覚悟を決めたのは、誰でしょう
「ノーラは、現在の宰相を知っているかな?」
「とても有能な方ですが、御高齢だと伺いました」
リンデル公爵のあれやこれやの後始末で体調を崩した、という話を耳にしたことがある。
「そう。まあ元気だけど、さすがに年だからね。そろそろ後継を決めて育てないといけない。ところが、あいつは独身で子供はいないんだ」
「では、御親戚で養子を取るのでしょうか」
宰相の名前も知らないが、恐らくは上位貴族なのだから、どちらにしろ跡継ぎが必要だろう。
となれば、一般的には親戚から養子を貰って継がせることになる。
「普通は、そうだな。だが、こう言っては何だが、奴は有能でも親戚は凡人だ。家は継げたとしても、宰相位を継ぐような人間ではない」
それも、よくある話だ。
親族や我が子に無理に役目を引き継がせた結果、酷いことになったという話をノーラも聞いたことがある。
「では、まったく別の方を探すのですか」
ノーラの言葉に、トールヴァルドはグラスを置いて、深くうなずいた。
「そう。ずっと目星をつけて交渉していたんだが、なかなか首を縦に振らなくてね」
大袈裟に肩を竦めてみせるところを見ると、交渉とやらはかなり難航したのだろう。
「何でも、恋人がそういった身分や地位に執着がないどころか、それが枷になりそうで困るからと断られて。家を継ぐことすら、渋っていたようなんだ」
それはまた、随分と本格的に拒否されたものだ。
そこまで言われても交渉を続けているとなると、よほど得難い人材ということか。
「でも、色々あったみたいで。ようやく、覚悟を決めてくれたんだ」
「そうなんですか」
それは、トールヴァルドの粘り勝ちなのだろう。
実に嬉しそうに語る姿からして、件の人物への信頼と期待が大きいのがよくわかる。
「そうなんだ。――なあ? エリアス・カルム」
「……え?」
驚いて隣を向くと、空色の瞳と視線が重なる。
ノーラを優しく包み込むような笑みを浮かべると、エリアスはゆっくりとうなずいた。
「ということで、これからもよろしく頼むよ」
そう言いながら、トールヴァルドが立ち上がり、次いでアンドレアが続く。
「え、あの」
「また会いましょうね、ノーラ」
上品に手を振るアンドレアとトールヴァルドの背中を見送ると、扉が閉じ、静寂が訪れる。
「とりあえず、ここにいても何だし。行こうか」
「……はい」
差し出された手を取ると、ノーラとエリアスも扉をくぐった。
王城の中庭を臨むその部屋は、ノーラの支度用にとアンドレアが用意してくれたものだ。
エリアスとアランへの花を持参するわけにもいかず困っていたところ、直接王城に届けさせればいいと提案されたのだ。
歌の下準備で双子と離れた際に、フローラはこの部屋から花束を持ち出したのである。
今は椅子の上にノーラが貰った青い薔薇の花束が運ばれて置いてあるので、部屋中がいい香りに包まれている。
「へえ。支度部屋を用意してくれていたんだね」
「はい。アンドレア様が、女性には必要だと仰って」
実際にはただの花束置き場だが、事実を伝えるわけにもいかない。
だがエリアスはそれで納得したらしく、ソファーに腰かけた。
「お茶を飲むなら、お湯を貰ってきますが」
「いいよ。今日は王城のメイドじゃなくて、『紺碧の歌姫』として招かれているんだよ?」
「じゃあ、お水ですね」
「……そういう意味じゃないけれど。まあ、いいや」
水差しから水を注いだグラスをテーブルに置くと、エリアスがそれに口をつけた。
ただ水を飲んだだけで色気が溢れるのだから、恐ろしい生き物である。
ノーラは棚の陰に置いておいたそれを手にすると、エリアスの横に座った。
「エリアス様、お誕生日おめでとうございます」
そう言って、一輪の青い薔薇を差し出す。
エリアスとの思い出の花と言えば、青い薔薇だ。
プレゼントしようと思ったまでは良かったのだが、何しろ青い薔薇は手に入らない。
希少な上に高価だったので、ノーラでは一本用意するのが限界だった。
ちらりと視線を移せば、部屋の入口付近にはエリアスから贈られた青い薔薇の花束がある。
高価だろうと漠然と思っていたが、今回自分で用意しようとして初めて、青い薔薇の希少性と価格を思い知らされた形だ。
ノーラの用意した薔薇と仮に同じようなものだとして、あの花束は……考えるのも恐ろしい。
「あの、一輪しか用意できなくて申し訳ありませんが……」
薔薇を差し出してから、ぴくりとも動かなくなったエリアスに声をかける。
すると、それまで呆然としていたエリアスが、花が綻ぶと形容してもあり余るほどの笑みを浮かべた。
「ありがとう、ノーラ」
そう言って薔薇を受け取ると、それはそれは大切そうに目を細めて見つめている。
絵面は美しいし、色気は迸るし、目に眩しい。
ノーラは自身の目を保護するべく、エリアスの顔の目の前に包みを差し出した。