急なバイトが入りました
そしてあっという間に舞踏会の日程は迫り、前日となったその日。
玄関の扉を開けると、そこにはバイト先のレストランの店長の姿があった。
「やあ、ノーラちゃん。こんにちは」
「店長、わざわざどうしたんですか?」
恰幅の良い店長は、大きな体を少し小さくして申し訳なさそうに話し始める。
「実は、今夜店で歌って欲しいんだ」
「今夜、ですか?」
「とある貴族なんだがね。『紺碧の歌姫』の歌をどうしても今日聞きたいと言っていて。店の古くからのお得意様で、世話になっている人なんだ。もちろん、急な話だし給金は弾むよ。明日は王城に行くから忙しいかもしれないが、歌ってもらえないかな?」
店長が家にまでやってくるなんて、初めてのことだ。
それくらい大事なお得意様ということなのだろう。
「いいですよ。店長にはずっとお世話になっていますし。喜んで歌います」
「ありがとう、ノーラちゃん。助かるよ。……でも、そうすると送迎が問題だね」
「それなら、ペールにお願いするので大丈夫です」
弟は特に今夜でかけるとは言っていなかったので、問題ないはずだ。
ところが、店長の方が表情を曇らせた。
「でも、カルム侯爵家の双子じゃなくていいのかい? 最近はずっと彼等だっただろう?」
確かに、エリアスに送迎は双子のどちらかと言われてはいたが、連絡が取れないのだから仕方がない。
お得意様が指定したのは開店してすぐの時間。
なので、残された時間は短い。
直接カルム邸に行く時間はないので、連絡するなら手紙を預けることになる。
エリアスやアランに手紙を書くこと自体気が引けるし、出したところで双子がいるとも限らない。
大体、屋敷にいたとしても手紙を不審物扱いされれば届かないし、届いても送迎に間に合うとは思えない。
それに、バイトと違って一度歌うだけだから、帰りも遅くはならないはずだ。
「二人共、暇ではないでしょうし。それに、今から手紙を出したところで、どうせ間に合いませんから。いいですよ」
「……そうかい? じゃあ、先に店に行っているから、よろしくね」
ペールと共に店に向かい、着替えると、早速歌う。
予定にないステージに、客もいつもとは違う盛り上がり方をして、ノーラとしても新鮮な気持ちで楽しめた。
いつもなら数曲歌い、それを何回か繰り返すが、今回はお得意様のためだけの歌なので、これで終わりだ。
店長に連れられて挨拶に向かうと、テーブルにいたのは穏やかな表情の老紳士だった。
「わざわざありがとう。『紺碧の歌姫』の歌を聴くことができて、嬉しいよ。急にすまなかった」
「いいえ、こちらこそ。私の歌を望んでいただき、光栄です」
老紳士は最初は穏やかな笑みを浮かべていたのだが、次第に表情が曇り始める。
「すまないね。……本当に、すまない」
何度も謝罪を繰り返す老紳士に、ノーラもまた何度もそれを否定しては感謝を伝える。
これは、腰が低いというよりは、ちょっとした物忘れなのだろうか。
街の御老人の話し相手をしていると、何度も何度も同じことを繰り返す人も多い。
この老紳士も、そうなのかもしれない。
そんな考えがよぎった頃、ようやくこのやりとりが終わった。
礼をしてテーブルを離れる。
あとは着替えて帰るだけだ。
ペールは楽屋でフローラに通行料の件を相談しているから、着替えたらそのまま裏口から帰ればいい。
本格的に暗くなる前に帰れそうなことに、安堵する。
「――待ちなさい」
良く通る声と共に、店の奥に向かうノーラの手を誰かが掴んで引き留めた。
美女だ。
年齢はトールヴァルドと同じくらいだろうか。
金の髪に紅の瞳が美しく、さらに女性らしいボディラインが妖艶な雰囲気を醸し出している。
「『紺碧の歌姫』なんて、大層な名前だから期待したのに。歌も大したことないし、見た目も、ねえ? ……それで、よく恥ずかしくないわね」
美女からの突然の辛辣な言葉にびっくりする。
歌の評価は人それぞれだろうし、ノーラの容姿が優れていないのはわかる。
だが、それをわざわざ本人に言うなんて、この女性の性格は褒められたものではないと思う。
「……すみません」
とりあえず謝っておくと、女性は何故か眉間の皺を更に深めた。
「そうやって殊勝なふりをして取り入ったの? 既に決まっていた歌い手の席を奪っておいて、恥ずかしくない?」
「あの。あなたは、どなたですか?」
「レベッカよ」
答えを聞いてみても、結局知らない名前だ。
それがわかったらしく、レベッカは大袈裟にため息をついた。
「あなたみたいな三流の歌い手は知らないのね。私は、建国の舞踏会で歌い手を務める腕よ」
……ということは、さっき言っていた『既に決まっていた歌い手』というのは、自分の事なのか。
これはつまり、歌い手の枠に関する文句を言われているのだろう。
「今回の選定は、私も納得していません。どうぞ、上訴して私を外してもらってください」
すると、レベッカの眉間に一気に皺が寄ったと思うや否や、テーブルのグラスを手に取り、中身をノーラにぶちまけた。
――よりによって、赤ワイン。
衣装は濃い青色なので、そこまでは目立たないとはいえ、汚れが落ちるのか不安だ。
とりあえず、急いで水洗いしなければ。
「何にしても、私に決定権はありません。辞退できるものなら、こちらがお願いしたいくらいです。どうぞ頑張って歌い手を勝ち取ってください。応援します。それでは、話が終わりなら失礼します」
一気にまくしたてると、ドレスを洗うために店の奥に下がろうとする。
ノーラの手をレベッカが掴もうとするが、それを阻むように別の手が現れた。
「――そこまでだ」
レベッカの手を押さえつける様に掴んでいたのは、灰茶色の髪の美青年。
「エリアス様」
何故ここにいるのだろう。
今日はノーラのバイトではないが、食事をしに来たのだろうか。
レベッカはエリアスの手を振りほどくと、忌々しそうに顔を顰める。
「侯爵令息をたぶらかしているという噂は、本当のようね。……汚い女」
捨て台詞を吐くと、そのまま店を出て行った。