お断りします
何事かと動こうとするが、アランの手がノーラを遠ざける。
「……誰だ」
剣を突きつけられているとは思えない落ち着いた声でアランが問うと、やがてゆっくりと角の向こうから二つの人影が姿を現した。
アランに剣を向けるのは、見知らぬ男性。
その背後にいた黒髪に茶色の瞳の青年は、場に似合わぬ剣を腰に佩いた姿でノーラを見て、にこりと微笑んだ。
「フーゴ様、どういうことですか」
「『紺碧の歌姫』と、乾杯をしたいだけですよ」
そう言うと、手に持っていたグラスを差し出す。
透明のグラスの中には葡萄ジュースかワインのような赤っぽい液体が入っているが、この状況で中身が普通の飲み物だとは思えない。
「そんな怪しいもの、飲めません。……私を殺すつもりですか?」
ただ乾杯するというのなら、夜会の会場で声をかければいい。
それをこんな回廊で、剣を携えた男性を連れて、アランに剣を向けてまで飲ませたいもの。
薬や毒が仕込まれていると考えるのが妥当だろう。
腰の剣は、ノーラを貫くために用意したのかもしれない。
「まさか。あなたをお招きしたいだけだと言っているでしょう? ……大人しくしてくださいね、エリアス・カルム」
フーゴの声に従うように男性の剣がアランの首筋にぴたりと張り付く。
どうやらフーゴは、アランとエリアスの見分けがついていないらしい。
瞳の色こそ違うがそれ以外はほぼ同じなので、間違うのも仕方がないが。
「表から裏から、色々と邪魔をしてくれましたが、それもここまでです」
忌々しそうにアランを睨むと、フーゴはノーラに視線を戻し、微笑んだ。
「さあノーラさん。これを飲んでください。大丈夫、少し眠くなるだけです。あなたの体に害はありません」
「十分、害だと思いますが。大体、何故眠る必要があるのですか」
理由は不明だが、フーゴはノーラをどこかに連れて行きたいようだ。
それならば歩かせた方がよほど早いし効率がいいだろうに。
「叫ぶなり逃げるなりされても面倒ですから。王城内はさすがに警備兵も多いですが、体調を崩した歌姫を介抱する形ならば、自然ですからね。本当なら攫われかけたあなたを助けるという筋書きだったのですが……エリアス・カルムは本当に邪魔ばかりしてくれます」
この話しぶりでは、先程の謎の男性達はフーゴの手の者のようだ。
そして今回は薬で眠らせて逃げ道を絶った上で、安全に連れ出すつもりらしい。
ということは、あの液体を飲んだらそこでノーラは終わりだ。
「お断りします」
きっぱりとそう伝えるが、フーゴは特に気にする様子もない。
「それならば、他の人に飲んで貰いましょうか。……今、この王城内には誰がいますか?」
「誰。……陛下ですか?」
「まさか」
「では、次期王妃」
「違います」
「あとは国賓の……隣国の王子」
そこまで言うと、フーゴの顔が引きつる。
「あなたの御家族が、いますよね? 飲み物に薬を混ぜるなど、容易いことです。……まあ、この中身と同じ薬とは限りませんがね」
にやりと笑みを浮かべるフーゴに、ノーラの眉間に皺が寄る。
「何が言いたいのですか」
「御家族に薬を飲まされたくなければ、あなたが飲んでください。ああ、ついでにエリアス・カルム。あなたもね」
アランが何かを言いかけたが、男性が剣を突きつけたせいで、言葉を飲み込んでいる。
決断はノーラ一人で下せ、ということか。
いい度胸である。
「ここまでして私を連れ出したい理由がわかりません。何をしたいのですか」
「あなたの歌を活かせる場所にお連れするだけですよ」
「それは、誘拐というのでは?」
「あなたのためを思ってのことです。善意ですよ」
「善意ある人は薬を飲ませないと思います」
「思いにも、色々な形があるのですよ。さあ、どうしますか?」
二択を迫っているようで、フーゴの意見を承認するのを待っているだけだ。
楽し気に微笑む姿に嫌気がさしたノーラは、小さく息を吐いた。
「お断りします」
「……後悔しますよ」
どうやらノーラの返答が想定外だったらしく、少しだけフーゴの表情が曇った。
「家族を盾にして脅して。そこまでして飲ませたいものが睡眠薬だけだとも思えません」
「それならば、なおのことあなたが御家族を守るべきでは?」
「私が飲んだからとて、家族が無事な保障はありません。それに、家族も馬鹿じゃないのできっと大丈夫です。……父以外は」
母のリータと弟のペールはなかなかの美貌なので、飲み物に何かを混ぜられそうになった経験があるらしい。
エリアスのように毒見まではできないにしても、口にするものにはそれなりに気を付けている。
父のカールだけは勧められたらホイホイ飲みそうだが……そこはリータに期待するしかない。
……本当は、怖い。
ノーラの選択のせいで家族に何かあったらと思うと、震えそうになる。
だが、これは対等な契約ではなくて、脅迫だ。
従ったところで安全の保証はないし、家族だって悲しむだろう。
だから、屈してはいけないし、心が揺れていることを悟られてもいけない。
負けないという意思を込めて睨みつけると、フーゴはグラスを片手に肩をすくめた。
「これは、意外です。残念ですよ、『紺碧の歌姫』が家族を見捨てるような人だったとは」
これも、きっと揺さぶりをかけているのだ。
聞いてはいけない。
「それとも、信じていないのですか? あなたの家を潰すくらい、わけはないのですよ?」
アランが何かを言いかけて口を開けたところに、男性が剣先を挟み込んだ。
「さすがに、侯爵令息を切ると面倒です。黙っていてください、エリアス・カルム。……まあ、いざとなればどうにでもなりますがね」
そんなはずがない。
フーゴは伯爵令息だと聞いた。
ノーラや貧乏男爵家はどうにかできても、名門カルム侯爵家の令息に傷をつけてただで済むとは思えない。
これは、フーゴが自分を過信しているだけか。
あるいは、後ろ盾があるのか。
もしあるのだとしたら、それはカルム侯爵家すらどうにかできるほどの相手なのだ。
その可能性に、すっと背筋が冷える。
顔色を変えたノーラに気付いたらしいフーゴは、満足そうに笑みを浮かべた。
「本当ならば、口説き落として同意の上に連れ出すつもりでしたが。たいした容姿でもないくせに身持ちが無駄に固いので、苦労しましたよ。エリアス・カルムもあれこれと邪魔でしたしね。それも、もう終わりです。……私と一緒に来てくれますね、『紺碧の歌姫』」
アランは口に剣を突っ込まれたまま、小さく首を振っている。
それを見たノーラは、ゆっくりと息を吐いた。
「私は、歌が好きです。歌を聴いた人が笑顔になってくれるのが好きです。だからこんな風に家族を盾にして権力で脅すような人のためには、歌えません。――お断りします」
「……それでいいよ」
麗しいその声と共に、何かが風を切る音が聞こえ、同時にフーゴが足を押さえてうずくまった。
※そも婚も終盤に入りました。
明日は次の連載のテーマを公開します。
第8回ネット小説大賞を受賞作
「婚約破棄されたが、そもそも婚約した覚えはない」(略称・「そも婚」)
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次話 ノーラのもとに現れたのは……?