ヴィオラ・エンロートの嫉妬
「……つまらないわ」
とある夜会。
公爵令嬢ヴィオラ・エンロートは、ため息をついた。
艶やかな深紅の髪に橙色の瞳のヴィオラは、文句なしの美女だ。
当然のように多くの男性がヴィオラに近付いては、甘い言葉をささやいた。
どいつもこいつも似たような顔で、どれもこれも似たような台詞。
つまらないそれらを振り切って離れると、のどを潤そうとグラスに手を伸ばした。
どんなに退屈でも、公爵令嬢として最低限の振舞いをしなくてはならない。
うっとうしいだけの男性に上っ面の笑顔を返すのにも、疲れてしまった。
十分に頑張ったのだから、少しくらい休んでも問題ないだろう。
座れるところを探そうと踵を返すと、何かにぶつかってしまい、衝撃でグラスを落とした。
どうやら、男性にぶつかってしまったらしい。
高価そうな服に飲み物が付着してしまったのを見て、ヴィオラは内心舌打ちをした。
「あら、ごめんなさい」
一応謝罪の言葉を述べ、申し訳なさそうな顔を作る。
ヴィオラと接点を持つために、わざとぶつかってくる男も多い。
今回はヴィオラの不注意だが、結果は同じ事だ。
この男もどうせヴィオラを見たら口説いてくるのだろう。
面倒だが、服を汚した手前、少しは相手をしなければならない。
せっかく休もうと思ったところなのに。
八つ当たりだとは思ったが、この男性に文句を言いたくなった。
「いや。構わないよ」
その一言だけを残して、男はヴィオラの前から立ち去った。
想定外の出来事に、ヴィオラは呆気にとられた。
これだけの美女と話をできるチャンスなのに、彼は何をもったいないことをしているのだろう。
「ちょ、ちょっと待って」
思わず追いかけて声をかけると、男性が立ち止まって振り返った。
――負けた。
思わず、そう思った。
相手は男性だ。
だが、その美貌に釘付けになった。
灰茶色の髪は優しい色合いで、空色の瞳は澄んで美しい。
何より、その体格から整った顔まで、すべてがヴィオラの好みのど真ん中だった。
「何か?」
美貌の青年はヴィオラに短く問う。
この人ならば、ゆっくり話をしてあげても良い。
ヴィオラの手を取って踊るのも許そう。
跳ねる鼓動を抑えながら、渾身の笑顔を浮かべた。
「お詫びに、一緒にお話でもいかが?」
誰もが見惚れる微笑みだという自信はあった。
だが、青年は眉一つ動かさずに首を振った。
「遠慮しておこう。それでは」
恐ろしいほどそっけなく答えると、そのまま足早に立ち去ってしまう。
ヴィオラはあまりのことに、その場から動けなくなっていた。
青年はヴィオラの顔が見えていないのだろうかというくらい、興味がない様子だ。
傷付かなかったと言ったら、嘘になる。
だが、それどころではない。
ヴィオラを袖にする男性なんて、初めてだ。
その上、ヴィオラさえ霞むほどの美青年。
思わず胸を押さえると、深呼吸をする。
公爵令嬢ヴィオラ・エンロートは、この日初めて恋に落ちた。
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「――どういうことですか」
ヴィオラは衝撃で震えながら、声を上げた。
夜会で出会った美青年は、エリアス・カルムという名の侯爵令息だとわかった。
美貌の双子で知られているらしく、割と簡単に素性は調べることができた。
すぐに両親に彼と婚約したいと願い出たのが、あまり良い顔をされない。
ヴィオラを王族に嫁がせたいのだとわかっていたが、そこは粘って交渉し続けた。
思えば、こんなに両親に食らいついたのは初めてかもしれない。
自分ではない自分になったようで、更にエリアスへの気持ちは高まった。
何とかカルム侯爵家へ婚約の打診をしてもらった時には、天にも昇るようだった。
だが、幸せは長くは続かなかった。
カルム侯爵家からの返答は、エリアスの双子の弟アランならば話を受ける、というものだった。
「何故、双子の弟なんてことになるのですか。別人ではありませんか」
「どうやら、エリアスという名前を伝えるのを忘れたようなんだ。双子のどちらでも良いと言ったらしくてな。……まったく、困ったものだ」
――嘘だ。
名前を伝え忘れるなんてこと、あるはずがない。
もしかすると、意図的に双子のどちらでも良いという失礼な言い回しをしたのかもしれない。
両親はヴィオラを王族に嫁がせたいのだから、カルム侯爵家との婚約は上手くいかない方が都合が良いのだ。
「でしたら、もう一度。今度はエリアス様の名前をきちんと伝えてください」
「……ヴィオラ。おまえの名前が出ているのに彼が名乗りを上げなかった時点で、無理な話なんじゃないか?」
「それは」
失礼な言い回しのせいではないのか。
そうは思ったが、確かにエリアスがヴィオラとの婚約に積極的ではないのは事実だ。
言い返せない様子に、父はため息をつく。
「それに、エリアス・カルムには意中の女性がいるようだぞ」
「……え?」
思わぬ言葉に、呆然と口を開けてしまう。
意中の女性。
エリアスには、好きな人がいるのか。
「ヴィオラを娶るとなれば、その夫が侯爵位を継ぐのは間違いない。だが、彼はその女性のために爵位を捨てても構わない、と弟に譲ったらしい」
「何ですか、それ」
侯爵の位を捨てても添い遂げたいほど、その女性を好きだというのか。
ヴィオラではない、その女性を。
わなわなと唇が震える。
どうにか抑えようと手を伸ばすが、その手もまた小刻みに震えていた。
「諦めなさい、ヴィオラ。おまえは王族にこそ相応しい娘なんだ」
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公爵令嬢のヴィオラと侯爵の位を蹴るほどの女性。
気になって調べてみると、取り立てて美しいわけでもない、男爵令嬢だという。
しかも、平民が通うレストランで歌を歌っているというのだから、品のないことだ。
そんな女性に、ヴィオラは劣るというのか。
腹の奥底にめらめらと何かが燃え上がるような、悔しさがこみ上げた。
その上、既に婚約の書類を王城に提出したという。
とても許容できる話ではない。
ヴィオラはすぐに使用人を呼びつけると指示を出した。
この国では、貴族の婚姻には国王の裁可が必要だ。
手続きには通常ひと月ほどの時間がかかり、裁可を受けたらその旨を伝える書状がそれぞれの家に届く。
書類を提出したばかりならば、まだ国王の手元には渡っていないはず。
ヴィオラは提出された書類の曲筆を指示した。
エリアスの名前を、双子のアランに書き換えさせたのだ。
これで、その女性はアランと婚約する。
そうすればエンロート公爵家の打診には、エリアスが応えることになる。
元々エリアスが爵位を継ぐと聞いていたし、これで正しい姿ではないか。
ヴィオラは来るべき正しい未来を思い、心が晴れた。