どうしてもと言うのなら
「ノーラ!」
聞き慣れた声と鈍い音。
男の手から急に解放されてよろめくノーラを、大きな腕が支える。
「ノーラ、大丈夫?」
見上げれば、エリアスが心配そうに覗きこんでくる。
まだ恐怖で上手くしゃべれないノーラがうなずくと、エリアスはほっと息をついた。
「おまえ……最近ノーラの周りをチョロチョロしている貴族か!」
エリアスに殴り飛ばされたらしい男は、座り込んだ地面からゆっくりと立ち上がった。
「それはこちらのセリフだな。バイト帰りのノーラのあとをつけていただろう。どこの誰なのか調べはついている。君の上司に伝えてもいいんだよ」
「な、何を」
「テモネン子爵は潔癖な方だからね。君が女性を尾行して、嫌がっているのに無理矢理迫っていると知ったら……どうするだろうね」
言葉こそ柔らかいが、優しさの欠片もない表情のエリアス。
どうやらテモネン子爵という名前に心当たりがあるらしく、男の顔色はみるみる青くなる。
男はゆっくり後ずさりすると踵を返して、そのまま脱兎のごとく走り去って行った。
「ノーラ、大丈夫だった? 怪我はない?」
ノーラはうなずくと、気になっていたことを尋ねてみる。
「あの、さっきの。子爵がどうとか……」
本当なのだろうか。
だからこそ男が逃げて行ったのだろうが、だったら、エリアスは何故そんなことを知っているのだろう。
「ああ。あいつはテモネン子爵の仕事を手伝っている商人だ。子爵に見限られれば、一気に事業が傾く」
それで、逃げて行ったのか。
「でも、なんで」
「ノーラを尾行していたからね。ただ見ていたいだけというなら目こぼししても良かったが、度が過ぎた」
鋭利な刃物のような目でそう言ったかと思うと、今度は急に不安げに目を伏せる。
「……ノーラ、さっきはごめん。君を否定するつもりはなかったんだ」
謝罪と共に、弱々しくうなだれるエリアス。
さっきの威圧的な物言いをした人とは、とても同じ人だと思えない。
ノーラは、エリアスのことを自信家なのだと思っていた。
侯爵家という身分に恵まれた容姿で、住む世界の違うお坊ちゃん。
その余裕と傲慢さで、ノーラを賭けの対象にして遊んでいるのだろうと。
だけど、実際は少し違っていたようだ。
エリアスは子供のように拗ねるし、弱気な事だって言う、普通の人間だ。
彼はただ、ノーラを失わないために必死だったのだ。
ノーラを見つけて、婚約しようとして、失敗しても手を尽くして、決して諦めなかった。
言いたいことは多々あるけれど、遊びではないということだけは何となくわかってきた。
「アラン様に、経緯を聞きました。……何で説明してくれなかったんですか?」
ノーラ自身、蒸し返すのも面倒だからと触れないようにしていたのもあるが。
エリアスは気まずそうに目を伏せる。
「……順番ってあると思うんです。私の意向も確認しないで婚約しようとするの、どうかと思います」
「ごめん」
父には話を通しているので、貴族社会的には問題ないのかもしれない。
だが、ノーラからすれば名前も知らない人と突然の婚約だ。
せめて、挨拶のひとつくらいあってもいいのではないかと思ってしまう。
「大体、公衆の面前で婚約破棄された人間に、すぐに婚約を申し込むなんて、正気の沙汰じゃありません。何かの賭けか、悪戯だと思っていました」
「ごめん」
「何であんなことをしたんですか」
婚約を申し込むというのなら、ほとぼりが冷めてからノーラに申し込めば良かったのではないか。
突然見知らぬ人に婚約破棄されて、同じ顔の人に婚約を申し込まれて、これを本気にする人間はいないだろう。
「アランが婚約破棄してしまえば、ノーラに来る縁談を止める力はもうない。……待っている間に、君を誰かにとられるのが怖かったんだ」
エリアスは小さく呟く。
「ノーラが歌っているのを見て、小さい頃に助けてくれた『ノーラ』だってわかった。最初は、お礼を言おうと思っただけなんだ。……でも、何度か歌を聴いているうちに、それだけで終わるのが寂しいと思い始めた」
エリアスの手は、少し震えている。
「そもそも、クランツ男爵に確認を取って、ノーラが婚約に前向きなら会いに行くつもりだったんだ。きっと俺の事を覚えていないだろうから、突然行っても警戒されるだろうと思って。でも、直前で書類の手違いを伝えられて……」
アランと婚約していることを知ったのか。
「でも、父は侯爵家から直々に望まれて婚約した、とアラン様の名前を出していましたよ?」
「最初に婚約を打診したのは、侯爵家の使用人だ。『カルム侯爵令息が婚約を望んでいる』と伝えたらしくて、どうやら俺個人の名前は出していなかったようなんだ。後に正式な書類としてアランの名前があったから、最初からアランが求婚したと思ったんだろう」
侯爵家からの突然の婚約打診に、父はさぞ驚き動揺しただろう。
『カルム侯爵令息』の名前を確認し忘れたとしても、無理はない。
「正式にアランと婚約した以上、ノーラはアランと結婚するか、婚約解消するしかない。だが、アランは婚約解消を拒否した。男爵はもともとアランが求婚したと思っているし、ノーラは求婚自体を知らなかった」
エリアスはただ求婚しようとしただけなのに、随分とこじれたものだ。
「俺がそこで名乗っても、混乱するだけだ。情けない話だが、男爵とノーラに嫌われるのも怖かった。だから、そのまま内密にするように男爵にお願いしたんだ。たとえノーラに何の落ち度もないと分かっていても、女性が婚約解消するというのは外聞が良くない。知られていない間に婚約解消をすれば、書類上はどうしようもないが、世間的にはノーラに傷はつかない。まずは婚約を解消して、その後に男爵に謝罪してノーラの所に申し込みに行くつもりだった。ところが、手続きの途中なのに、アランが夜会の真ん中で婚約破棄を告げてしまった。……焦ったんだ」
では、あれはエリアスにとっても寝耳に水の出来事だったのだ。
こうしてみると、エリアスは運が悪いというか、間が悪いというか。
「ノーラは知らないかもしれないけど、『紺碧の歌姫』は貴族の中でも結構知られている。歌う姿に興味を持っただけの連中に娘を預けられないと、男爵がノーラへの求婚を断り続けていることもね」
「そんな」
それは知らなかった。
適齢期なのに一切そういう話題がないので、ノーラに魅力がないのと、貧乏貴族は相手にされていないと思っていた。
「だから、婚約が解消されれば、すぐに男爵に声をかける奴がいる。それに、衆目の中で娘に恥をかかせた侯爵家を良くは思わないだろう。勿論、双子の俺のことも」
父は『こんなことになるなら、承諾しなければよかった』と言っていたから、あながち間違いではない。
「だから、慌てて君の所へ行った。でも、確かにあれじゃとても本気にしてはもらえないよね。……それでも、諦められなかったんだ」
エリアスの瞳がノーラを映す。
「俺は、ノーラが好きだから」
ノーラは少しの沈黙の後、エリアスの空色の瞳を見つめる。
こうしてじっくりと見たことはなかったけれど、澄んだ綺麗な色だ。
「……青い薔薇の花言葉を知っていますか?」
ぴくりとエリアスの肩が揺れる。
「ひとめぼれ、だそうです。私は、さっき知りました」
エリアスは何も言わず、ノーラの言葉を聞いている。
「お店にも、以前から来ていたんでしょう? ピアニストの友達が、気付いていたんです」
「あなたはずっと、最初から。本当に私のことを想っていたんですね」
「……ノーラ」
「全然、伝わりませんでしたけど」
「ごめん」
「だいぶ、嫌な思いもしましたけど」
「ごめん」
うなだれるエリアスが叱られた子犬のように見えてきた。
名門侯爵家の美青年が、形無しである。
「仕方ありませんね」
ノーラはため息をついた。
「私は歌を歌うし、社交は下手だし、美人じゃないし、実家は貧乏でお金もありませんよ」
「俺は、ノーラがいいんだ。俺を励ましてくれた子供の頃も、今も、それは変わらない」
ノーラはエリアスの手をそっと握る。
昔、こうして彼のそばで励ましたのを思い出した。
貴族のお坊ちゃんは大層泣き虫で、ノーラの手を離さなかった。
「――あなたのことを知らないので、婚約は無理です。どうしてもと言うのなら、お友達からということで」
以前にエリアスに言ったのと、同じ言葉。
だけど、少しだけ意味が変わっている。
にこりと微笑むノーラに、エリアスは苦笑した。
「なら、俺のことを知ってもらわないと。――会いに行くよ、ノーラ」