負けるものか
「ノーラ! 大丈夫なの?」
会場に着くや否や、フローラが駆け寄ってきた。
遅れてエリアスとアランの姿も見える。
「ちょうど様子を見に行こうと思ったんだ。もう大丈夫?」
「……はい」
エリアスに話しかけられたが、顔を見たくない。
心配されても、素直に受け取ることができない。
視線を外しながら短く答える様子を、フローラが怪訝な顔で見ている。
何か言われるのが怖くて、ノーラは先に口を開いた。
「そろそろ、一回目の出番ですよね?」
「それが……」
フローラの顔が曇ったので、何らかの問題が起きたのだろうということはわかった。
だが、事態は思った以上に深刻だった。
何でも、用意していたはずの楽譜がないという。
今回は舞踏会用に初めての曲だったので、楽譜なしではフローラも演奏できない。
それに、ピアノの調子が悪いと言われて、調整が間に合わないかもしれないという。
「随分とせこい手で妨害してきたな」
アランが舌打ちしているところから察するに、これは偶然の事故ではないらしい。
「だが、効果はある。事情を伝えてピアノの調整を急ぐようは言ったけれど」
そう言うエリアスの元に使用人がやってきて耳打ちすると、端正な顔が微かに歪められる。
「『紺碧の歌姫』が歌えないならと、他の歌い手が名乗りを上げているらしい」
「他って、まさか」
「そのまさかだ。レベッカは連れてきたバイオリニストの伴奏で歌うそうだ」
アランが盛大な舌打ちと共に、顔を顰める。
「やられたな。ピアノは持ち歩けないから、細工し放題だ。王城の備品に細工するのも、馬鹿だとは思うが」
エリアスから何やら指示を受けた使用人が小走りで離れて行った。
「ピアノは陛下の指示で至急直すよう、お願いする。でも、一回目の歌にはたぶん間に合わない。建国の舞踏会では二回歌を捧げるのが習わしだ。仕方がないから、一回目はレベッカに譲るしかないかもしれない」
苦々しい表情でそう言うエリアスを、ノーラはモヤモヤとした気持ちで眺めていた。
……何なのだ。
ノーラはここで歌いたかったわけじゃない。
命じられて来ただけだ。
それなのに、それを恨まれて嫌味を言われて、飲食も制限されて、毒だか薬だかを盛られて、挙句に歌えないなんて。
馬鹿にしないでほしい。
何が仮の恋人、何がひとめぼれ。
身分の低い容姿のすぐれない女なのは、ノーラのせいじゃない。
――誰が、負けるものか。
貧乏男爵家の娘を舐めないでほしい。
王家主催の舞踏会で伴奏なしだからなんだというのか。
冬の川で染め物のバイトをした時の方が、よっぽどつらかった。
冷えすぎて指先が破裂しそうな痛みを、ここにいる貴族連中は経験したこともないだろう。
「どうなさいますか?」
「……今回は」
進行を確認に来ているらしい使用人にエリアスが何か言うのを、手を出して制止する。
「……ノーラ?」
「私が歌います」
「でも、譜面がないし、ピアノが」
「歌は変更します。伴奏はなしで」
驚く三人に構わず、そのまま舞台に向かう。
舞台袖には、既に用意を始めていたレベッカとバイオリニストの姿があった。
「どいてください」
「何ですって? あなた――」
レベッカは何か言っているが、聞こえない。
「邪魔です」
一言告げると、ノーラは舞台に上がった。
舞台袖での異様な様子に、会場の注目が集まり始める。
本来は国の繁栄を願う歌だ。
だが、あれは伴奏ありきの歌だからそぐわない。
ノーラは大きく息を吸う。
怒りと興奮で、菫色の瞳が輝いた。
――それは、勇気の歌。
失敗し、裏切られ、何かを失っても、前を向いて進む歌。
辛くても、悲しくても、上を向いて進む歌。
理不尽への怒りをこめて、負けないという意思をこめて、ノーラは朗々と歌い上げた。
歌い終わると、会場は水を打ったようにしんと静まり返った。
歌ってスッキリしたのか、急に頭が冷えてくる。
ピアノ伴奏で国の繁栄を歌うはずだったのに、軽率だっただろうか。
アンドレアは解毒剤の副作用で興奮状態になると言っていた気がするから、この事だったのかもしれない。
とりあえず、礼をして舞台から降りる。
すると、さざ波のように拍手が起こった。
驚いて、もう一度礼をするが、拍手は収まらない。
「ノーラ!」
フローラが勢い良く抱きついて来たので、よろめく。
「珍しく強い曲調だったけれど、良かったわ。素敵だった」
「そうですか?」
ノーラとしては感情のままに歌っただけなので、よくわからない。
困惑していると、エリアスとアランもやって来た。
「いい歌声だったよ、ノーラ。頑張ったね」
「最高だな。レベッカの顔を見ろよ。悔しそうに睨んでるぞ」
二人にも笑顔を向けられる。
同じ顔、同じ声。
なのに、何かが違う。
どうやら、あんなことがあってもノーラはエリアスのことが特別らしい。
自分の気持ちが消化しきれていないが、これが好きということなのだろうか。
だからこそ、エリアスに事情を聞いて、ちゃんと終わりにしよう。
王妃候補との関係の隠れ蓑として、恋人になる気はない。
好きだとわかったからこそ、それはできない。
仮の恋人の終わり方を考えていなかったが、ちょうどいい。
ちょっとばかりモヤモヤとするだけで、きっとすぐに元の生活に戻れるだろう。
婚約破棄騒動を含めてごたごたしたが、家の借金がゼロになったのだからありがたいと思えばいいのだ。
何だか吹っ切れたノーラの元に、レベッカがやってくる。
その傍らには、リンデル公爵が立っていた。





