しくないとありえないと思います」
「何それ? それも、例の御令嬢達の入れ知恵?」
「え? は、はい」
反射的に返事をしたが、よく考えたらあの状況でもノーラには護衛がついていたということだ。
つまり、覗きをするノーラを覗いている護衛がいた、ということで。
「……あ、いえ。その……」
「どうしたの?」
大変に気まずいが、隠したところでノーラの行動はばれているのだ。
エリアスに伝わるのも時間の問題のような気がする。
「……ちょうど、見ていまして」
「見た? ノーラが?」
「はい」
「何か用があったの?」
「いえ。あの。御令嬢がエリアス様を見たと言っていたので……」
これはつまり、エリアスは浮気していると思ったので確認しました、と言っているようなものだ。
あの時は思わず行動してしまったが、こうして振り返るとなかなか酷い気がする。
申し訳なくなり俯くノーラを、じっとエリアスの空色の瞳が見つめる。
「……それって、秘密の恋人とやらと俺が会っていると思ったから?」
「ええ、その。……すみません」
浮気していないとしたら信用していないということだし、浮気をしていたとしても覗くのはどうかと思う。
だが、何故かエリアスは口元を綻ばせている。
「つまり、焼きもちを焼いてくれたってことで、いいのかな?」
「ええ?」
驚いて声を上げるが、よくよく考えればどうでもいい人が秘密の恋人を持とうと密会しようと、どうでもいい。
となると、エリアスのことが気になるということで。
「……そんな、感じ、です。……すみませんでした」
「それは、嬉しいな。ノーラは俺のこと嫌いではないけれど、特別好きでもなかっただろう? いつ見切りをつけられるかわからなくて、少しでも意識してほしくて、キスしていたんだ。ノーラには負担だってことは薄々わかっていたけれど、何もしないで切り捨てられるくらいならって。……でも、それも正しいかはわからなくて、正直不安だった。だから、ノーラが嫉妬してくれたなら、とても嬉しい」
笑顔を返されれば、罪悪感と羞恥心でどうしようもなくなり、視線を逸らす。
「胸を触るって、たぶん薬のことだよ。今日は特に毒性のある薬を持って来たから、割れたり失くさないように内ポケットに入れていた。アンドレア様はそれをわかっていて、早く出せとせがんだんだ。あの人も、結構な毒マニアに育ったからね。自分の見たことのない薬に興味津々で」
「ええと。毒マニア?……毒性のある、薬?」
何だかよくわからないが、アンドレアはエリアスではなくて、その毒だか薬だかに触れていたということか。
「それから、上着の色を確認されたよ。『紺碧の歌姫』らしい色だと褒められた。ノーラとお揃いの色だから、俺も嬉しかったし。……笑顔というのは、たぶんそれだろうね」
では、あの笑顔はアンドレアに向けたものではないのか。
「今度話してみればわかるよ。アンドレア様は重度の陛下好きだから。俺のことは便利な毒辞典くらいにしか思っていないよ」
「毒辞典……」
「それより、アランの好きって何?」
エリアスの表情が一気に曇る。
「アラン様がお試しで好きって言ってくれたんですけれど、嫌ではなくて。エリアス様に言われたと思えと言われたら、何だか違いました」
「……色々と突っ込みどころが多いな。アランに好きと言われて、嫌ではないんだ?」
「はい。以前はあれでしたが、最近の丸くなったアラン様は好きですよ」
ぴくり、とエリアスの顔が引きつった。
「どうかしましたか?」
「俺はノーラに好きって言ってもらえないのに、アランにはあっさり言うね」
「別にアラン様に言ったわけではないですよ」
「同じだ」
エリアスは明らかにふてくされている。
これは、もしかしなくても嫉妬なのだろうか。
普段とは違っていて、何だかちょっと可愛い。
「……俺のいない隙に、ちゃっかりと何をしている。話し合いが必要だな」
訂正。
……やっぱり、怖かった。
いつものエリアスだった。
「それで、俺に言われたら違うの?」
「ちょっと、恥ずかしいです」
「そう」
エリアスはおもむろにノーラの頭に手を伸ばし、自身に引き寄せる。
「ノーラ、好きだよ」
至近距離で耳元に囁かれ、思わず小さな悲鳴がこぼれた。
同時に顔が赤くなっていくのがわかる。
「ノーラ、大好きだ」
「ち、ちょっと。耳元はやめてください」
ようやく手を離してくれたので、適正な距離に戻った。
だが、エリアスは不思議そうに首を傾げている。
「何故? ようやく普通の恋人になれるから、嬉しいんだ」
今度はノーラの手をすくい取り、そっと口づけを落とした。
やることなすこと、いちいち様になるのが憎らしい。
「大切にするよ、ノーラ」
目の前で微笑まれて、どうしようもなくなって両手で顔を覆う。
「……顔が。顔がいいんですよ……」
ノーラなりの文句を必死に口にしたのだが、エリアスは何故か困惑している。
「……よくそれ言っているけど。ノーラは俺の顔、好きなの?」
「嫌いじゃないです。だから、困っています」
「そうか」
楽しそうに笑うエリアスを見ていたら、何だか悔しくなってきた。
生まれながらの美貌攻撃だなんて、ずるい。
だが、ノーラのような凡人にだって、物理攻撃なら可能なはずだ。
たまには目に物見せて、ぎゃふんと言わせてやりたい。
謎の使命感に駆られたノーラは、勢いよくエリアスの襟首をつかんで引き寄せる。
そのまま自身の腰を浮かせ、エリアスの耳元に顔を寄せた。
「――エリアス様、好きです」
一言告げると、やり遂げたという満足感に満たされる。
「どうですか。耳元はくすぐったいでしょう。だから、もうやめてくださ……」
手を離して座ると、エリアスの顔が赤いことに気付いた。
「……え?」
散々人に好きだと言って、キスしまくったくせに。
ノーラの一言で照れているのか。
「あ、あの?」
「……うん。なるほど。……確かに耳元は威力が凄い。というか、ノーラの威力が凄い」
「威力?」
「これは、俺も頑張らないといけないな」
そう言ってノーラを見た空色の瞳に、危険な光を感じる。
――これ、駄目なやつだ。
刺激したら駄目なやつだ。
咄嗟に離れようとするが、それよりも先にエリアスの手がノーラの頬を捕らえる。
「が、頑張るって? 何を?」
顔を固定されて動けないノーラの問いに、エリアスはにこりと微笑むと、そのまま唇を重ねた。
「俺の方がノーラを好きだから。負けないように頑張るよ」
「が、頑張らなくて……」
いいです、という間もなく。
エリアスはノーラに唇を落とした。
これで「仮の恋人編」は完結です。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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