恥じらいは面倒くさいです
「こんばんは、ノーラさん」
「……ええと」
この青年の名前はフーゴだ。
それは憶えている。
問題は、家名がまったく記憶にないことだ。
何の冗談かはわからないが初対面で好意を伝えられ、若干しつこい感じだったので、名前で呼ぶのは避けた方がいい気がする。
だが、『家名は何でしたか?』と正直に聞くのは、恥じらい的に良くないだろう。
本能と恥じらいを天秤にかけたノーラは、仕方なく恥じらいを取ることにした。
「フーゴ様、こんばんは。それでは失礼いたします」
折衷案として名前を呼んですぐに撤退を実行しようとしたのだが、それを阻むように目の前に立たれてしまい、ノーラの足が止まった。
よくよく考えれば一度顔を合わせただけで、好意を伝えてきた男性を名前で呼ぶのも、恥じらい的に微妙な気がしてきた。
挨拶だけして立ち去ればよかったのだろうが、もう手遅れである。
「先日は邪魔が入ってしまいましたが、私の気持ちに偽りはありません。あなたのことが好きなのです」
真剣な茶色の瞳を見つめたノーラは、ふと気づいてしまった。
――フーゴは、ノーラに好意など持っていない。
もともとわかってはいたが、こうしてしっかりと向き合ってはっきりした。
エリアスと散々話をした後だから違いが明らか、というのもあるかもしれない。
言葉でこそ好意を訴えていたが、フーゴの目にも態度にもそんなものは存在しないのがよくわかる。
だが、そうするとこの行動の意味が理解できなかった。
将来の侯爵夫人になるかもしれないノーラに顔を売っているのだろうか。
いや、それならば好意を伝えるというのは完全な悪手。
それに顔を売るのなら、エリアスにしなければ意味がない。
となると、ノーラ自身と繋がりを持って利益になる何かを求めていることになる。
「もしかして……私の歌を好んでくれている、ということですか?」
歌という言葉に、フーゴの眉がぴくりと動いた。
「それは……確かにあなたの歌は魅力的ですが、本当に好意があるのです」
「ありがたいのですが、私には婚約者がいますので」
歌を気に入ってくれているのなら、それは嬉しい。
自然と微笑んでお断りする形になったが、これはなかなか恥じらい的にもいい気がする。
「せめて、あなたの歌を聴かせてもらえませんか」
「お店でなら、いつでもどうぞ」
ノーラとしてはかなり友好的な返事をしたつもりなのだが、フーゴは少し困ったように眉を下げた。
「そうではなくて。もっと個人的に。できれば、私の屋敷にお招きしたいのですが」
「ありがたいお話ですが、遠慮させていただきます」
「一度だけでもいいのです。是非、いらしてください」
「いえ。申し訳ありませんが」
なおも食い下がるフーゴに、段々ノーラも飽きてきた。
本当ならさっさと立ち去りたいところを、ぐっと恥じらいと共に我慢しているのだが、どうにもしつこい。
なけなしの微笑みもだいぶ引きつっていると思うのだが、フーゴは気付かないのだろうか。
――恥じらい、面倒くさい。
身も蓋もない結論がノーラの中で出るのと、背後に人の気配を感じるのはほぼ同時だった。
「ノーラ、探したよ」
少し低く耳に心地良いその声の持ち主は、ノーラの手を取ると自身の傍らに引き寄せた。
「回廊にずっといたら、冷えてしまう。さあ、戻ろう」
眩い笑みと共に救いの言葉をかけられ、危うくうなずきそうになるのをどうにか留める。
「エリアス様、あの」
会場に戻るのは大賛成だが、フーゴを放置していいものだろうか。
ちらりと向けた視線で察したらしいエリアスは、小さく息をつくとノーラと手を繋いだまま、フーゴに顔を向けた。
「ポールソン伯爵令息ですね。何か御用でしょうか?」
女性に向けたら失神する人が出そうな麗しい笑みを投げかけられたフーゴは、何かを言いかけて口をつぐむと、そのまま立ち去ってしまった。
回廊の奥に姿が消えるのを見たノーラは、思わずため息をついた。
「ありがとうございます、エリアス様。麗しい笑みの中に潜む黒い圧力が素晴らしいです」
「……それ、褒めているの?」
「絶賛です」
力強くうなずくノーラに、エリアスは困ったように眉を下げた。
「やっぱり、ノーラの誉め方は独特だよね。……それにしても、ノーラ。もっとはっきり断らないと、相手が勘違いしかねないよ」
「頑張って恥じらいつつ断りましたが」
それでもしつこい場合には、どうしたらいいのだろう。
首を傾げながら考えていると、エリアスの手が優しく頭を撫でる。
「恥じらいもいいけれど、俺以外の男にあの笑顔は駄目。もったいなくて、閉じ込めてしまいたくなる」
何だか怖いことを言っているが、顔がいいせいで冗談に聞こえないから、本当にやめてほしい。
「私も向いていないとは思っています。でも、淑女の嗜みとして恥じらいを練習しておかないといけません」
「何故?」
「このままでは、エリアス様の足を引っ張ってしまいますから」
エリアスは、いずれ侯爵となり、宰相となる。
役に立つのは無理だとしても、せめてその邪魔にならないように、貴族女性としての振る舞いを習得しておきたかった。
だが、皆簡単そうにこなしているのに、ノーラには難しい。
少し切なくなってため息をつくのと、エリアスが息を吐くのはほぼ同時だった。
「俺のため、か」
「……エリアス様?」
ノーラの不甲斐なさに落胆してため息をついているのかと思ったら、何だか様子が違う。
口元に手を当てて頬を染める様は麗しく、思わず感嘆の息が漏れた。
――理想の恥じらいが、今ここに。
学び取ろうにも土台が違い過ぎるので、参考になりそうでならない。
とりあえずじっくりと観賞していると、エリアスはゆっくりと首を振った。
「そういうことを言われると、家に帰したくなくなるな」
……どうしよう、恥じらいではなかった。
何というか、もっと危険な雰囲気だった。
「エリアス様が言うと何だか怖いので、冗談はやめてください」
「そうだね。楽しみはとっておこうか」
その微笑みの麗しさに目が眩み、その言葉の不穏さで背筋が冷える。
美貌の侯爵令息は、恥じらいを凌駕した何かを携えているので恐ろしい。
ノーラは婚約者の油断ならない笑みを見つめながら、小さく息を吐いた。
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次話 アンドレアと話したノーラは、自身の恥じらいのまさかの展開に……?