どうやら、婚約していたらしい
「ノーラ、ずいぶん早く帰ってきたね。夜会はどうだった?」
のんびりとした父が年代物のソファに腰掛けながら、ノーラを出迎える。
この場合の年代物というのは、アンティークという意味ではない。
単純に古くてボロボロということだ。
母お手製のカバーをかけてあるので見た目はそこまで悪くないが、座ると謎のでこぼこに悩まされる。
父が妙に傾いているのはそのせいだ。
「貴族のお坊ちゃんにからかわれたから、面倒で帰ってきました。賭けでもしてたんじゃないですか? 趣味の悪い」
「おや、大変だったね」
慰めながら、ノーラの分の紅茶を淹れる。
貧乏男爵家に使用人はいないので、当主の父ですら自分のことは自分でできる。
というか、やらざるを得ない。
もっとも、穏やかな父は家事が好きなので、仮に使用人がいても変わらず紅茶を淹れてくれる気がする。
茶葉の量の関係で少し薄めの紅茶を受け取ると、ノーラはため息をついた。
あの後、どうやら双子の兄弟だったらしい青年二人がなんやかんやと言い争っていたので、ノーラは帰ろうとした。
兄弟でこんなことをするというのは、何か賭けでもしていたか悪戯なのだろう。
いくらノーラが貧乏男爵家の娘だからと言って、やっていいことと悪い事があると思う。
からかうのも勘弁してほしい。
すると、エリアスと名乗る空色の瞳の青年がノーラの手を取り、からかっていないし真剣だと必死に言い続けた。
終わりが見えないし、いい加減に帰りたい。
「あなたのことを知らないし、婚約は無理です。どうしてもと言うのなら、お友達からということで」
そう言って手を振りほどくと、ノーラはざわめく衆人環視の中さっさと帰宅したのだ。
「大体、会ったこともない人に婚約破棄するって、どういう種類の悪戯ですか。あんなに沢山の人がいる中で非常識です」
「婚約破棄?」
「ええ。婚約なんてしていないのに、人を二股の上に捨てられた傷物みたいに言うなんて。侯爵家だからって、何をしてもいいと思っているのでしょうか」
不快な気分を洗い流すように、紅茶を一気に飲む。
父が淹れる紅茶は微妙にぬるいので、とても貴族令嬢とは思えぬ速さでグイグイ飲める。
「……侯爵家? 何侯爵だって?」
「さあ?」
父に問われて思い返してみるが、ほぼ聞き流していたのでよく覚えていない。
「名乗られた気はしますが……覚えていません。灰茶色の髪の人で、かわいい金髪の女の子を連れてました。あの子も悪戯に加担してたんでしょうね。嫌な笑い方してましたし」
「灰茶色の髪……他に、何か特徴は?」
「特徴と言われてましても。顔は悪くなかったけど、終始上から目線でうっとうしい感じだったくらいで……あ、双子の兄弟もいました」
「双子?」
「同じ顔と髪で瞳だけ色が違っていました。そっちは婚約してくれとか言ってきたし……上流貴族の遊びって、全く理解できないです」
父が持っていたティーポットを奪うようにして、紅茶のおかわりを注ぐ。
こうなれば、紅茶のやけ飲みである。
茶葉は追加しないので、どんどん白湯に近くなっていくが。
「……ノーラ、それ、悪戯じゃないかもしれない」
「何がですか?」
見れば、父の顔色がよろしくない。
侯爵家に絡まれたとはいえ、お坊ちゃんの遊びなのだからそんなに心配しなくてもいいと思うのだが。
「おまえの婚約者かもしれない」
「は? 私は誰とも婚約なんてしてないですよ」
「ノーラは知らないけど、婚約してたんだ」
「ええ? 勝手に決めないでください。大体、こんな貧乏男爵家の娘を貰おうなんていう貴族がいますか? あ、平民の商人とか?」
いかに貧乏でも、貴族の端くれ。
貴族とのつながりや見栄のために、お金のある商人が貴族の娘を嫁にする話は聞いたことがある。
「カルム侯爵令息だ」
「カルム侯爵家って、貴族の中でも上から数えた方が早い地位とお金を持った名門じゃないですか。……変な夢でも見たんですか?」
娘を良い家柄に嫁がせてあげたいという親心が、幻を見せたのだろうか。
「侯爵家から直々に望まれて婚約していた。アラン・カルム侯爵令息は、おまえの婚約者だ」
「何言ってるんです? それに婚約してたとしたら、何で私は知らないんですか」
「それも侯爵家からの要望だった。しかるべき時まで、対外的にも本人にも伝えないでほしいと通達が来たんだ」
「何ですかそれ。婚約してる意味あります? そもそも、なんで私なんですか?」
容姿でも家柄でも財力でも、魅力的な令嬢は掃いて捨てても捨てきれないほど溢れている。
まして名門カルム侯爵家ともなれば、よりどりみどりのはずではないか。
ノーラは青みがかった黒髪こそ美しいものの、容姿は平凡だし、家は貧乏男爵家だし、優雅でも淑やかでもない。
貴族社会での社交だって得意ではないし、町の老人の相手や迷子の世話をしている方が性に合っている。
歌が好きでレストランで歌うバイトをしているが、それだって貴族令嬢としては品のない振舞いだと言われるのだろう。
悲しいくらいに、侯爵家が気にいる要素がまるで見当たらない。
「わからない。でも、カルム侯爵家の名前を出されて逆らうこともできないし。侯爵家に嫁ぐのなら、ノーラにとって悪い話ではないかと思ったんだけど」
「じゃあ、あれは悪戯じゃなくて本当に婚約破棄をされたってことなんですね?」
婚約していたことを知るより先に、婚約破棄されるなんて順番がおかしいけれど。
「灰茶色の髪の美男子で双子と言えば、カルム侯爵令息だろう。間違いないと思う」
大きなため息をついて、父がうなだれる。
「大勢の見ている中で婚約破棄だなんて。……こんなことになるなら、承諾しなければよかった」
侯爵家とのつながりがなくなることよりもノーラの心配をする父に、少し胸が温かくなる。
「大丈夫です。あのお坊ちゃん、婚約破棄の書類はもう出したって言ってたから、関わることもありません」
「でも、ノーラが傷物みたいに見られるんだよ」
「どうせ貧乏男爵家の娘なんて、貴族の中で嫁にしたいという人はいません。気にしないでください」
クランツ家は弟が継ぐのだし、ノーラ自身はお金のある商人にでも嫁げば問題ない。
ノーラの中でそう結論が出て、これで終わりになるはずだった。