無理です
特売はいい。
同じものを割安で購入できてお得だし、材料を安く手に入れられれば何を作って売るにも利益が出る。
借金はなくなっても貧乏であることに変わりがない以上、特売日は心躍る一日なのだ。
果物が安かったその日、ノーラは木箱いっぱいの林檎を抱えて帰る途中だった。
エリアスに出会って以来、買い物に勝手に同行されることが多かったが、最近は王城で宰相補佐として働いているのでさすがにやって来ない。
ノーラも王城に行く時には一緒に馬車に乗るが、基本的に城内では別行動だし、帰りはアランが来てくれることが多い。
こうして振り返ってみると、これだけエリアスと離れているのは初めてなのかもしれない。
少し寂しい気もしたが、もともと侯爵令息が食材の荷運びをすること自体がおかしかったのだから、普通に戻っただけとも言える。
林檎がいっぱい入った木箱を抱えながら歩いていると、ふとつまづいた拍子に林檎が一個転がり落ちた。
それを拾い上げた黒髪の男性にお礼を言おうとして、ノーラは固まった。
黒髪に茶色の瞳の、場にそぐわぬ上質な身なりの男性は……フーゴだ。
ノーラは木箱を抱えたまま、少しばかり警戒する。
夜会や王城で会うのはまだわかるが、ここは街中の路地だ。
どう考えても通りすがりの偶然だとは思えないが、一体どういうことだろう。
すぐに立ち去るべきとは思ったが、フーゴの手にはノーラが落とした林檎がある。
林檎一つとはいえ、お金を出して購入した大事なものなので、無駄にしたくはない。
身に沁みついた貧乏ともったいない精神に体を支配されたノーラは、とりあえず木箱を足元に置く。
すると、林檎を持ったままフーゴが歩み寄ってきた。
「先日はすみませんでした。あなたに触れることができて、緊張してしまって、つい。……ですが、あなたとその歌が好きなのは本当なのです」
どう考えても緊張している様子ではなかったが、歌という言葉を聞いてノーラの中で少し警戒心が緩む。
口だけでノーラに好意を訴えてくるのが謎だったが、やはり歌の方に興味があるのだ。
歌が好きなのをノーラのことも好きなのだと勘違いしたか、あるいは好意を伝えれば歌うだろうと目されたのか。
何にしても理由がわかったことで、少しスッキリした。
「ありがとうございます。お屋敷にお招きいただくのも、大変光栄です。ですが、一応雇い主である陛下か宰相に許可を貰っていただけますか」
「もちろん、既にお願いしてあります。ですが、あなたは王家直属の公認歌姫。一介の貴族では、そう簡単に申請が通りません。……せめて、店で歌った後に二人で会うというのは」
「無理です」
店で歌う時には送迎でカルム兄弟のどちらかが一緒だし、それを蹴ってまでフーゴと会う理由がない。
大体、歌を聴きたいのなら店で既に事足りているはずなので、二人で会う必要もないはずだ。
ふと、この断り方には恥じらいの欠片もないのではと思ったが、恥じらっていても通じないようなので、諦めよう。
ここは平民の暮らす街中なので、恥じらいの範囲外ということにしておく。
大体、林檎をぶんどって走り去らないだけ、まだ恥じらっている方だと言えよう。
「何なら、今からでも」
「無理です」
ノーラはこれから木箱いっぱいの林檎を使ってジャムとジュース作りに励む予定だ。
こうして話している時間ももったいないくらいである。
「それは、困りましたね」
フーゴは肩をすくめているが、困っているのはノーラの方だ。
何度言っても話が通じないのは、自分は優先されるべきという貴族的思考のせいなのだろうか。
「お店で歌を聴いていただくか、陛下と宰相に話を通してください。個人的には応じかねます」
「そうですか」
フーゴは力なく呟くと、手にしていた林檎をノーラに差し出す。
ようやくわかってくれたのかと林檎を持つと、その手をぎゅっとつかまれた。
「……では、仕方ありませんね」
穏やかさの消えた声に顔を上げて見れば、表情こそ笑みを湛えていたものの、フーゴの瞳には剣呑な光が宿っていた。
「――何が、仕方ないって?」
少し低めの心地良い声が耳に届く。
その声の主である美貌の青年の姿を見たノーラはほっと息をつき、フーゴは小さく舌打ちした。
「ノーラ、おいで」
背景に花でも舞っていそうな麗しい笑みで、エリアスが手を差し伸べる。
だが、それに従うわけにもいかない。
「ですが、林檎が……」
ノーラは林檎を握り締めており、その手と林檎をフーゴがつかんでいる。
互いに林檎を放さず動けない状態の二人を見て、エリアスはため息と共に歩み寄ってきた。
ノーラをつかむフーゴの手を外すと、同時に林檎からも手が離れる。
すかさず林檎を取り戻したノーラは、大事な林檎を木箱の中に入れた。
「ありがとうございます、エリアス様」
林檎を無駄にせずに済んで嬉しくて礼を言うと、エリアスは苦笑と共にノーラの肩を引き寄せた。
「こんなところで伯爵令息が、一体何をしていたのかな?」
「それを言ったら、あなたこそ。王城で仕事があるのでは?」
ノーラからすれば、どちらもその通りだと思う。
フーゴの行動も意味不明だが、エリアスは忙しいはずなのに、何故ここにいるのだろう。
「俺は、大切な婚約者に会いに来ただけだよ。……それで、ノーラに何の用かな?」
共に笑みを湛えていたが、笑顔の破壊力で負けたせいかフーゴの表情が少し曇る。
「その。『紺碧の歌姫』を邸にお招きしようと」
「正式な招待ならば、書類一式を揃えて提出してもらおう。陛下又は宰相から認められれば、後日その旨が通達される。それでいいかな」
許可をもらうだけでも面倒臭そうなのに書類が必要で、しかも一式というからには複数あるわけか。
これは確かに、面倒だからとノーラに直訴したくなる気持ちもわからないでもない。
「……まあ、今のところ個人で『紺碧の歌姫』を招待できた人はいないけれどね」
どうせ招待はできない、と暗に伝える言葉に、フーゴの眉間に皺が寄っていく。
「それで? 本当の用件は、何?」
「は?」
「歌を聴きたいのなら、店に行けばいい。それをせずに邸に招きたい理由だよ。それも、正規の手続きを踏まずにクランツ男爵やノーラに直接掛け合っている。陛下や宰相に知られたら困ることでも、あるのかな?」
王城のメイド達が見たら倒れてしまうのではないだろうかという色気しかない微笑みに、フーゴはさっと顔色を変えた。
「ま、まさか」
慌てた様子で首を振るのを見て、エリアスは静かにうなずく。
「それならば、店で大人しく歌を聴くか、通達を待つんだね。あまり男爵やノーラにちょっかいを出すようなら……見逃すわけにはいかないよ」
一点の曇りもないその笑みに身震いをしたフーゴは、そのままあっという間に走り去ってしまう。
呆気に取られてその後姿を見送っていると、肩に触れていた手が離れた。
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