ヴィオラ・エンロートの戦慄
「ヴィオラ嬢、話があるんだけど。いいかな」
背後からかけられたその声に、胸が震えるのがわかった。
ヴィオラは今夜のエンロート公爵家主催の夜会に、エリアス・カルム侯爵令息を招待している。
その彼が、会いに来てくれたのだ。
エリアスに恋して婚約の打診をし、両親の介入で双子の弟が相手に変わった時には、絶望した。
何より、エリアスに意中の女性がいると言われて、怒りでおかしくなりそうだった。
エリアスが婚約の書類を提出したと聞いたヴィオラは、その曲筆を指示した。
ノーラ・クランツとかいう女性は、アラン・カルムと婚約する。
これでエンロートとの縁談はエリアスが相手になる。
そう思って安心したのに、両親が早々に破談にしていたために、結局それはかなわなかった。
だが、決して諦めたわけではない。
エリアスの出席しそうな夜会にはすべて参加し、声をかけ続けた。
話が弾んだとは言えない有様ではあったが、ダンスを踊ったことだってある。
ノーラとかいう女性のことは、もう忘れたのだろう。
これから時間をかけてアピールすれば良い。
そう思っていたヴィオラは、とある夜会でのカルムの双子の騒動を耳にして、久しぶりに怒りが湧いた。
ノーラとかいう女は、どこまでもヴィオラの邪魔をする。
アランとの婚約も解消されてしまい、一層邪魔な存在だ。
レストランで歌っているというので様子を探っていたが、ある時からカルムの双子が揃って来店するようになったという。
毎回一緒に食事までしているという報告には、地団駄を踏んだ。
邪魔をしようと下剤を盛るよう指示したが、成果は上がらず。
それどころか、エリアスがノーラの送迎までしていると知った時、憎悪と嫉妬は限界を超えた。
夜会でエリアスにひとめぼれしたと伝えたのに、まったく取り合ってもらえなかったこともあり、自制する心はどこかに飛んでしまっていた。
用意させた毒は、粘膜が炎症を起こすもの。
一緒にガラスの欠片も入れさせたので、のどは確実に痛めつけられるはず。
しばらくは歌えないだろうし、上手くすれば声を失うかもしれない。
『紺碧の歌姫』などという分不相応な呼び名まであるようだが、歌えなければ意味がない。
毒は飲ませたと報告があったし、昨日はノーラの歌が中止になったと聞いている。
思った通りの成果に、胸が弾んだ。
歌を聴きにレストランに行かなくなれば、その分夜会に出ることも多くなるだろう。
そう思って、エンロート公爵家主催の夜会の招待状を送ったのだ。
今までの努力が、ようやく報われる。
逸る心を押さえて振り返り、エリアスの姿を見つけると思わず顔が綻んだ。
次いで、エリアスと腕を組んだ女性を見つけて、一気に険しい表情になる。
青みがかった黒髪が美しいその女性は、たぶん憎きノーラ・クランツだ。
報告では髪は美しいが十人並みの容姿とあったが、これはどうだ。
美少女のヴィオラの足元にも及ばないとはいえ、それなりに見られる姿ではないか。
ノーラの監視役に雇った人間は、下剤一つまともに盛れない役立たずだと聞いたが、こうなると報告自体も信憑性が低いのではないか。
唯一の功績は、例の毒をちゃんと飲ませたことくらいだ。
あれを飲んだなら、少なくとも数日は歌うことなどできないと聞いている。
報告から二日しか経っていないのだから、恐らく喋るのも苦痛だろう。
何故ここにいるのかはわからないが、少なくともエリアスとの話に口をはさむことはない。
そう思えば、少しは心が落ち着いた。
「……エリアス様、こちらにどうぞ」
花のようと形容される笑みで、エリアスを案内する。
だが、ノーラは共についてくる。
ヴィオラはちらちらと振り返っては睨んだが、それでもエリアスと腕を組んだまま。
つまづいて転びそうになるノーラをエリアスが抱きしめるように支えた時には、危うく悲鳴が出そうだった。
そうして庭までついてきたノーラに、ついに我慢ができなくなった。
「お話の前に、その人は誰?」
庭に到着するなり、エリアスの隣を指差す。
「俺の婚約者だったはずの人だよ。……それは、君が良く知っているんじゃないかな」
そう言ってノーラの肩を抱き寄せるので、ヴィオラは思わず拳を握りしめた。
「何を言っているのか、わからないわ。つまり、何の関係もない人よね?」
エリアスが婚約の書類を調べているという噂は、耳にしている。
だが、書き換えた役人が公爵家の指示を漏らすわけがない。
きっと、揺さぶりをかけているのだ。
疑われているというのは悲しかったが、絶対に発覚しないのだから、このまま知らぬ存ぜぬで貫き通せば良い。
視線を逸らすことなく堂々としたヴィオラを見て、エリアスはため息をついた。
「まずは、座ろうか」
「ノーラは飲まない方が良いね」
何故かノーラまで同席していることにいら立っていたが、紅茶を前にしたエリアスの言葉に視界が明るくなる思いがした。
やはり、ノーラはあの毒を飲んだのだ。
数日は炎症が収まらないだろうから、熱い紅茶など飲めるはずもない。
それに、さっきからノーラは一言も話さない。
きっと、歌どころか声を出すのもつらいのだろう。
だったら家にでもいれば良いのに、エリアスについてくるのだから、図々しい女だ。
ノーラの存在に苛立ちはしたものの、憎い相手の声を奪ってやったことで、少しだけ溜飲が下がった。
「あら。この紅茶は隣国から取り寄せた一級品よ。せっかくだから楽しんでもらいたいわ」
おまえのような身分では、決して口にできないだろう。
荒れた喉では、紅茶を飲むこともできないだろう。
我ながら意地が悪いとは思う。
だが、エリアスの隣に座るノーラを見ていると、むくむくと攻撃的な気持ちが湧いてくる。
これもきっと、嫉妬なのだろう。
こんな十人並みの、身分の低い女性に嫉妬するということ自体、耐えがたい苦痛だった。
「ノーラはのどの調子が、ね」
エリアスはそう言って、ノーラの頬から鎖骨にかけて指でなぞるように撫でた。
その仕草の色っぽさに、思わず息を呑む。
ノーラも驚愕の表情でエリアスを見ているところからすると、普段からこんなことをしているわけではなさそうだ。
それでも、十分にヴィオラの心は乱れた。
「俺が代わりに飲むよ」
庇うように紅茶に口をつける。
ノーラを苛んだはずなのに、何だかヴィオラの方が被害が大きいのは気のせいだろうか。
……やはり、この女性は邪魔だ。
声を奪うだけの毒なんて、生ぬるかったのかもしれない。
知らず、ノーラに厳しい視線を送っていると、エリアスが苦笑する。
その微笑みに、ヴィオラの心はあっという間に浮き立った。
「始めに、言い訳くらいは聞いてあげても良いよ」
「……え?」
何を言われたのか、すぐに理解できない。
言い訳とは、何だろうか。
「書類の改ざんに、ノーラへの毒物。どちらも許す気はないが、聞くだけは聞こう。……どうぞ」
――エリアスは、知っている。
全身の肌が逆立つのを感じる。
そんな馬鹿なことはないと思う一方、間違いなく知っているのだろうという確信めいたものがあった。
だが、認めるわけにはいかない。
「何のことか、わからないわ」
「そう」
つまらなそうにそう言うと、エリアスは極上の笑みを浮かべた。
「陛下へ提出する書類の改ざんは、陛下への虚偽の申告と同義だ。たとえ公爵家といえども、見逃すわけにはいかない」
「ま、待って。私には何のことだか……」
「実際に書類を書き換えた役人の証言で、エンロート公爵家の名があがっている」
あの役人、公爵家を売ったのか。
よくもふざけた真似をしてくれたものだ。
カルム侯爵家とエンロート公爵家のどちらが格上かなど、言うまでもないというのに。
「公爵自身は関与を否定しているし、君が指示した可能性を示唆している。……実際、君以外にそれを指示できるような人間はいないんだよ」
まさか、父親までもエリアスの味方だとは。
ヴィオラを王族に嫁がせたい父にとっては、ちょうど良いのかもしれないが、酷い話だ。
「私は関係ないわ。それに、国王陛下に提出した書類を調べるなんて、エリアス様にはできないでしょう? 勝手な想像でものを言わないで」
「……俺が調べたなんて、いつ言った?」
「――え?」
エリアスは変わらず微笑んでいる。
それは、決して親しみを向けたものではない。
まるで、ヴィオラを嘲笑うかのような微笑みだ。
「国王陛下御自ら提出書類をお調べになった結果、改ざんを確認されておいでになる。陛下は大変にご立腹だ。エンロート公爵も、娘の短慮を許すわけにはいかないだろう」
「へ、陛下自ら……?」
そんな馬鹿なことがあるものか。
一貴族の婚約の書類のために、わざわざ調査をしたというのか。
――何故。
何のために。
「そう。健全で正当な友情の上で、手助けをしてくださったよ。……持つべきものは、頼れる友人だね」
「……ま、まさか」
「それに、ノーラに毒を飲ませようとしたことにも、怒っていたよ。彼は『紺碧の歌姫』のファンでね。そもそも俺をあの店に連れて行ったのも、彼なんだ」
「う、嘘でしょ」
例の店は、平民が利用する格式の低いレストランだと聞いている。
そんなところに何故侯爵令息が通っているのかと疑問だったが。
まさか、国王に同行していたというのか。
国王がノーラのファンだというのなら。
ノーラが歌えないと知ったら。
それがヴィオラのせいだと知ったら。
背を汗がつたうのがわかった。
「さて。もう一度聞くよ。――言い訳は、あるかい?」
ずっと、エリアスが好きで、その笑顔が好きだった。
だが、この時。
ヴィオラは初めて、エリアスの笑顔に恐怖を感じた。