ペール・クランツの涙
「お帰り、リータ、ペール。借金がなくなったよ」
領地の視察から帰ったペールと母リータを迎えたのは、カール・クランツ男爵の呑気な笑顔だった。
「……は? あれだけの額が、何でなくなるんですか? ついに何かやばいものに手を出したんですか、父さん」
「それならそうと言ってくだされば、殴打しても止めましたものを」
ペールにそっくりの整った顔立ちで、リータが笑みを浮かべて拳を握る。
「ま、待ってください、お母様。違うんです」
青みがかった黒髪が美しい姉が、慌ててリータを止めた。
「あら、そうですね。ノーラがいたのに、そんな馬鹿な真似を許すはずがありませんね」
「だったら、妄想ですか?」
「酷いな、ペール。本当だよ。クランツ家代々の由緒正しい泥沼の借金は、ゼロになった」
「……だとしたら、何があったんですか? まさか、姉さんを売り飛ばすつもりじゃ」
「ペールならまだしも、私じゃ売ったところで借金の足しにはならないですよ」
ノーラはそう言って笑う。
だが、顔には多少の自信があるとはいえ、ペールを売ったところで借金が消えたとは思えない。
それほどの額だったのに、何があったというのだ。
「まあ、ノーラがある意味で、体を張って稼いだようなものだね」
「――カール様、ちょっとそこに座ってください」
何を想像したのかは知らないが、リータが無表情で床を指し示す。
あまりの迫力に、クランツ家当主は大人しくソファーから床に滑り落ちる。
「お母様、大丈夫です。よくわかりませんが、お母様の想像とは違うと思います」
「あら、そうですか? カール様、戻ってくださいな」
カールは大人しく床からソファーに戻ると、座面のでこぼこのせいで傾きながらも笑顔を浮かべている。
「……結局、何なんですか? 借金ゼロが本当なら、何があったんです、姉さん」
カールの説明に見切りをつけると、ペールは姉の菫色の瞳を見つめる。
顔の造作で言うと父親似のノーラは、いわゆる美人とまではいかない。
だが、青味がかった黒髪も菫色の瞳も、それを損なわない控えめな容姿も、ペールにとっては好ましいものだった。
「ええと。話すと長いのですが。簡単に言うと、婚約破棄の慰謝料です」
「……はあ?」
思わず素っ頓狂な声を出すと、ノーラは困ったように微笑んだ。
「つまり、姉さんの知らぬ間に父さんが侯爵令息と婚約を進めて、それが公衆の面前で婚約破棄された分の慰謝料ってことですね?」
「そうなりますね」
「それで、現在その侯爵令息の双子の兄弟とお友達だ、と」
「あ、婚約破棄の方も、何だかんだでたぶんお友達のようなものだと思います」
……意味がわからない。
ノーラが知らぬ間に婚約という時点で既に言いたいことはあるが、親が相手を決めるというのは貴族ならよくあることなので目をつぶる。
だが、婚約したことすら知らない相手から、公衆の面前で婚約破棄とは何事だ。
そして、それだけの恥をかかされて、何故そいつらとお友達なのだ。
理解を超えすぎて、何を聞いたらいいのかわからない。
「……姉さんは、それで良いんですか?」
「良いというか……。色々あったんですよ? でも、まあ、どうしようもないですし。今は、お友達です」
ペールがどうにか絞り出した言葉に、どうにもならない答えが返ってきた。
確かに、相手は侯爵家なのだから、叩きのめそうというのは無理な話だ。
ノーラなりに折り合いをつけたということだろう。
破格の慰謝料を払ったようだし、お友達をできる程度にはまともな人間なのかもしれない。
ペールはそう結論を出した。
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こう言っては何だが、ペールはそれなりに顔が良い。
女性達からも言われるし、自覚もあった。
だが、何事も上には上があるものだ。
「ペール、こちらはエリアス様です」
そう言って玄関先でノーラが紹介したのは、紛うことなき美青年だった。
灰茶色の髪に空色の瞳が美しく、造作は整って、背も高ければ足も長い。
その上、侯爵令息というのだから、世の中というのは清々しいほど不平等だ。
「エリアス・カルムだ。よろしく」
「……ペール・クランツです。姉が色々お世話になったようで」
含みを持たせた言葉に、エリアスが苦笑する。
「迷惑をかけた、だろう? その通りだよ。……君は、あまりノーラと似ていないね」
「ペールはお母様似で、この辺りでは美少年ってもてはやされているんですよ。私とは大違いの、自慢の弟です」
自慢の弟という言葉にペールの心が浮き立つが、ノーラの容姿が劣っているような物言いは気に入らなかった。
「確かに、ちょっと違う系統だね。ノーラはもっと、控えめで芯が強い感じの美しさだから」
「――え? な、何を言うんですかエリアス様」
「何って?」
素直に聞き返されて、ノーラは二の句が継げないでいる。
微かに頬が赤いのは、ペールの気のせいではないだろう。
確かこっちは、婚約破棄された時に婚約を申し込んで断られた方の双子だったか。
お友達とはいえ、どうやらエリアスの方はノーラに好意があるようだった。
「ノーラ、今日はバイトだろう? 俺は店に行けないけれど、帰りの送迎用にアランは行くから」
「え? そのためだけですか? アラン様に悪いので、いいですよ。子供じゃないので、一人で帰れます」
「子供じゃないから、だよ。ちゃんとアランと帰ってね、ノーラ」
どうやらレストランのバイトの送迎の話らしい。
アランというのは、例の婚約破棄の方だったはず。
本当にお友達をしているのかと呆れる反面、夜道を帰るノーラを気遣う様はもはや恋人にさえ見える。
何なんだろう、この関係は。
ノーラは騙されているのだろうか。
妙な関係が心配になったペールは、ノーラについて行ってみることにした。
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「ペール、アラン様と一緒にいてくださいね」
そう言って、ノーラは店の奥に消えていく。
支度をして出番を待つらしい。
そう言えば、ノーラの歌を聴くのも久しぶりだった。
「……姉の送迎のために、いるんですか?」
飲み物を注文すると、エリアスに劣らぬ美青年に疑問をぶつけてみる。
「まあ、それもあるけどな。ここでノーラの歌を聴いて、食事するのが楽しみなんだ」
侯爵家の方が豪勢な料理が出そうなものだが、庶民的な味の虜ということなのだろうか。
「それで、弟君はノーラが心配でやって来たわけか?」
「まあ、そうですね。普通に考えて、経緯がおかしいし、結果お友達というのも理解できませんから」
「だろうなあ」
アランは何故か楽しそうに笑うと、運ばれてきた酒のグラスを手に取った。
「とりあえずは、乾杯といこうか」
店内にピアノの音が響くと、すっと波のように喧騒が引いていく。
『紺碧の歌姫』の名に相応しい、濃い青のドレスに身を包んだノーラが現れると、客の視線は釘付けとなった。
ノーラの歌は心地良い。
上手とか下手とか言うよりも、心地良いというのがぴったり当てはまる。
声の響き、揺らぎ、間。
そのどれもが、心を癒してくれる。
小さい頃には迷子や喧嘩で泣いた子に歌って聞かせていたが、不思議なほどすぐに泣き止んだものだ。
曲が終わり、拍手で送られる姉の姿を見て、ペールは何だか胸が温かくなった気がした。
「……アラン様、何をしたんですか」
「何も? 乾杯して飲んでいただけだぞ」
いつの間にか、同じ机にノーラが戻っていた。
だが、酒のせいか、ぼうっとする。
「まあ、何だか幸せそうなので良いですけれど」
人参をかじるペールを見ながら、ノーラは椅子に座った。
「今日のおすすめはエリアス様の好物だったのに、残念ですね」
「エリアスは夜会だからな。本当ならここで食事の方が良かったんだが」
「ああ、夜会なんですね。でも、アラン様は行かなくて良いんですか?」
「エリアスが行けば十分だ。それに、あちらの目当ては俺じゃないしな」
「目当て?」
「ああ、いや……。そう言えば、ノーラは夜会に行かないのか?」
「行きませんね。面倒ですし、貧乏暇なしだし、ドレスだってありませんし」
大人しく話を聞いていたペールだが、ノーラの言葉に涙が込み上げてきた。
「ごめんなさい、姉さん。うちが貧乏だから……」
「え? 何? 何で泣いてるんですか、ペール」
「俺、頑張りますから。姉さんに似合うドレス、作りましょうね」
「……ペールって、お酒を飲むと泣く人だったんですね。知りませんでした」
ノーラが頭を撫でるから、ペールの涙は止まらなくなる。
日々バイトに明け暮れ、年頃の女性なのにろくにドレスも作れない状況でも、特に文句も言わない。
普段は言わないけれど、ペールはノーラを尊敬していた。
いつかは、もっと楽にしてあげたいと思っているが、現実は厳しい。
「どうせ使わないんだから、そんなドレスはいらないです。それよりも、借金ゼロになったんだし、領地にようやく手が回りますね」
微笑むノーラを見て、ペールの涙は更に止まらない。
「もう、姉さんはずっとうちにいてください。俺が養います」
「嬉しいけど、将来のペールのお嫁さんに悪いですよ」
ノーラは笑いながら、涙を流すペールの頭を撫でる。
ペールはクランツ家を継ぐのだから、いつかは誰かを娶るのだろう。
だがその前に、苦労を掛けた大事な姉を任せられる相手を見つけてからだ。
ペールは泣きながら姉を抱きしめた。