手を差し伸べてほしいみたいです
「トー、……いえ、陛下。ありがとうございました」
ノーラが頭を下げると、トールヴァルドは先程までとは違う、優しい笑みを浮かべた。
「歌姫に礼を言われることではないよ。君は知らないだろうが、すべて私のせいだからね。お詫びと言ってはなんだが、今度埋め合わせをしよう。……先程の歌は素晴らしかったよ。もう一度、聞かせてくれるかな?」
「はい、喜んで」
『私のせい』という言葉には引っかかったが、とりあえず歌を歌うのに異存はない。
「ありがとう。楽しみにしているよ」
そう言って小さく手を振ると、会場の奥へと行ってしまう。
国王が離れたことで周囲の視線はそちらに移り、ノーラも少しだけ気が楽になった。
やはり、トールとトールヴァルドは別物だ。
同一人物なのはもちろんわかっているが、雰囲気というか空気というか、こちらにかかってくる圧がまるで違う。
国王なんて雲の上の存在とは、今後も関わりたくないと痛感した。
「エンロート公爵閣下も、ありがとうございました」
ノーラが頭を下げると、エンロート公爵はゆっくりとうなずく。
公爵が言ったことは、紛れもない完全なる嘘だ。
経緯は不明だが、ノーラを庇ってくれたのだということだけはわかる。
以前ノーラに毒を盛ろうとしたヴィオラの父親なのだろうから、もしかすると罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
「いや、構わない。君には迷惑をかけたからな。……これでいいかね、エリアス・カルム」
途中から何故か声が硬質なものに変わったが、当のエリアスは気にする様子もない。
「ご協力、感謝いたします」
美しい礼を返すエリアスを複雑そうな表情で見ると、やがてエンロート公爵も去って行った。
公爵の様子を見る限り、エリアスが何かしたのかもしれない。
だとするとヴィオラの件が絡んでいるだろうし、ノーラも関わっている可能性がある。
聞いてみようかとは思うが、この場で話していいのかもわからない。
迷っているうちに、使用人がやってきてノーラの出番を告げた。
「良かった。ピアノの修理も間に合ったみたいよ」
安堵するフローラに、笑顔を返す。
「でも、結局楽譜は見つからないわ。残念だけど、予定通り自然の恵みを喜ぶ歌を弾くのは難しいわね。……何を歌う?」
そう聞かれて、ノーラの頭に浮かんだ曲は一つだった。
フローラのピアノの音が会場に響き、ノーラに視線が集まる。
さっき一人で歌った時のような、怒りや興奮はない。
不思議とノーラの心は落ち着いていた。
この歌は、地方に伝わる恋の歌がベースになっている。
遠くへ行く恋人を想う心が古い言葉で綴られていて、人気のある曲だ。
ノーラに恋人はいないけれど、仮の恋人であるエリアスが遠くへ行ったらどうだろうと考える。
寂しいのだろうか、離れたくないのだろうか。
この歌には、何故遠くへ行かなければならないかの描写がない。
遠くへ行くのと残されるのが、それぞれ男性か女性なのかもわからない。
だからこそ、人は自分に当てはめてこの曲に感情移入するのだと父は言っていた。
その後、恋人に会いに行くところで歌詞は終わる。
『私を見つけて、手を差し伸べて』という最後のフレーズを歌い終えると、ノーラは礼をした。
滝のように降り注ぐ拍手。
レストランとは桁違いの人数と会場の広さだからこその現象だ。
今さらながら、場違いなほどの大舞台なのだと思い知らされる。
少しばかり夢見心地で拍手を浴びていて、ふと彼に気付いた。
沢山の拍手と笑顔を向けられているのに、視線がそこへ向かってしまう。
……ああ。
どうやら、ノーラはエリアスに見つけてほしいらしい。
手を差し伸べてほしいらしい。
その手は自分に向けられていないと分かっていても、一度だけ、そう伝えてみよう。
駄目ならそれでいい。
二股なら願い下げだ。
でも、もし。
エリアスがノーラだけを見ていると言うのなら。
――その時は。
「エリアス様、お話があります」
歌への賛辞を一通り受けた頃、そう切り出すとエリアスは静かにうなずいた。
「俺も、説明しないといけないことがある」
きっとアンドレアのことだろう。
そう思うと気が重かったが、気になることは他にもあるし、けじめをつけるためにも話をしなければならない。
エリアスはアランに話しかけると、あっという間に帰りの馬車の手配を済ませる。
「頑張ってね、ノーラ」
フローラは察するものがあったらしく、小声で声援を送ってきた。
妙にいい笑顔を浮かべているところからすると、何か勘違いしているような気がする。
だが、ここで訂正しようとしまいとエリアスと無関係になることは変わらないので、そのままにした。
アランとフローラを見送ると、ノーラとエリアスも馬車に乗る。
急ぎで手配したはずなのに、この馬車にもカルム侯爵家の紋章が入っている。
適当に用意したのではなく、屋敷から来たということか。
その距離を考えれば、破格のスピードである。
さすが名門侯爵家は、馬車の手配一つでも格が違うらしい。
もちろん内装も素晴らしく、行きの馬車は椅子の部分が赤い生地だったのに対して、この馬車は深い青だ。
馬車が何台あるのか知らないが、こんな豪華な馬車に乗るのも今夜限りだろうから、しっかりと見納め座り納めしなくてはいけない。
何となく椅子を撫でて柔らかい生地の肌触りを楽しんでいると、エリアスが小さく笑った。
「そんなに椅子ばかり撫でて、どうしたの?」
「いえ、撫で心地が良かったもので」
「そう」
微笑むエリアスは、本当に顔がいいので、感心してしまう。
「それじゃ、この生地で服を作ったら、ノーラは俺のこと撫でてくれる?」
「……名門侯爵家の御令息が椅子を着ているなんて知られたら、大事ですよ」
そうは言ってみたものの、もし本当にそんな服を着たとしても、きっと妙に似合ってしまうのだろう。
顔がいいというのは、そういうことだ。
ノーラも、この顔にやられたのだろうか。
いや、初対面から顔は散々見ているが、最初はそれよりも悪い印象の方が圧倒的に勝っていたはずだ。
ということは、顔だけではないエリアスに惹かれたということか。
……なお、悪い。
無関係になっても、ちょっとモヤモヤくらいで復帰できると思っていたが、意外とショックを受けるかもしれない。
そのあたりも覚悟し直さなければ。
「エンロート公爵が助けてくれたのは、エリアス様が何かしたんですか? それに、いくら何でも陛下が来るタイミングが良すぎると思います。私に使ったという解毒剤も、何で用意されていたんですか? 大体、私が毒を盛られる意味がわかりません」
気になることを一気に話すと、エリアスは困ったように少しだけ眉を下げた。
「全部、説明するよ」