乾杯したら、吐かされました
「おや、『紺碧の歌姫』。こんなところでどうしたんだい?」
聞いたことのある声に振り向くと、そこにはトールヴァルドの姿があった。
黒髪と朱色の瞳には見覚えがあるが、国王としての正装を身にまとった彼は、レストランで見た『トール』とは、まるで別人のようだった。
トールヴァルドの背後には、国王の椅子がある。
どうやら、御令嬢達に押される形でいつの間にか移動していたらしい。
慌てて礼をすると、美貌の国王は鷹揚な態度でうなずいた。
「エリアスは?」
「……存じません」
まさか秘密の恋人の所にいますと言うわけにもいかずそう答えると、トールヴァルドは眉を顰めた。
「何にしても、彼のそばを離れないように」
すれ違いざまに小声でそう言うと、そのまま立ち去る。
離れないようにも何も、エリアスの方が行ってしまったのだ。
他の女性の所へ。
ノーラにどうしろというのだろう。
「あら、あなた『紺碧の歌姫』?」
「え? は、はい」
ノーラに声をかけたのは、鉄紺の髪、梔子色の瞳の華やかな美女だった。
誰なのかはわからないが、身にまとうドレスや優雅な態度からして、上位貴族であろうと当たりを付けたノーラは、静かに礼をする。
「はじめてお会いするわね。私はマルティナ・リンデル。陛下の妃候補よ。あなた、お名前は何と言うの?」
王妃候補でリンデルということは、リンデル公爵の妹か。
さすがはあのトールヴァルドの妃候補。
艶めいた雰囲気の美しい女性だ。
「ノーラ・クランツと申します」
「ノーラね。最近『紺碧の歌姫』の悪い噂があるみたいだけれど、気にしないでね。今日は歌を楽しみにしているわ」
「ありがとうございます」
何と、王妃候補にまで噂が届いているのか。
しかも、話しぶりから察するに『汚い』方の噂だ。
本当に、いつになったらなくなるのだろう。
「ねえ、ノーラ。あなたが美貌のカルム侯爵令息を射止めた歌姫、と聞いたのだけれど。本当なの?」
笑顔のマルティナがとんでもないことを言い出した。
本当に、ろくな噂がない。
「……友人です」
秘密の恋人を見てしまった以上、とても仮の恋人だなんて言えやしない。
友人すら、もうすぐ終わりそうなのだ。
すると、マルティナは楽しそうに手を叩いた。
「ああ、良かったわ。彼とアンドレアが仲良くしているところを、よく見かけるから。ノーラが恋人だとしたら酷い話だな、と思ったの」
アンドレアというのが、秘密の恋人の名前だろうか。
それにしても、王妃候補にまで知られているとは。
まったく秘密ではない気がする。
意外とエリアスも詰めが甘い。
「違うのなら、良かったわ。でも、それもそうね。あちらは名門侯爵家の美貌の令息。あなたは一介の歌い手だものね。身分違いは不幸の始まりだわ」
痛いところしかついてこないのだが、わざとだろうか。
真実は、容易に心を抉る。
……だから、人は嘘をつくのかもしれない。
「この後歌うのでしょう? 失敗はできないし緊張するわね。出番までは、ゆっくり楽しんで」
マルティナは給仕にワインを開けさせる。
どう控えめに見積もってもお高そうなボトルを見つめていると、注がれたグラスの一つを手渡された。
「せっかく会えたのだから、記念に乾杯しましょう?」
にこりと微笑んだマルティナがグラスに口をつける。
ワインを飲んでいるだけなのに、妙に色っぽくて目が離せない。
エリアスに飲食物には気を付けろと言われたが、開封したばかりの同じボトルのワインだし、マルティナが先に飲んでいるから問題ないはずだ。
それに、公爵の妹で王妃候補の誘いを蹴るわけにもいかない。
一口だけなら、大丈夫だろう。
グラスの中身を口に含むと、葡萄とアルコールの香りが口から鼻に抜ける。
やはり、酒はあまり好きではない。
「歌を楽しみにしているわね、ノーラ」
艶やかな笑顔と共にマルティナが去ると、どっと疲れた。
空腹でアルコールを摂取したせいか、精神的疲労のせいか、何だかふらふらと眠くなってきた。
グラスを近くのテーブルに置くと椅子に座る。
お尻から根が生えたように、動けないし、動きたくない。
「……早く、帰りたいです」
歌は後半だと言っていたから、まだまだ時間があるのだろう。
その後にエリアスと楽しくもない話をしなければいけないと考えると、自然とため息がこぼれた。
「――ノーラ!」
慌てた様子で駆け寄ってくるのは、エリアスだ。
遅れてアランとフローラがやってくる。
「探したよ。どこに行っていたの?」
心配そうに覗きこむエリアスに、少しばかりの怒りを覚える。
自分は他の女性の所に行っていたのに、何なのだろう。
隠れ蓑が欲しいのか暇つぶしなのか知らないが、勝手な話だ。
立ち上がろうとすると、何だか目が回ってきた。
ふらつく体を支えるために椅子につかまるノーラを見て、エリアスが眉を顰める。
「……俺がいない間に、何か口にした?」
「王妃候補様に労われました。美人ですね。身分が高いと美人率が高い気がします」
「王妃候補。……マルティナ・リンデル様?」
ノーラがうなずくと、エリアスとアランは顔を見合わせた。
何だか表情が硬い気がする。
それにしても、眠くて上手く喋れない。
そんなに強いお酒だったのだろうか。
「何を口にしたの」
「ワインの、ボトルを、開けてくださって」
エリアスに鋭く問われたノーラは、ぼんやりとしながらテーブルに置いたグラスを指差す。
腕を持ち上げるのも億劫だ。
これは、かなり酔いが回っているのかもしれない。
歌の出番の前に酔いを醒まさなければ。
エリアスはグラスを手にすると、中のワインを揺らし、匂いを嗅いでいる。
……何をしているのだろう。
お酒が飲みたいのなら、新しいものを貰えばいいのに。
すると、おもむろにワインを口に含んだ。
わざわざノーラの飲み残しを飲むとは。
これはいわゆる間接キスというやつだろうか。
いや、でもよく考えたら、間接どころか既にキスしているではないか。
何だか、ふわふわとして思考が上手くまとまらない。
どうやら、あのワインで結構酔っているらしい。
何となくエリアスを見ていると、その顔色がさっと変わった。
「――アラン、トールに報告しろ」
そう言うなり、ノーラを抱き上げた。
「へ?」
間の抜けた声を出すノーラに構わず、エリアスはそのまま会場を抜けると廊下を走る。
何が何だかわからないままにどこかの部屋に入ると、そこにいた使用人と思しき女性に水を用意するように指示している。
事態がまったく理解できないノーラに、グラスに入った水が渡された。
「急いで、飲んで」
エリアスの短い命令に、よくわからないままに水を飲む。
その間にどこからかバケツがやってきて、何故かそれを抱えさせられた。
「――ごめん、ノーラ」
言うが早いか、エリアスの綺麗な指がノーラの口に入れられた。
喉の奥の不快な刺激に、反射的に嘔吐する。
一通り吐くと、また水を飲めと言われ、そして吐かされる。
……何だろう、これ。
いくら何でも、酷い醜態だ。
恥ずかしさを超えて、悲しくなってくる。
目に涙が浮かぶが、苦しいからか悲しいからなのか、自分でもよくわからなくなっていた。
何度か繰り返し、「最後に薬を飲んで」と言われるが、疲労のあまりもう目も開かない。
ぐったりと力を失くしたノーラの唇に触れる、柔らかい感触。
冷たいものが喉を通ったような気がしたところで、ノーラは意識を失った。





