死にそうなので、休憩しようと思います
「……死にそうです」
楽屋に入るなり、ノーラは机に突っ伏した。
頭上からフローラのため息が聞こえるが、顔を上げる気力もない。
エリアス・カルム侯爵令息と仮の恋人を始めて、それなりの時間が経つ。
そのエリアスの攻撃によって、疲労が重なっていた。
身に覚えのない婚約の婚約破棄からの求婚という、わけのわからない出会いをしたのも、もうだいぶ昔の事のように感じる。
何だかんだでお友達になり、何だかんだで仮の恋人を始めた。
だが、その瞬間からエリアスは『隙あらばキス』という非道な攻撃を繰り返した。
どうにか交渉の末に『キスは唇以外に、一日三回まで』という条件で手を打ってもらったのだが、それでもきつい。
そもそもノーラは恋愛経験が乏しい。
その上、エリアスは誰もが振り返るような美青年だ。
色々な意味で刺激が強く、疲労に負けて心がついていかない。
ここはやはり、キス自体を撤廃してもらいたい。
何度かそれをほのめかしてみたのだが、どうも反応が怖くてもう一歩が踏み出せない。
下手なことを言えば以前の無法状態に戻されそうで、迂闊な言動と行動はとれない。
結局は一日三回キスされる羽目になり、ノーラの疲労は溜まっていく一方だ。
「お水飲む?」
「もらいます」
フローラに差し出された水を一気に飲んでのどが潤うと、少しだけ心も潤って落ち着く気がした。
「まだ気付かないなんて。ノーラも結構、あれよねえ」
呆れているらしいのは声音と表情でわかるが、何を言われているのかがよくわからない。
「もう、諦めて恋人になったら?」
「恋人って、諦めてなるものなんですか?」
何というか、もっとこう、好意やら何やらがあって幸せな感じで決断するものではないのか。
……経験がないので、憶測でしかないが。
「いつもまでも仮の恋人なんて、おかしいと思わない?」
「それは……思います」
よく考えれば仮の恋人の時点でおかしいのだが、ノーラなりに考えた結果なので仕方がない。
だが、適当や諦めで決断するのは何だか違う気がするし、何よりちゃんと理由を伝えないと恐ろしいことになりそうで怖い。
「エリアス様が嫌なら嫌でさっさと次に行かないと、婚期なんてすぐに去って行くわよ」
「それはそうなんですよね」
ノーラはいわゆる適齢期の半ばを過ぎている。
このままでは貧乏男爵令嬢から、行き遅れの貧乏男爵令嬢にレベルアップしてしまう。
負の成長を遂げたノーラなど、誰も貰ってくれないのは明らかだ。
家を継ぐ弟ペールの負担にならないためには、平民の商人にでも嫁ぐしかないが、それだって行き遅れと言われる年齢よりは今の方がまだ引き取り手がいるだろう。
だらだらと仮の恋人なんてものをやっている時間は、ノーラにはない。
だが、その先を決断するのにためらってしまう。
将来を考えてさっさと嫁ぎ先を探したいのにそれを躊躇っているのは、それなりにはエリアスに好意があるということなのだろう。
だが、恋人になどなろうものならどんなことが起きるのか、恐ろしくて考えたくない。
つまり、その程度の好意だとも言えるわけで。
自分がこんなに決断力がない人間だとは思わなかった。
「フローラは良いですね。引く手あまたですし」
ノーラは大きなため息と共に、正面に座るフローラを見た。
年齢こそノーラと同じだが、それ以外はまるで違う。
フローラは茶色の髪と瞳の可愛らしい容姿だし、男爵令嬢とはいえ家は経済的に豊か。
しかも、男爵家を継ぐのはフローラで、今は経営の勉強もしている。
自立した、立派な女性だ。
「ああ、まあ。……そう、かな」
珍しくはっきりしない微妙な反応が返ってきた。
どうやら、モテる人にはモテる悩みがあるということらしい。
結局、誰もが何かに悩んでいるのだ。
頑張ってお金を稼ぐという解決策が見えていただけ、貧乏というものは良かったのかもしれない。
うっかりそんなことを考える程度には、ノーラは疲れていた。
「ところで、噂になっているわね。清き歌姫」
「……それも、疲れる要因なんですよね」
アランとの婚約破棄でカルム侯爵家……というか、エリアスが支払った慰謝料は、桁違いの金額だった。
おかげでクランツ家の先祖代々の泥沼の借金はすっかり返すことができたのだが、それでもまだ残るほどだった。
さすがに多すぎる金額だったため、ノーラは残りをすべて教会に寄付している。
それが、思わぬ事態を生んでいた。
「『紺碧の歌姫』は、その歌で手に入れたお金をすべて寄付する心清き女性。清き歌姫だ、って噂が凄いものねえ」
「何でこんなことになったのでしょうか」
歌を歌っているのはお金のためでもあるし、余裕がなかったので今まで教会に寄付などしたことはない。
教会だってそれを知っているはずなのだから、噂を打ち消してくれれば良いのに。
「そもそも、寄付したことをばらすのはどうなんですか。個人的な情報です。酷いです」
「教会としては感謝の気持ちなんでしょうね。あるいは、更なる寄付のための宣伝か。どちらにしても、ノーラには迷惑な話ね」
「そのせいか、最近妙な視線を送ってくるお客さんが増えた気がします。そんなに見ても、もう寄付するお金なんてないのですけれど」
じっとりと舐めるような視線だったり、うっとりと夢見心地な視線だったり、方向性は色々だが結局は同じこと。
借金がなくなっただけで裕福なわけではないので、もう寄付するのは無理だと叫んでしまいたい。
「それ、ちょっと違うと思うけど……。でも、変な人は確かに増えたから、店長が心配していたわ。少しほとぼりが冷めるまで、バイトを休んで良いって言ってたわよ」
確かに、時間が空けばノーラのことなど忘れていくだろう。
「……それなら、ちょうど良いので領地の視察に行ってこようと思います」
「視察?」
「ペールが行く予定なんです。一緒に行ってくるので……エリアス様が来たら、伝えておいてくれますか?」
おずおずとお願いすると、フローラの眉が顰められる。
「それくらい、自分で連絡して。恋人なんでしょう?」
「でも、仮ですし。カルム侯爵家に手紙とか、色々な意味で無理ですし。あと、エリアス様からちょっと離れて休憩したいのもありますし」
フローラはじっとノーラを見て暫し考えていたが、やがて大きなため息をついた。
「仕方ないわね。わかったわ。……でも、どうなっても知らないわよ」