カルム侯爵夫人の趣味
「……はい?」
どうも断罪という雰囲気ではないが……ならば、一体どういうことだろう。
「私は読書が好きで、今は男装の麗人が出てくる物語を読んでいるの。その中に、同じように池を飛び越えるシーンがあって。とても素敵なのよ? あなたも読んだことはない? 『男装の麗人ウルリーカ』」
「あ、いえ。残念ですが」
勢いに飲まれつつどうにか返事をすると、夫人は悩まし気なため息をついた。
「そうなのね、もったいないわ。……あなた、剣は使えるのかしら?」
侯爵夫人が、曲がりなりにも貴族の令嬢に聞くことではない。
嫌味なのだろうかと一瞬思ったが、瞳に輝く熱意からして、そうは思えなかった。
「いえ、剣は。……鍬なら、多少扱えますが」
口に出してから失言だと気付いたが、もう遅い。
どこの世界に鍬を使う貴族令嬢がいるのだ。
既に印象がマイナスのはずなのに、このままでは地面にトンネルでも掘れそうである。
だがノーラの言葉に、夫人の碧眼が更に輝きを増した。
「鍬! 本当に? 畑に追い詰められた主人公が鍬を振り回して悪漢を倒すシーンも、とても素敵なのよ! ――今度是非、鍬を振り回してもらえないかしら?」
「あの、鍬は振り回すものではありませんので」
言っていることはおかしいが、何せ名門侯爵家の夫人だ。
もともと、かなりの身分の家の出だろう。
となれば、鍬の何たるかを知らずに言っている可能性がある。
「あら、そうなの? 無理なのね……」
途端に寂し気に目を伏せる夫人が何だかかわいそうになり、ノーラは慌てて口を開く。
「すみません。私も猪を追い払うくらいしか、経験がありませんので……」
「猪」
エリアスが衝撃とばかりに眉を顰めているが、別に鍬と牙を交えて戦ったわけではないので、そんなにたいしたことではない。
ちょっと鍬を掲げて威嚇したくらいである。
大きなため息をついたエリアスは、ノーラと夫人を交互に見比べた。
「……つまり、会ったことはあるけれど、互いに名前も知らないんだね?」
「あら、そうね」
「そうですね」
カルム侯爵夫妻だということはわかったが、名前は知らない。
同じく夫妻も『紺碧の歌姫』であることはわかっただろうが、ノーラの名前までは知らないはずだ。
「私は、フェリシア・カルム。こっちは夫のイデオン・カルムよ」
上品な笑みに感銘を受けつつ、ノーラも礼をする。
「ご挨拶が遅れました。ノーラ・クランツと申します」
「息子達が色々迷惑をかけたね、ノーラ」
イデオンに労われるが、さすがに親子だけあって、こうして聞いてみるとエリアスの声にどことなく似ていた。
「いえ、そんなことは……」
ない、とは言えない。
どちらかと言えば、色々しかない。
何と返答したものか悩むノーラを見て、イデオンが苦笑する。
「色々あっただろうが、エリアスのそばにいることに感謝しているよ。おかげで我が家の長年の懸案が片付いたどころか、結構なおまけまでついて来たからね」
おまけというのは、ノーラのことだろうか。
いや、『結構な』と言うからには違う気がするが、何のことだろう。
「エリアスから、色々聞いているよ」
「色々、ですか」
何となくろくでもないことのような気がするのだが、一体何を言ったのだ、エリアスは。
「私達は馬鹿息子達の意思を尊重している。これからも、仲良くしてあげてくれ」
「は、はい」
イデオンとフェリシアに微笑みかけられ、ノーラはちょっとドキドキしてしまう。
美貌に年齢は関係ないという恐ろしい事実を体感させられるとは、何ということだろう。
「ただ……あの時は助かったけれど、見知らぬ人の前でスカートをつまみ上げるのは感心しないな」
「ごもっともです。大変見苦しいものをお見せして、申し訳ありませんでした」
イデオンは後ろを向いていたので直接見てはいないだろうが、そんなものは誤差の範囲なので、ほぼ見たと思っていいだろう。
正論に胸を突き刺されながら、ノーラは深々と頭を下げる。
「そういう意味だけじゃなくて。……うちの馬鹿息子は面倒臭い上に、嫉妬深いからね。気を付けて」
「は、はい?」
イデオンはちらりとエリアスを見ると、楽しそうに笑っている。
「歌もとても素晴らしかったよ。またの機会を楽しみにしている。それでは」
立去るカルム侯爵夫妻に礼をすると、後ろ姿だけでも十分に美しいなと感心しながら見送った。
「……びっくりしました」
「まさか、既に会っていたとはね。……それにしても、ノーラ」
「はい」
声に非難の響きを感じ取ったノーラは、姿勢を正して恐る恐るエリアスに向き直す。
「その時点で見ず知らずの人の前で、スカートをつまみ上げるって。ちょっと、どうかと思うよ」
その通りなので、肩身が狭い。
「カルム侯爵御夫妻に、見苦しいものをお見せしてしまいました」
場合によっては不敬であると罰されてもおかしくない気さえする。
「まあ、父はともかく、母は喜んでいるから気にしないでいいよ。それよりも、他人にそう簡単に脚を見せるのはどうかと思う」
「別に見せようとしたわけではありませんが……すみません」
確かに、とらえ方によっては、ただの痴女だ。
あの時はノーラなりに恥じらいを実行したと思ったが、まったく恥じらえていないということがよくわかった。
「そういう時には、俺を呼んでくれる?」
「え? でも、誰もいなくて。帽子が落ちそうで」
「そういうことじゃなくて。俺だけに見せてほしいってことね」
見せる、というと、まさか。
「エリアス様も『男装の麗人ウルリーカ』とやらを愛読しているのですか?」
エリアスも颯爽とジャンプするノーラを見てみたいのだろうか。
だが、エリアスは苦笑しながら首を振った。
「まさか。ただの嫉妬だよ。気にして」
「気にして、って」
「――してね」
圧倒的美貌の持ち主の惜しげもない笑みに、迸る色気が止まらない。
「……はい」
圧に耐えかねてノーラがうなずくと、空色の瞳が妖しく輝いた。