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できることなら辞退したいです

「ノーラ、話があるんだけど」

「後にしてください」


 とにかく急いでワインを洗い落とさなければいけない。

 いわれのない文句を言われても聞き流せばいいが、染みはそうもいかない。

 時間が経てば経つほど、落とすのは困難になるのだ。

 バイトに使っているドレスはこれだけだから、妙な色になったら困る。

 簡単に新しい物を仕立てられないノーラにとっては、死活問題だった。



 エリアスを引き連れる形で楽屋に入ると、フローラとペールがぎょっとした顔で出迎えた。

「ワインをかけられたので、急いで洗わないといけません。ペール、ちょっと出ていてください」

「え? ワイン?」


 混乱するペールを押し出すと、扉の前で渋面のまま立っている灰茶色の髪の美青年に気付く。

「着替えるので、出ていただけますか?」

 エリアスは大きなため息をつくとハンカチを取り出し、ノーラの頬を拭いた。


「あの?」

「……顔にもついているよ」

「大丈夫です。後で顔も洗いますから」

「駄目。このままだと、ドレスを優先しそうだからね」

 そう言ってハンカチで優しくノーラの頬を撫でると、もう一度ため息をついた。


 急いで着替えたノーラは、顔を洗い、ハンカチを洗い、ドレスを洗う。

 水場でひたすら洗い物をする『紺碧の歌姫』と、それを見ている侯爵令息の美青年。

 その妙な光景に気付いた女性従業員が、代わりに自分が洗うからとノーラからドレスを取り上げる。


「早く行きなさい。染み抜きなら、得意だから」

 そう言って微笑む女性にお礼を言うと、ようやく楽屋に戻ることができた。




 いつもの楽屋に、フローラとペールに加えてエリアスまでいる。

 何だか、違和感と圧迫感が凄いのは気のせいだろうか。

 美青年には、この部屋は似合わない。

 狭いところが、まあ似合わない。

 おかしなところに感心していると、エリアスがため息をついた。


「……どうして、俺を呼ばなかったの?」

 先程からの表情といい声色といい、どうやら怒っているらしい。

「急なバイトが入りまして。夕方でしたし。手紙を出したところで、もう間に合わないと思いまして」


 エリアスは説明を聞きながらも、容赦なく不機嫌な空気を放っている。

 常にはないその姿に、ノーラの選択が誤りだったとようやく気付く。

 送迎を双子で行うのは、ペールでは侮られる可能性があると言っていた。

 つまり――心配してくれているのだ。


「……急いでいたとはいえ、ちょっと甘く考えていました。すみません」

 双子だって忙しいはずなのに、ノーラのために時間を割いてくれているのだ。

 今回のことは、二人に対して失礼だとも言える。

 頭を下げるノーラを見ると、エリアスはため息をついて、組んでいた腕を解いた。

 それと同時に不機嫌な空気もすっと落ち着いていく。


「……エリアス様は、食事に来ていたのですか?」

「フローラから急ぎの手紙を受け取ったんだ。ノーラが急なバイトで店に来る、ってね」

「そうなんですか?」

 ペールに書類を手渡しながら、フローラが肩を竦める。


「店長がいないと思ったら、ノーラを連れてくるから。行きは間に合わなくても、帰りには間に合うだろうと思ったのよ。……でも、まさか店内で揉め事が起きるとは思わなかったけれど」

「たぶん、急なバイト自体も彼女の差し金だろう」


 忌々しい、といった様子でそう言うと、エリアスは近くにあった木の箱に腰かけた。

 エリアスが座るだけでただの木の箱がちょっと素敵な椅子に見えなくもないのだから、顔がいいというのは恐ろしいことだ。



「あの人、舞踏会の歌い手だって言っていました」

「去年までの、だね」

「じゃあ、嫉妬? うっとうしいわね」

 ノーラとしても、フローラに同感だ。

 こちらが望んだわけではないし、まして横取りするような形で歌いたかったわけではない。


「……辞退するわけには、いきませんか?」

 駄目で元々だと思いエリアスに尋ねてみるが、やはり反応は悪い。

「それは無理だろう。陛下直々の命だからね」

「あの人はわざわざ文句を言いに来たのでしょうか」


 エリアスの言うように急なバイト自体がレベッカの差し金ならば、お得意様の老紳士を動かしたということになる。

 協力したのか脅したのか……何度も謝っていたところから察するに、後者の可能性が高い。

 貴族である老紳士を動かせるというのは、レベッカ自身が上位の貴族か、あるいはその伝手があるのか。

 何にしても、労力を割いてでもノーラに文句を言いたいくらいには恨んでいる、ということなのだろう。

 恨まれてもノーラにはどうしようもないのだが。


「今はそうかもしれないが、帰り道が危険だ。……俺が来なかったらどうするつもりだった?」

「ペールがいますので、一緒に帰ります」

 エリアスはペールに視線を移すと、少しだけ目を細める。

「荒事に慣れているようには見えないが」

「荒事ですか? 慣れてはいませんね」


 至極普通の答えだ。

 大体、荒事に慣れているとは、どんな人種だ。

 歴戦の戦士とか、王城の騎士とかだろうか。

 ごく普通の貧乏男爵令息は、畑仕事には慣れていても荒事には縁がない。


「剣術は、習っている?」

「いえ。ごく初歩だけです。なにぶん、我が家は財政が苦しかったので、稽古事をしている暇も金もありませんでした。……(くわ)の扱いなら、自信はありますが」


 この場合の()()とは、武器としてではなく、畝を作るのに自信があるという意味だ。

 実際、ペールが作る畝は水平かつ滑らかで、とても美しい。

 顔がいいと、作る畝までいいのかと感心したものだ。

 ペールの説明に何か納得したらしいエリアスはうなずいた。



「なら、間違いなく太刀打ちできない。恐らく、帰り道にはノーラを襲う手筈が整っているだろうからね」

「意味がわかりません。歌い手に選ばれなかった恨みって、そんなに凄いものなんですか?」

「何せ、年に一度の王家主催の舞踏会だ。選ばれれば歌い手として相当箔がつくのは、間違いないな」


「……辞退するわけには」

「いかない」

 即答だ。

 わかってはいたものの、切ない。

 ノーラはがっくりとうなだれた。


「しばらくバイトは控えた方がいいということですか?」

 だが、それでは給金が減ってしまう。

 通行料による借金の危機が迫っているのだから、少しでも稼いでおきたかったのだが。


「いや、大丈夫。俺かアランが送迎していれば、平気だ」

「随分な自信ですけれど。お二人だって危険なのではありませんか?」

「言ったろう? カルム侯爵家を正面から敵に回すほど、馬鹿ではないはずだ。それに、荒事にはそれなりに慣れている」


 その美貌で言われても、信憑性がない。

 父カールの「借金が返せそうだよ」という言葉くらい、信じられない。

 確かに男性を殴り飛ばしたところは見ているが、それとはだいぶ違うような気がする。


「何にしても、ノーラを狙っていることに変わりはない。送迎は俺かアラン。飲食物には気を付けて、俺が確認したものだけ。舞踏会でも、それは同じだから。できるだけ、俺のそばから離れないで」

 真剣な顔でそう言うと、ノーラの隣に視線を移す。


「フローラも同じだ。アランから離れないでね」

「……わかりました」

「送迎はまだしも。王家の舞踏会って、そんなに物騒なんですか?」

 思わず出た質問に、エリアスは眩い笑顔を返した。



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― 新着の感想 ―
[気になる点] 歌い手に選ばれるってことの重大さがわかってない所。そうとう名誉なことだと思うんだけど…さすがに世間知らずすぎでは。
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