あるべきものが、ありません
「これが、楽譜です」
王城の使用人から手渡された楽譜に目を通すのは、四人だ。
歌い手のノーラ、ピアノのフローラ、それからバイオリンとフルート。
歌を活かすためにシンプルな構成になったと説明を受けながら、ノーラは室内を見回した。
王城内のこの部屋にはピアノが置いてあり、防音の設備もあると聞いた。
ということは、思い切り歌っても迷惑にはならないのだろう。
少し安心しながら説明を聞いているが、何となくバイオリンとフルートの二人の視線が険しいのは気のせいだろうか。
「ウルリー会までそれほど期間もありませんが、陛下やメルネス侯爵令嬢をはじめ、皆さま楽しみになさっています。どうぞ、励んでください」
普通にウルリー会と呼んでいるあたり、フェリシアの影響力が恐ろしい。
いや、単にアンドレアがそう呼ぶよう指示しただけかもしれないが、どちらにしても恐ろしい。
「あなたが『紺碧の歌姫』?」
使用人が出て行った途端に、バイオリンの女性が尋ねてきた。
「はい、そう呼ばれています」
ノーラの返事を聞くと、女性は一気に眉をひそめる。
「宮廷音楽家に選ばれるのだって至難の業なのに、公認歌姫なんて職を新設されるくらいもだもの。さぞ、陛下に気に入られているのね。羨ましいわ」
「ちょっと、やめなさいよ」
フルートの女性が袖を引いて止めようとするが、バイオリンの女性にかえって火が点いたらしい。
「ねえ、どうやったらお気に入りになれるのか、教えてくれない? 街の酒場で歌っていたんでしょう? 陛下にもサービスをしていたのかしら」
嫌悪感と嫉妬というところか。
貴族令嬢に庶民の店で歌うことを軽蔑されることは多々あったが、こうして真正面から言われるのも久しぶりである。
正直、放っておくのが一番なのだが、ウルリー会では一緒に演奏しなければいけないのでそうもいかない。
何よりも、彼女たちの発言は危険であると教えてあげた方がいい気がする。
「一部、発言の撤回を求めます」
「な、何よ。謝らないわよ。事実でしょう」
ノーラが言い返したことで何故か怯んでいるが、怖がるくらいならば何も言わなければいいと思うのだが……面倒くさいことだ。
「まず、公認歌姫に関しては陛下の命ですので、私個人ではなく陛下への文句ととらえられます。お勧めしません。それから、陛下が私の何らかのサービスに絆されたかのような表現もよろしくないので、お勧めできません」
「どういう意味よ」
まったく危機感のない女性に、ノーラはため息をついた。
「次期王妃であるアンドレア・メルネス侯爵令嬢をご覧になったことはありますか?」
「夜会で、お見かけしたことなら」
前提条件は揃っている。
ノーラは大きくうなずくと、腰に手を当てて無い胸を張った。
「では、アンドレア様を思い浮かべた上で、私を見てください。気付くことがありますね?」
「え?」
バイオリンの女性だけでなくフルートの女性までもがじっとノーラを見つめるが、首を傾げている。
「な、何よ?」
「ちゃんと見ていますか? あるべきものがないですよね? 決定的に不足していますよね⁉」
促されて再びノーラに視線を向けるが、やはり二人ともわかっていないらしい。
ノーラは大きく息を吐いた。
「わかりませんか? 私には胸がありません!」
高らかに宣言するノーラに、二人の動きが止まった。
「対してアンドレア様の豊満かつ優美な胸部といったらないです。その上、いい香りがします。垂涎ものです」
「……ちょっと、ノーラ。変態っぽいからその言い方はやめて」
背後からフローラが注意してくるが、今はそれどころではない。
「陛下には、美しく上品で胸まで豊かな完璧淑女のアンドレア様がいるのですよ? それをこんな胸のむの字もない女の何に絆されるというのですか。陛下とアンドレア様に失礼です! そう思いませんか!?」
「……そ、そうね」
二人が顔を見合わせてぎこちなくうなずくのを見て、ノーラは満足して腰に当てていた手を下ろす。
「ということで、私はただの雇われ歌い手です。お気になさらず。……お茶とは言いませんが、せめてお水はほしいですよね。ちょっともらってきます」
ノーラは部屋を出ると、そのまま厨房へと向かった。
「パウラさん、お水とグラスをください」
在り処はわかるが、今のノーラはメイドではないので勝手に持っていけば迷惑がかかる。
それでちょうど厨房にいたパウラに声をかけたのだが、パウラは首を傾げている。
「何に使うの?」
「飲みます」
「それはわかるわよ。確かウルリー会とかいう夜会の顔合わせと練習でしょう? メイドがお茶とお菓子を用意しているはずだけど」
厨房にまでウルリー会の名が浸透していることに驚きだが、パウラは元メイドなのでメイドからの話が早いのかもしれない。
「行き違いでしょうか」
「事前に準備して、すぐにおもてなししているはずだけど。……ノーラ、一応これを持って行って。ワゴンを貸してあげるから」
そう言ってパウラはワゴンを引っ張り出し、お湯や茶葉を用意し始める。
まあ、行き違いだとしても片づければいいだけのことだし、問題ないだろう。
だが、ノーラがワゴンを押して部屋に戻ると、既にテーブルの上には紅茶の用意がされていた。
……ただし、二人ぶんだけ。
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