エリアス・カルムの勝負
「……お礼なら、これで良いよ」
そう言って、ノーラの額に口づける。
てっきり怒るか照れるかすると思ったら、ノーラはただ瞬きをしているだけだ。
びっくりして、よくわかっていないのだろうか。
とりあえず、明らかな拒否と嫌悪がないのを良いことに、今度は頬に口づけた。
触れる瞬間に一瞬目を閉じて体をこわばらせたものの、特にそれ以上の反応はない。
「……嫌なら嫌と言った方が良いよ、ノーラ」
そう言って反対の頬にも口づけるが、やはり一瞬体をこわばらせるだけだ。
もしかして、怖くて何も言えないのかもしれない。
心配になって顔を覗き込むと、ノーラは何やら難しい顔をしている。
言葉にならないほど嫌だったのだろうか。
ちょっと性急だったかと反省していると、とんでもない言葉が耳に入った。
「……別に、嫌では……ないです」
「――え?」
思いがけない言葉に、エリアスの胸が早鐘を打ち始めた。
キスされて、嫌じゃないというのは。
それは、つまり。
「……キスしても良いってこと?」
「良いわけでもないです」
あっさり否定されて、エリアスの鼓動は一気に静まった。
それもそうだ。
ノーラはエリアスに明確な好意があるわけではない。
きっと、激怒するほどではないが、やめてほしいということなのだろう。
即刻平手打ちをされていないだけ、ありがたいのかもしれない。
どうにか自分の気持ちに折り合いをつけていると、ノーラはまだ難しい顔をしている。
「でも、嫌じゃなかったんです。……これって、どういうことでしょうか」
「――どういうも何も」
何を言い出すのかと思えば。
そんな言い方では、誘われていると勘違いしてしまいそうだ。
「……もう一度、試してみる?」
そう言うと、再びノーラの額に口づけた。
抵抗がないのを良いことに、更に頬にも口づける。
ノーラの甘い香りに、酔ってしまいそうだった。
「……止めないと、このままずっとキスするよ」
「じゃあ、駄目です」
エリアスの目の前に手が現れたと思うや否や、押しのけられる。
生殺しとはこういうことなのだろうか。
何だか切なくなり、ため息をつく。
「嫌なら嫌って、ちゃんと言わないと。俺みたいなのにつけこまれても、知らないよ?」
「だから、嫌ではないんです。『ずっと』は困りますけど」
真剣な眼差しのノーラに、再び鼓動が高鳴る。
「俺に触られて、キスされて、嫌じゃないの?」
「……そう、ですね」
駄目だ。
そんなことを言われたら、耐えられない。
「――それじゃ、俺と結婚してくれる?」
口から飛び出した本音に、ノーラは目を瞬かせた。
「お断りします」
エリアスはがっくりとうなだれる。
今日だけでどれだけ鼓動が乱れたかわからない。
そろそろ心臓がこの乱高下に耐えられなくなりそうだ。
胸を押さえてため息をついていると、ノーラがエリアスの手を取って握りしめた。
「……ノーラ?」
真剣な表情のノーラは、何かを決意したようにうなずくと、エリアスを見上げた。
「あの。すぐに結婚とか婚約とか、考えられないんです」
「それはわかってる」
堪えられずに口走ったエリアスが悪い。
まだ、ノーラにとってはそんな段階ではないのだ。
「だから、お断りします」
「ああ。わかった」
わざわざもう一度断らなくても良いのに。
わかっていても、拒否の言葉というのは強い。
心の体力を削られて、さすがのエリアスも疲れてきた。
「私、エリアス様のこと、嫌いじゃないです。でも、好きかどうかわかりません。なので、それで良かったら――私とお付き合いしてください」
「――は?」
固まるエリアスに気付いていないのか、ノーラはそのまま話を続ける。
「このまま『お友達』だと、よくわからないままのような気がするんです。なので、いっそお付き合いしたらわかるかな、と思いまして」
「……え?」
混乱するエリアスが喋らないのを否定と捉えたらしく、ノーラが慌て始める。
「あ、もちろん、身分の差とか色々ありますし、無理ならそれで構いません。それに、ずっと試そうとは言わないです。エリアス様も忙しいでしょうから、とりあえずひと月とか……」
「――俺と、付き合うの?」
「え? あ、はい。エリアス様が良ければ、お試しということで……」
「――恋人ってことだよ? いいの?」
「はい」
エリアスの心臓は爆発寸前だ。
鼓動が全力疾走しているせいで、胸が苦しい。
だが、今までこんなに幸せな痛みがあっただろうか。
「ノーラ」
抱きしめてしまえば、エリアスの腕にすっぽりと収まる。
大人しくされるがままのノーラに、エリアスは苦笑した。
お試しって、何だ。
好きだかわからないけど付き合うって、何だ。
よくもまあ、そんなことを言えたものだ。
ノーラはわかっていない。
これは、試しに恋人になって、ノーラが自分の気持ちを確かめるものではない。
――エリアスが、ノーラを口説き落とせるかどうかの勝負なのだ。
「――それじゃあ、恋人らしいことでもしてみようか」
「恋人らしいこと、ですか?」
顔を上げたノーラの顎をすくい上げると、そのままそっと唇を重ねる。
「……好きだよ、ノーラ」
愛しい気持ちを込めて耳元でささやく。
ノーラの頬が微かに赤く染まるのがわかった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
何故かノーラが慌てている。
手を繋いでのんびりゆったり過ごすとでも思っていたのだろうか。
今までは婚約破棄騒動の負い目と、『お友達』の枷があったから大人しくしていた。
だが、それを取り払ったのは、ノーラ自身だ。
「駄目――待たない」
勝負はこれからだ。
手加減なんて、一切するつもりはない。
エリアスは笑みを浮かべると、もう一度ノーラに口づけた。