ノーラ・クランツの疲弊
仮の恋人を始めたのは、ノーラの提案だ。
それは重々わかっている。
だが、それにしたって。
――いくら何でも、限度がある。
「エリアス様、口へのキスは控えてもらえませんか」
「恋人なのに?」
ノーラが必死に訴えると、灰茶色の髪の美青年は首を傾げた。
「でも、仮ですし。正直、心が追い付きません。勘弁してください」
仮の恋人を始めた瞬間に、ノーラにキスをしたエリアスだが。
その後も隙あらばというか、隙を作ってでもキスしてくる。
ノーラもどうにか躱したり防いだりしているのだが、完全防御は難しい。
結果的に日に何度かキスされている状態で、ノーラはすっかり疲弊していた。
「……じゃあ、口以外なら良いの?」
「は、はい。ありがとうございます」
本当はキス自体を減らすか無くすかしてほしいのだが、とりあえずはそれで一歩前進だ。
「わかったよ。ノーラがそう言うなら」
エリアスは仕方ないと言わんばかりに、肩を竦めてみせる。
これで少しは平穏に過ごせる、とほっと息をついた。
すると、エリアスは手を伸ばしてノーラの頬に触れた。
何だろうと思いつつ、綺麗な空色の瞳に暫し見入っていると、エリアスが頬にキスをした。
驚きはしたが、口に比べれば頬一回くらい何でもない。
すっかりおかしな基準になっている自分に切なくなりつつも、エリアスが離れるのを待つ。
ところが、更に反対の頬にもキスをされた。
もしかすると、左右対称じゃないと落ち着かないのかもしれない。
よく考えればおかしな理屈だが、とにかくもうこれで終わりだろうと思えば、何とか大人しくできた。
だが、その後も左右の頬に額にと、短いキスが文字通り雨のようにノーラに降り注ぐ。
確かに、口にはしていない。
だが。
――それ以外に、滅茶苦茶しているではないか。
「――ま、待ってください」
「何?」
「ちょっと、もう……許してください。本当に、あの。許して……」
恥ずかしいやら困惑するやらで、どうしたら良いのかわからず、ひたすら懇願する。
「そう? じゃあ、口とどっちが良い?」
「……もう少し穏便な選択肢はありませんか」
「やだな。穏便にしているよ?」
綺麗な空色の瞳の青年は、そう言って微笑んだ。
……どうしよう、何だか怖い。
引き気味のノーラに気付いたのか、気付かないのか。
結局、妥協案として『口以外で、一日三回までキス可』ということで話がついた。
「その代わりに、受け取ってほしいものがあるんだ」
交渉ですっかり疲れ切ったノーラに、エリアスは眩い笑顔を返した。
「それ、指輪じゃないの? プロポーズでしょう」
「いえ、プロポーズ自体は初対面でされている気がします」
「……そう言えば、そうだったわね」
フローラは楽譜を選びながら、ノーラの話に耳を傾けている。
バイトに人生を捧げていた、と言っても過言ではなく、恋愛に疎い。
そこでフローラに相談していたのだが、後半はエリアスの攻撃への愚痴のようになっていた。
「それよりも。一日三回って、何なの?」
「制限を付けないと際限がなさそうで怖いんです。でも、少ないと認めてもらえなくて」
「それで、三回? 内服薬じゃないんだから」
呆れた様子で楽譜を片付け始める。
どうやら、今日の曲が決まったらしい。
「嫌なら、断れば良いじゃない」
「そうですけど」
「嫌ではないのね?」
「良くもないです」
「そんなの、同じことよ」
きっぱり言い切ると、ノーラに楽譜を手渡す。
知っている曲とはいえ、出番までに少しは練習もしたいところだが、いまいち集中できない。
「……よく、わからないです」
「そこまでわかっていたら、気付きそうなものだけど」
フローラは大きなため息をつくと、おもちゃのピアノを手繰り寄せた。
「なら、じっくり考えると良いわ。エリアス様の首輪を外したのは、ノーラなんだから。責任を取って頑張って」
「はあ……」
ノーラは困惑しつつも、ピアノに合わせて歌い始めた。
「おはよう、ノーラ」
扉を開けて挨拶をするや否や、頬にキスされる。
癖で慌てて防御しようとするが、そう言えば一日三回の約束をしたのだと思い出す。
多くても、あと二回だから、何とか頑張ろう。
よくわからない決意と共に、エリアスに促されるまま馬車に乗る。
馬車の中では葡萄ジュース瓶のデザインについて相談をした。
ようやく借金がゼロになったのだから、本腰を入れて領地の特産品を売らなければ。
頑張ってくれている領民のためにも、ノーラができることをしたい。
エリアスは伝統的なデザインから流行まで詳しく教えてくれるので、ありがたかった。
夢中で聞いていると、あっという間に目的地に到着したという。
「それで、どこに着いたのですか?」
「本当はノーラに、ドレスやアクセサリーを贈りたいんだけど。そういうの、嫌だろう?」
「はい。いりません」
うなずきながら即答するノーラを見て、エリアスは苦笑する。
「だから、綺麗な景色なら受け取ってくれるかなと思ってね」
美貌の青年が言うと胡散臭い言葉でも様になるのだから、顔が良いというのは怖いことだ。
だが、扉を開けて馬車を降りると、思わず感嘆の声を上げてしまう。
眼前には湖が広がり、その水面は澄んだ群青色。
光が差すと輝きを増し、さながら宝石のような美しさだった。
「――凄い。綺麗ですね」
「喜んでくれたなら、良かった」
「エリアス様、ありがとうございま……す」
礼を言おうと振り返ると、エリアスが笑みを浮かべていた。
その優しい顔に、ノーラはどきりとしてしまう。
仮の恋人を提案したのはノーラだが、その後のエリアスの攻撃はなかなかに酷く、正直疲れていた。
だが、今のエリアスはまるでノーラが愛しくてたまらない、というような表情だ。
好きだとは言われたし、初対面でプロポーズさえされている。
でも、こうして好意を向けられているのだと本当に実感したのは、初めてかもしれない。
「も、物よりも気が楽なので、嬉しいです……」
本当は、連れてきてくれてありがとうと言おうと思っていた。
だが、何故だかそれが恥ずかしくなり、咄嗟にそう口にしていた。
我ながら、何とも可愛くない物言いだ。
いや、可愛いと思ってほしいわけではないから、ちょうど良いのかもしれない。
エリアスは混乱しているノーラの手を取ると、ゆっくりと歩き出した。





