婚約破棄の取り消しって何だ
「……ええと、カルム侯爵御令息ですよね」
「わかりきっていることを言うな」
檸檬色の瞳の青年は顔立ちこそエリアスに似ているが、だいぶ雰囲気が違う。
これこそノーラの思い描く貴族のお坊ちゃんという、偉そうな態度だった。
「何の御用ですか? ……ええと」
名前、何だっけ。
人は、興味がないものを覚えられない。
少なくとも、ノーラはこの美青年の名前をさっぱり覚えていない。
「……アラン、だよ。ノーラ」
「アラン様」
名前を思い出せないノーラに、そっと助け船が出された。
「馬鹿にしているのか?」
馬鹿にはしていない。
厄介者が来たとは思っているが。
アランはノーラを睨むと、視線をエリアスに移す。
「最近外出が多いと聞いたが、こういうことか。だが、それもここまでだ」
何の話だろうと思っていると、アランはノーラの目の前に指を突き付ける。
「ノーラ・クランツ。婚約破棄を取り消してやる」
「嫌です。それは困ります」
「何だと!」
「大体、お連れの女性はどうしたんですか?」
アランは夜会で金髪の可愛らしい少女を連れていたし、話の流れでは彼女と結婚するものと思っていたのだが。
「勘違いするな。勿論、ソフィアが第一夫人だ」
あの子の名前はソフィアと言うらしい。
一つ、どうでもいい知識が増えた。
「だが喜べ。おまえを第二夫人にしてやる」
「何を言ってるのか全然わからないので、私は行きますね」
上流貴族や王族では複数の妻を持つことが認められていると聞いたことはあるが、貧乏男爵令嬢のノーラには全く馴染みがない。
そもそも、何を喜べと言うのだ。
怒る要素はあっても、喜ぶ要素など皆無ではないか。
さっさと立ち去るノーラを、アランが慌てて追いかけてくる。
「待て。侯爵家の第二夫人だぞ?」
早足のノーラを追いかけながら、アランが憤慨している。
怒りたいのはこちらである。
こんなに頑張って早く歩いているのに、軽々とついてくるなんて。
エリアスと双子なだけあって、アランも足が長い。
本当に不公平だ。
地位もお金も美貌もあるのに足も長いなんて。
どれか一つくらいノーラにも分けてほしかった。
「何の文句があると言うんだ」
アランの言葉に、ノーラは足を止める。
どうせ早足でもついてこられるのだから、無駄な体力を使うのはやめよう。
「文句しかありませんが、強いて言うなら――あなたの妻になることです」
呆気に取られてぽかんとするアランを放置して、ノーラはまた歩き出す。
今日はバイトに行かなければならない。
こんなところで無駄な時間を使っている場合ではないのだ。
「ごめんね、ノーラ」
何故か当然のようについてきているエリアスが、ノーラに謝る。
「何がですか」
「アランは、昔から俺に対して対抗意識が強いんだ。俺がノーラに会いに来ていると知って、あんなことを言い出したんだと思う」
なるほど。
エリアスの婚約が承諾されれば賭けに負けるアランが、それを阻止しようとしたわけか。
いつまで賭けを続ける気なのだろう。
まったくもって迷惑な、とばっちりである。
「……でも、侯爵家の力で婚約破棄が取り消されれば、第二夫人になるか……一家で逃亡でもするしかないんですよね。きっと」
貧乏男爵のクランツ家では、名門侯爵家の意向を無視するのは難しいだろう。
侯爵家に睨まれれば、吹いたら飛ぶような我が家はひとたまりもない。
かといって、一家で逃亡は資金的にも難しいし、逃亡先の生活が厳しすぎる。
婚約破棄騒ぎの慰謝料が入ったところで、資金不足は変わらないだろう。
たかが貴族のお坊ちゃんの賭けだが、権力があるというのは恐ろしいものだ。
「私が修道院にでも入れば、家族だけでもとばっちりを免れるかしら……」
「大丈夫だよ、ノーラ」
悩むノーラに、エリアスが笑いかける。
「何がですか?」
というか、この事態は賭けを続けているエリアスのせいでもあるのだが。
文句の一つも言ってやろうと口を開きかけた時、背後からアランが追い付いてきた。
「待て。話は終わっていない」
「アラン様。今からバイトなんです。手短にお願いします」
ぞんざいに返事をするノーラを、アランは鼻で笑う。
「俺と婚約すればバイトなんてしなくてもよくなるぞ」
だから婚約破棄の取り消しを喜べという態度のアランだが、ノーラからすれば馬鹿らしいだけだ。
バイトはお金のためでもあるが、楽しくてやっているのだ。
それを、どうして好きでもないアランのために、辞めなければならないというのか。
「それは、無理だな」
「……どういう意味だ、エリアス」
灰茶色の髪の美青年二人が、ノーラを挟んで向き合う。
「もう正式に手続きを終えているから、取り消すことはできない」
「何だと? 確かに書類は作成して王城に提出する手続きをしたが、まだ国王の裁可を得ていない」
「いや。既に王城に提出済みだし、陛下の裁可はいただいた。正式にノーラとアランの婚約は解消されている」
この国では、貴族の婚姻には国王の裁可が必要だ。
勿論、逆に婚約を解消する場合でも同じだが、こちらは国王の手を煩わせるのと外聞がよろしくないので、あまり良しとされていない。
「陛下にお願いして婚約して、やっぱりやめたと解消して。この上もう一度撤回するなんて、侯爵家でも簡単には言えないし、俺がさせない。ノーラは安心していいよ」
微笑むエリアスに対して、アランは眉を顰める。
「王城での手続きは、本来ひと月はかかるはずだ。エリアス、おまえ何をした」
「婚約破棄を望む弟の手助けをしただけだよ。ソフィア・ブラント子爵令嬢と結婚するんだろう?」
王城での手続きに口を出せるなんて、やはり侯爵家は恐ろしい。
穏やかな笑顔でノーラに接しているが、エリアスもやはり上流貴族なのだ。
何でこんな二人の賭けに自分が関わっているのだろう。
ろくに社交もしていないのに、どこで目をつけられてしまったのか。
貧乏男爵家の娘だから、どうなってもいいということなのだろうか。
事実、ノーラは衆人環視の中で二股の上婚約破棄された、傷物の令嬢に成り下がっている。
もともと大して価値はなかったが、すっかりマイナスである。
これ以上関わるのは得策ではない。
「時間がないので、バイトに行きます。どうぞ、二人で心ゆくまでお話していてください」
さようならのつもりで言ったのに、何故か二人共ノーラについてくる。
「大体、バイトって何なんだ。メイドのようなことをしているのか?」
アランの質問に答えるのも面倒くさいし、時間がない。
「気になるのなら、お店に入ればいいじゃないですか。でも、奢りませんからね。支払いはちゃんとしてくださいね」
エリアスにアランを押し付けるようにして、店の入り口に向かわせる。
どちらもこんな庶民的なレストランに入ったことはないだろうが、入店して注文と支払いくらいはできるだろう。
ノーラは踵を返すと裏口へと向かった。
この扉をくぐれば、ノーラ・クランツという男爵令嬢ではなくなる。
それは、ノーラにとって大切な時間だった。