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冬の國で(仮)

作者: 露虚

 薄暗い納屋の中、大火傷を負った男は、ふらふらとした足取りで歩いていた。男は帝國の緑色の軍服を着ていた。上着は羽織っているだけで、その下のシャツは襤褸(ぼろ)切れ同然だった。

 農作業の道具やなけなしの食料が乱雑に置かれた中に、もたれかかれそうな壁を見つけると、どっかりと腰を落とす。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 誰の家かは知らないが、痛みと寒さに耐えかねて入って来てしまった。

 外は吹雪が吹きすさんでいて、しばらくは止みそうにない。

 体力は限界を迎えている上に、吹雪は火傷を負った皮膚を容赦なく刺してくる。そんな中、ぽつんと佇む一軒家を見つけたら、近づくなと言う方が無理だろう。さすがに家に入るのは不味いと思ったので、すぐ横の納屋を選んだ訳だが。

 納屋の中も十分に寒いが、壁があるだけ極楽に思える。

 だが、あまりここに長居する訳にはいかない。一時の誘惑に負けてこんなところに入り込んだものの、彼は本来ならこの場に居て良い人間ではない。

 強者が弱者を搾取するだけのこの世界。目の前に、かつて強者だった者――兵士の格好をした相手が満身創痍で現れれば、どんな目に遭うかは大体想像が付く。見つからないうちに、早くここから立ち去らなくては。

 だが、身体が動かない。あのまま歩き続けていたならば、まだ少しだけ動けたかもしれないが、一度座り込んでしまえば気が緩んで、痛みや疲労が一気に押し寄せてくる。

「ぐ……うぅ……糞ッ! 畜生……何で俺がこんな目に……」

 瀕死の男は苦し紛れに悪態を吐く。

 身を捩って、どうにか少しでも楽な体勢を探そうとする。しかし、どう足掻いても火傷を負った皮膚が壁か床に接触し、その度に激痛が奔る。

 男の上半身の殆どは火傷で爛れていた。ぼろぼろのシャツの破れた隙間から、痛々しく変色した皮膚が覗いている。顔の右半分は最早原型を留めないほどに焼け爛れ、右目はとうに失明していた。

「おいおい、巫山戯んなよ……本当にここで死んじまうのか? けどまあ、焼き殺されることに比べたら、自分の見方に嬲り殺されることに比べたら……ちったあましかもしれねえけどな……。ああ、だけど……痛ぇなあ……寒い……。そういやあここ最近何も食ってないような……」

 その声は、飛びそうになる意識を何とか繋ぎ止めようとする行為に過ぎない。死にかけの男の独白。

 何処にも、誰にも届くことなどなく、虚しく宙にかき消えるだけの筈だった。


 がたり――。


 音がして、細長い光と冷気が室内に差し込む。誰かが戸を開けているのだろう。

 ああ、もうここでお仕舞いか。最後まで付いてない人生だったな。そんなことを考えながら、どこか他人事のように、男はゆっくりと開かれていく戸を見守っていた。

 やがて、開いた戸の先に現れたのは一人の少女だった。

「ひっ……!」

 少女は男を見て、小さく悲鳴を上げた。

 まだ初潮も迎えていない様な、年端もいかぬ少女。こんな状況でも、そんな下品な感想を抱いてしまう自分に一抹の自己嫌悪を覚える。がさつで粗暴な軍隊では、常に紳士で居続ける方法など教えてくれなかった。

 だからと言う訳ではないが、この少女に謝らなければならないと思った。ほんの一瞬とはいえ、無断で納屋に入ってしまったのだし、これから死ぬとしても、せめて最期くらいは自分を善人だと思い込んで死にたい。

「悪ぃな……勝手に入っちまって。すぐに出て……」

「怪我してるの?」

 悲鳴を上げるか、その場から逃げて誰か大人を呼びに行くとばかり思っていたが、男の予想に反して少女は近づいてきた。そして、男の目の前まで来ると、彼の前髪をかき分け、顔の右半分を露出させる。

 赤黒く焼け爛れた皮膚、瞼ごと焼き潰され、黒い眼窩だけになった右目が露わになる。

「酷い火傷……待ってて」

 そう言って少女は、納屋の外に駆けていった。

 状況が飲み込めず唖然としていると、数分ほどして少女は戻ってきた。その手には竹で編まれた籠が握られていた。

 少女は男の前にしゃがみ込むと、籠の中から小ぶりな壺を取り出し、中のものをすくい取って、男の顔の傷に塗り始める。

「っ! 何を……」

「火傷の薬。染みるけど、大丈夫だからね」

「いや、そうじゃなくて、何でお前が傷の手当てなんかするんだ」

「怪我してるからだよ」

「答えになってない……」

「身体の方の傷も見せて。無理に脱がすと悪化するから、破くね」

 少女は籠の中から鋏を取りだし、男のシャツを手際よく切り始めた。どうやらその籠の中には、治療に必要な道具類が入っているらしい。

 何日も、何の処置も成されずに放置された傷は化膿していた。じくじくに膿んだ皮膚に張り付いた服の切れ端を引き剥がすのも、相当な痛みだった。

「ッ……!」

「ごめんね。だけど、我慢して」

「お前……怖くないのか?」

「平気だよ。傷は見慣れてるもん」

「そうじゃなくて、勝手に人んちの納屋の中に入ってる、こんな得体の知れない奴が、怖くないのかって聞いてんだよ」

「うん。怖くないよ」

 少女はあっけらかんと答える。

「だから、大丈夫だからね。何も酷いことはしないから、安心して」

 大丈夫、大丈夫と少女は何度も繰り返す。まるで少女の方が、男を怯えさせまいとしているかの様に。

 少女は驚くほどの手際の良さで傷を一つ一つ、的確に処置していく。応急処置の技術は軍隊で少し習ったきりだが、本職の医師と比べても、腕前には遜色がないように思える。

 少女は籠の中から包帯を取りだし、男の身体に巻き始める。やがて、顔の右半分を含め、上半身の殆どは包帯でぐるぐる巻きになった。

「えっと、後は身体を休めないと」

 再び少女は外に出て行き、布団一式を持って帰ってきた。

 茣蓙を敷き、その上に布団を敷いて、即席の寝床をこしらえる。

「ほら、横になって休んで」

「何の……つもりだ……」

 男は少女を睨み付ける。

 訳が分からない。こんなご時世に、こんな状況で他人を助けるような行為をするなど。それとも何か、裏があるのか。困惑を通り越して、気味の悪さすら覚えた。

 けれど少女は怯まなかった。顔には微かな笑みすら浮かべて。

「いいから、言うことを聞いて? お願い」

「お前……頭おかしいんじゃねえのか」

「かもね。だけどそれは、貴方にとって不都合なこと?」

 しばらく、互いの顔を見つめ合っていた。少女は笑みを崩さずに、ただじっと彼の顔を見つめている。

 やがて男は根負けして、言われるがままにした。これが罠だろうが何だろうが、目の前にある寝床に入って休みたいという衝動には逆らえなかった。

「ごめんね。本当は家の中で休ませてあげたいんだけど、知らない男の人を家に上げるのは、やっぱりちょっと怖い。ごめん。さっき怖くないって言ったけど、やっぱりあれ、嘘だったんだ」

 その言葉を聞いて、男はむしろ少し安堵した。見ず知らずの他人を何の警戒心も抱かずに助けるなど、最早狂気でしかないから。また、少女の行動に何か裏があるとしても、正直な気持ちを話してくれたことで、その疑いが少し薄らいだ。

「気にするな。それが正常だ。けど何で、怖くないなんて嘘を言ったんだ?」

「貴方がとても、苦しそうだったから。ただでさえ傷付いているのに、怖がったりしたら可哀想だから」

「……参ったね。こんな餓鬼にそんなことで気を遣われるとは。いや、助けて貰っておいて餓鬼扱いはなかったな。すまない、忘れてくれ」

「ううん。本当のことだもん。だけど、私の名前は佐恵(さえ)だよ。出来れば餓鬼じゃなくて、そっちの名前で呼んで欲しいな。そうだ、兵隊さんの名前、まだ聞いてなかった」

春彦(はるひこ)……」

「春彦……いい名前だね」

「そうか? ここじゃあ皮肉なだけだと思うが」

「そんなことない。いい名前だよ」

「それも、俺が可哀想だから言ってくれてるのか?」

「違うよ。本当にそう思ったからだよ。なんでそう、意地悪なこと言うかな」

 急に、意識が遠のいてきた。横になったことで、今まで押さえ込んでいた疲れがどっと沸いてきたのだろう。

「眠い……」

「いいよ、眠っても。私はもうしばらくここにいるから。お休みなさい」

 その言葉を聞き終えるよりも先に、春彦の意識は深い闇へと落ちた。



 どうしてこんな事になってしまったのだろう。

 自分が一体、何をしたというのだろう。


 野太い怒号。叱責と糾弾の声。嘲笑、侮蔑。


 寄ってたかって殴られて、倒れたところを靴底で踏まれ、蹴られた。つま先が腹を抉り、堪らず嘔吐する。

 ゲラゲラと下卑た笑い声が聞こえる。

 自分が声を上げたり、動いたりする度に、笑い声は一層大きくなる。


 誰かが焼けた油をかけてみようと言いだした。

 それだけはやめてくれと、必死の懇願も虚しく、許しを請う声はやがて悲鳴に変わる。

 己の顔を押さえ、絶叫しながらのたうち回る自分を、幾つもの目玉が見ている。幾つもの声が嗤っている。


 見るな、見るな、見るな――。


 嗤うな、嗤うな、嗤うな――。


 地獄の責め苦はなおも続く。

 真っ赤に熱せられた鉄で肌を焼かれた。

 傷口に火薬を練り込まれ、火をつけられた。

 火傷をした皮膚に熱湯をかけられた。


 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も――。


 痛い、熱い、苦しい――。


 いっそのこと殺してくれと絞り出した声すらも、激痛と悲鳴に塗り潰される。


 頼む、誰か、助けてくれ――。


 早くこの地獄を、終わらせてくれ――。



 誰かの悲鳴で飛び起きた。

 それが自分の悲鳴だったのだと気付くのに、しばらく時間を費やした。

「大丈夫?」

 すぐ横で声がした。彼を助けた少女――佐恵だった。

「大分魘されてたけど」

 佐恵の横には水の入った桶が置いてある。彼女の手には手ぬぐいが握られている。

 春彦が寝ている間、ずっと看病をしていてくれたのだろう。

「ああ……ただちぃっとばかし、胸糞の悪い夢を……うっ!」

 少し頭が落ち着いてきたら、思い出したように身体に痛みが奔る。

「まだ動かない方がいいよ」

 佐恵の腕に支えられながら、ゆっくりと布団に横たわる。

 心臓はまだ激しく脈打っている。さっきまで見ていた悪夢の残滓はまだ残っているし、その悪夢も、痛みも、現実だ。

「はい、お水。沢山汗をかいてたから、水分取らないと」

 硝子製の吸い飲みに入った水を差し出される。

 吸い口に口を付け、ゆっくりと飲み込む。冷たい液体が喉を伝って流れ落ちて、心臓の鼓動が少し和らぐ。

「俺は、どれくらい寝てた?」

「まだそんなに経ってないよ? 三時間くらいかな」

 思ったよりも短かった。道理でまだ痛みが生々しいままの筈だ。

 と言うか、こいつは三時間もずっと側に付いて居たのか?

「ねえ、聞いてもいい? 嫌なら答えなくてもいいけど」

「何だ」

「この怪我、敵にやられたの?」

「いや、この傷をつけたのは俺の仲間だよ。俺が食料を盗ったんじゃないかって、奴等は俺を縛り上げて尋問……拷問した。彼奴ら、途中から俺が食料を盗ったかどうかなんてどうでもよくなって、ただ俺をリンチすることを楽しんでいやがった。俺は隙を突いて逃げてきたが、死ぬかと思ったよ、本当に」

 思い出したらまた傷が疼いてきた。耐えたつもりだったが顔に出ていたらしく、佐恵は心配そうな顔をする。

「痛い?」

「ああ……」

 嘘を吐いてもしょうがないので、正直に答える。

「どうして、こんな酷いことができるんだろう。こんなになるまで……」

「あの中で、俺が一番年下だった。それに、仲間ともうまく馴染めていなかった。それだけのことだ。捌け口の対象にするには都合が良かったんだろうよ」

「辛かったね」

「……」

 ああ、全く何をやっているんだ俺は。そんな子供をあやすような言葉で、大の男が、こんな子供に慰められてどうする。

 けれど、身体の震えが止まらない。寒さのせいだ、そうに違いないと必死に自分に言い聞かせる。

「怖いの?」

 すぐ横にいる少女は、目ざとく彼の心の変化を読み解く。

「莫迦、怖くなんか――」

「じゃあ、手を握っていてあげるね」

 佐恵は春彦の包帯だらけの右手を握った。傷に触れることを恐れてか、握るというより包むといった方が良い形だったが。

「これで少しは怖くなくなるでしょ」

「だから、怖くねえって言ってんだろーが……」

 それでも、その手を振りほどくことはしなかった。

「ったく……それより、お前は休まなくていいのかよ。まさかずっと俺に付いてる訳じゃないよな」

「春彦が寝たら、私も寝るから」

「そうかい。勝手にしろ」

 これで意地でも休まなければならなくなった。今までの強情さからして、佐恵は本当に春彦が寝ない限り自分が休むことはないだろう。

 春彦は、再び眠るために目を瞑る。握られた右手には、包帯越しからでも確かに温もりを感じていた。

 今度は、悪夢に魘されることはなかった。


 翌日、春彦は昨日と同じ納屋の中で目を醒ました。

 明かり取りの小窓から日の光が差し込んで来る。明るい日差しではなく、ぼんやりとした微かな光なのは、今日も恐らく曇り空だからだろう。

 右手に伝わっていた温もりはもう無い。横になったまま室内を見回して佐恵の姿を探すが、流石にもう居なかった。

 自分は一体、何を期待しているのだろう。佐恵の姿が見えないと言うことは、彼女はちゃんと宣言通り休みを取ったということであり、それならばむしろ良かったではないか。もしかして、一晩中眠らずに看病していたらどうしようかと思った。

 それなのに、どうして自分は彼女の姿を探しているのだろう。つい昨日会ったばかりの、あんな小さな子供なんかを。

 まさか、自分は一人では心細いなどと思っているのか? 傷付いた身で、誰かが側に居てくれないと不安だと思っているとでも言うのか? あんな子供に救いを求めなければならない程に?

 莫迦莫迦しくなって、考えるのを止める。

「ッ……! それにしても……」

 痛い――。身体が焼ける様に痛い。包帯の下で、焼け爛れた皮膚がズキズキと脈打っている。顔からは脂汗が噴き出し、呼吸が乱れる。熱も出ているのだろう。そのくせ背筋は妙にぞくぞくしていて、寒気の様な感覚を覚える。熱いのだか寒いのだかよく分からない。

「うぅ……はぁ……はぁ……」

 布団の中で寝返りを打ったり、身を捩ったりして、痛みを紛らわそうとする。痛む箇所を手で押さえようにも、痛みを放つ範囲が広すぎる。それを押さえる手だって、腕だって、傷だらけで痛い。

「……」

 このまま、ただ黙って、時が過ぎるのを待つ。そうやってやり過ごして、いつか自然に終わってくれるのを、ただじっと耐える。

 そうやって耐え抜いた先に、何かを得られるのかと言えば、特に得られるものなど無い。強いて言えば、辛い時間が終わると言う、報酬と呼ぶには余りにもお粗末な必然的な結果だけ。

 他のやり方など知らなかった。抵抗すれば余計に辛い時間が長引くだけだし、諦観の態度をとれば生意気だと怒鳴られる。だから耐えるしかない。今までそうしてきたように。

 そう、ずっとそうやって生きてきた。何の楽しみも喜びも見いだせず、求める事すら許されず、消費と摩耗していくだけの命。

 軍に入ってからは、益々それが顕著になった。彼等の様な下っ端の兵士は、文字通り単なる消耗品なのだから。

 たったそれだけの人生に、一体何の価値があるというのだろう。それじゃあまるで、死ぬのを待っているのと同じじゃないか。生という苦痛を耐え抜き、その先にある死という結末を待っている。まるでそれだけが唯一の希望であるかのように。

 それじゃあ一体、何のために生きているのだろう。それじゃあ生きていても無意味じゃないか。そんなもの、始めから死んでいるのと同じじゃないか。


 けれど――死にたくは、無かった。


 だからこそ身体がこんなになるまで耐えたし、ぼろぼろになりながらもここまでたどり着いた。

 ああ、そうだった。例外が一つだけあった。思い出すのもおぞましい責め苦に苛まれ続けた日々、幾ら耐え抜いても終わりが見えないと悟ったとき、春彦は他の選択肢を選んだのだった。

 全てを放り捨てて、逃げると言う選択を。

 それもこれも、こんな所でくたばって堪るかという強固な意志が成せた事だった。

 そうだ、死ねないのだ。だって、自分は、まだ何も――。

「苦しい?」

 頭上から声がした。全てを包み込むような、柔らかくて優しい声。佐恵の声だ。

 いつからそこに居たのだろう。入ってきた事に全然気付かなかった。

「お前……いつから……」

「戸を開ける前に、ちゃんと声をかけたんだけどね。返事が無いからまだ寝てるのかと思ってたけど、大変だったみたいだね。ごめんね、もっと早くに来てあげられなくて」

「いや、俺も……今、起きた所だ……痛てて……」

「今、痛み止めをあげるから、口を開けて?」

 佐恵は春彦の頭を軽く持ち上げ、小さな包み紙に入った粉薬を彼の口の中に注ぎ込むと、すぐに吸い飲みで水を流し込む。

 まだ舌が味を正確に認識しないで居るうちに、一気に飲み下す。

 直後、案の定口の中に厭な味が広がる。薬はとっくに喉を流れてしまったのに、残滓であるその味はしつこく口の中にへばりついている。

「苦い……」

 春彦は苦痛に歪んだ顔を更にしかめる。確かに痛みは一瞬吹き飛んだが、多分そういうことではない。

「薬なんだから当たり前でしょ。これで少しは楽になると良いんだけど」

「昨日よりも痛みが強くなってる気がする……」

「それは、生きてる証拠だよ。身体が治ろうとして戦っているから、だから痛いんだよ」

「戦い、ねえ……。もっと楽なやりようは無いもんかねえ……」

「しばらくすればきっと良くなるから、それまでの辛抱だよ。そのためにはきちんと栄養を取らないとね」

 佐恵は脇に置いてあったものを手に取る。

 置いてあるのは、昨日も見た治療道具の入った籠と、それから食事の膳だった。

 佐恵が今手に取ったのは、その膳に乗っていた粥の入った椀だった。

「はい、ご飯持ってきたよ」

 そう言って、椀に入った粥を一口分木の匙ですくい、フーフーと息を吹きかけてよく冷ました後、春彦の口元に近づけてくる。

 こいつ、本気か?

「……食欲無いのは分かるけど、ちゃんと食べないといつまで経っても治らないよ?」

 口を開けずに、差し出された匙をじっと見つめている春彦を見て、佐恵は何やら勘違いをしているらしい。

「いや、そういうことじゃなくてな。……良いよ……それくらい、自分で出来る」

 春彦は重たい身体に力を込めて、無理矢理に起き上がろうとする。

「無理しないで。私が食べさせてあげるから」

 けれどすぐに、佐恵の手によって阻まれる。肩口に添えられた手は、決して強く押さえつけているわけではなく、むしろ傷付いた身体を労るかの様に優しかった。

 その気になれば、無理矢理その手を払いのけてでも起き上がることは簡単だろうが、何故かそうする気にはなれなかった。

「そこへ置いといてくれたら、自分で食うから……」

「駄目だよ、まだ横になってないと。傷、痛むんでしょう?」

「いや、でも……流石にそこまでして貰うのは悪い……」

 そうは言ったものの、正直なところ、横になったまま赤子のように食事を食べさせて貰うことへの恥じらいの方が大きかった。しかもこんな、歳が倍程も離れたような子供に。

「そんなの気にしなくていいよ。いいから食べて。ね?」

 そんな春彦の心情を知ってか知らずか、佐恵はどこまでも食い下がる。

 食欲が無い訳ではない。むしろ腹は空いている。もう何日も碌に食べ物を口にしていない。本音を言うと、兎に角何でも良いから腹に入れたかった。

「お前……本当に何なんだよ……」

 昨日、佐恵に問うたのと同じ類いの問いを繰り返す。

 どうやらこの少女に悪意や企みが無いらしいと言うことは分かったが、見ず知らずの相手にここまでする理由は、まだ分からなかった。

「さあ、何なんだろうね。私もよく分かんないや」

 佐恵は微笑みながら答える。はぐらかしている風でも無く、弄んでいる風でも無く、ただ純粋で、無邪気とさえ思えるその言動に、調子を崩されてしまう。

「ッ……糞ッ……!」

 悪態を吐きながら、目の前の匙にかぶりつくようにして、粥を口に含む。既に息を吹きかけて冷ましてあった上に、余計な問答をしていたためにすっかり冷たくなってしまっていた。

 数日ぶりにありついた食事を味わうように、咀嚼して飲み込む。ちらりと佐恵の方に目を向けると、彼女と目が合った。

 佐恵はにっこりと微笑んだ顔を春彦に向ける。春彦はふて腐れた様にそっぽを向いた。

 その時、空っぽの腹が音を立てて鳴いた。実は空腹であるということがばれてしまった。

「……チッ」

 空腹と気まずさを紛らわす為に舌打ちをする。

「もう一口、どう?」

 佐恵は笑顔のままで尋ねてくる。

「……くれ」

「え、何? 聞こえない」

 佐恵は意地悪く答える。

「……ああもうっ! 食うよ、お前に食わせて貰えば良いんだろう! そうだよ、本当は腹がぺこぺこなんだ。頼むから食わせてくれ……」

 僅かに残った自尊心も投げ出して、春彦は佐恵に頼む。

「ええ、了解しました」

 佐恵は勝ち誇った様に、粥の二口目を春彦に差し出した。


 それからも佐恵は、包帯を取り替えたり食事を持って来たりと、春彦を看病し続けた。その甲斐あって、自力で身体を起こせる程度には回復したし、痛みも大分引いてきた。

 最初の頃こそ佐恵のことを訝しみ、疑いの目を向けていた春彦だったが、彼女の献身的な態度に、いつしか猜疑心は消え失せていた。今ではすっかり当たり前の様に、彼女の看護を受け入れるまでになっていた。

 どうやらこの家には佐恵以外の住人は居ないらしい。

 親はどうしたのかと尋ねることはしなかった。親がいない理由について、思いつく限りではいくつかの可能性があるが、大体察しが付くからだ。春彦にも、他人の込み入った事情に立ち入らないだけの分別はある。

 壊れかけのこの世界で、子供が一人で生きていることなどありふれたことだった。むしろ彼女には立派な家があるだけ恵まれている方だろう。

 だが、それなら尚更に、瀕死とはいえ見知らぬ男をすぐ近くに置くことを危険だとは思わなかったのだろうか。

「お前なあ、少しは危機感ってもんを持った方がいいと思うぞ」

 佐恵に包帯を巻いて貰いながら、春彦は言った。

 脇には食事を持ってきた膳が置かれている。さっきまで粥が入っていた空の椀は二つ。一緒に食べようとか言い出して、本当に二人揃って食事をした。こんな埃っぽい納屋の中で仲良く食事をしようだなんて、滑稽にも程がある。

「何が?」

 佐恵は包帯を巻く手を止めずに返事をする。

「こんな見知らぬ男に、気安く馴れ馴れしくしちまって良いのかってことだよ。女子供の一人暮らしで、もしそいつに悪意があったりしたら、その……」

 それ以上の言葉を繋ぐことははばかられた。少女に向かって問うには、余りにも下品な想像だったから。

「春彦が何を言おうとしているのか、何となく分かるよ。医者の子供だもん」

「医者の子供であることと、関係あるのか……」

 いや、それよりも、この子の親は医者だったのか。道理で治療の手際が良すぎると思った。傷は見慣れていると言っていたし、それも医者の子供だからと言うなら納得――して良いのか?

「春彦は私に、そういうことしたいの?」

「莫迦ッ! 誰がお前みたいな餓鬼に!」

 また餓鬼と言ってしまった。だが紛れも無い本心だった。

 春彦には子供に欲情するような趣味はない。例え今目の前で佐恵が素っ裸になったところで、寒そうだなくらいにしか思わないだろう。

 尤も、軍にいた頃はそういった輩にも出会ったことがある。

 戦場で幼い少女を犯したという話を嬉々として、まるで武勇伝が如く語るそいつらに嫌悪感を抱いたものだ。

 そんな現実を知っているからこそ、啓発の意味も込めて彼女に尋ねてみたのだったが。

「なら、良いじゃない」

 彼女はいともあっさりと答えるのだった。

 その人を疑うことを知らなそうな顔に、少し苛立ちを覚えた。

「良くない。もしも俺がそういう奴だったら、今頃お前は恩を仇で返されているんだぞ。そういう連中は、助けられたからって感謝なんかしない。改心しようなんて思うわけがない。散々世話になっておいて、全てを奪って、塵同然に捨てられるんだ」

 この世界では、善意なんて毛ほどの価値もない。

 人の好意は容易く踏みにじられ、利用され、役に立たなくなれば切り捨てられる。

 こんなところで一人で生きているような少女が、それを知らない筈がない。人の悪意に触れてこなかった筈がない。

 それでも、知っていてなお、彼女は春彦に手を差し伸べた。

 初めて会った日、本当は彼のことが怖いのだと言った。警戒心が無い訳ではなかった。

 恐れながらも、救いの手を差し伸べる。我が身を可愛く思いながらも、他者の安全を優先させる。

 それは、無知故の善意などよりもよほど尊く、なんて狂っているのだろう。

 それとも、狂ってしまっているのは、春彦の方なのだろうか。

「だけど、あなたは違うんでしょう?」

「たまたま運が良かっただけだ。こんなことを続けていたら、いつか食い殺されるぞ。」

「私だって、あんな時でなかったら人を助けたりなんかしなかったよ」

 初めて、佐恵の顔に陰りが生まれた。

 けれどそれは一瞬のことで、次の瞬間にはもう、いつもの朗らかそうな顔に戻っていた。

 話をしている間に、包帯はもう巻き終わっていたようだ。

「さてと、私はもう行くね。まだ熱があるんだから、寝てないとだめだよ? 水差しと湯飲みを置いておくから、喉が渇いたら飲んでね。痛み止めの薬も一緒に置いとくから、良かったら飲んで」

 食事の膳と治療道具をてきぱきと片付け、ひとまとめにして持ち上げると、佐恵は納屋から出て行った。


 そんな生活はしばらく続いて、自分の家と納屋とを往き来する暮らしは佐恵にとって習慣となった。

 今日は久しぶりによく晴れた日だった。それでも気温は零下二十度を下回り、刺すような寒さは佐恵の鼻先や頬を赤く染める。

 長らく続いた戦争の果てに、地脈が反転して寒冷地帯となった大地。着物を何重にも着込んで、防寒着を着用しなければ、とてもではないが外を出歩けない。

 そのせいか、人々の心も徐々にささくれ立ってきて、他人のことにまで手を回す余裕も失われた。

 今ではもう、いかにして相手よりも多くの物資を得るか、自分の食い扶持を確保するためにいかにして相手を蹴落とすかの算段以外の感情は価値を失った。

 佐恵の両親はその犠牲者となった。そのために彼女は元いた村に住めなくなった。村の人々には受け入れてもらえず、かといって里に下りて街で生きるには余りにも過酷過ぎる。

 だから、ここに留まるしかない。決して良いとは言えないとしても、ここが一番ましであることを知っているから。それ以外に選択肢など無いことを知っているから。

 今日、佐恵が外まで出向いたのは、近場の林の中に仕掛けた罠を見に行くためだった。

 罠は幾つか仕掛けてあるが、その中の一つに、白い兎が一匹かかっていた。実に一月ぶりの収穫だ。

「やった!」

 これで、春彦に精の付く物を食べさせてあげられる。

「ありがとう。あなたの命を頂きます」

 兎の喉笛をナイフで掻き切るとき、獲物に向かって感謝の言葉を述べた。慣れた手つきで、手早く血抜きを済ませる。

 これも父から学んだ技術だ。彼女の両親は、いつ自分たちが死んでも良いように、出来うる限り、あらゆる知識を娘に教えこんだ。

 医学、薬学、魔学、魚や獣を捕って生き延びる術を。食べられる草と毒草を見分ける術を。生きるということの意味そのものを。

 佐恵は、それら全てを貪欲に吸収した。新しいことを覚えるのが好きな佐恵にとってそれらは苦ではなかった。

 彼女が今住んでいる家は、元々彼女の両親が所有していた離れだ。自分たちに万が一の事があったら、そこを使うように言われていたのだ。尤も、その万が一が本当に、こんなに早く訪れるなんて、佐恵も両親も思っていなかったけれど。

 一人になっても、何とか生きていくことは出来た。決して楽ではなかったけれど、どうにか死なない程度に自分を生かして行くことは出来た。

 けれどそれだけだった。一人で生きていたって意味がないのだ。そこに自分だけがぽつんといたって、自分の思いを伝えられる相手がいなければ、誰もいないのと同じ事だ。

 そんな時、春彦と出会った。

 顔と身体に大火傷を負い、兵士の格好をした青年を見て、驚きや恐怖がなかったと言えば嘘になる。けれどそれ以上に彼女の心を支配していたのは、やっと役に立てるという感情だった。

 私なら彼の傷を癒やしてあげられる。やっと、自分の技術を人の役に立てる。人の為に何かをしてあげられる。これでもう、一人ではないのだと。

 彼を介抱したのも、優しい言葉で慰めるのも、至れり尽くせりで世話を焼くのも、自分の中の矮小な自尊心を肯定するため。自分の価値を確かめるための行為に過ぎなかった。

 欲しかったのは、自己の肯定。誰かに認めてもらいたかった。誰かに感謝されたかった。

 目の前に酷く傷付いた人がいるというのに、心配する素振りを見せる裏で、彼が苦しめば苦しむほど喜んでいる自分がいるのだ。

 そのことに気付いた時、佐恵は少し、自分のことが嫌いになった。

 けれど、彼のことを心配して、元気になって欲しいと思ったのも本当だ。どちらも嘘ではないし、どちらも佐恵の心の一部だ。切り離せるものではない。

 彼の傷は日に日に良くなって来ている。少しくらいなら、出歩ける程度には回復しているだろう。それでも佐恵は、まだ安静にしていた方が良いと言い続けた。

 お節介を焼くふりをして、心配するふりをして、出来れば彼にはまだ、床に伏せっていて欲しかった。

 だって、傷が治ったら彼はまた何処かへ行ってしまうだろうから。そうしたらまた、一人ぼっちになってしまうから。

「私、厭なこと考えてる。春彦が治らなければ良いなんて、酷いこと考えてる」

 彼はあんなに、魘されていたというのに。

 一度だけ、佐恵は納屋の中に火を持ち込んでしまったことがあった。

 その時の春彦といったら、それはもう散々な有様だった。

 慌てて火を消して、必死になだめすかすことでようやく落ち着きを取り戻した。

 それでも、身体は震えていた。大人なのに、子供の様に泣きじゃくる春彦に、佐恵は一晩中付いていた。

 納屋の中は寒いからと、火鉢でも持って行こうかと考えたこともあったが、そんなことがあってからやめた。

 あれだけ肉体に多大な損傷を受ければ、心にも同様に、いやそれ以上に大きな傷を負っているであろうことは、考えて見れば当然のことだった。そんな事も考えず、不用意で配慮に欠けた行動を取ってしまったことを、佐恵は悔やんだ。

 本人は気付いていないようだが、佐恵ははっきりと聞いていた。悪夢に魘されながら、助けてくれと、何度もうわごとを繰り返していたことを。額に脂汗を浮かべて、苦悶の表情を浮かべて、何度も、何度も。

 早く、彼の元へ帰らなければ。

 また魘されてはいないだろうか。不安で、怯えてはいないだろうか。

 私が側に居てあげないといけない。何の根拠もないのに、そう思ってしまう。例えそれが傲慢だと知っていたとしても。

 佐恵は血抜きを済ませた獲物を縄で縛り上げ、誇らしげに肩にかけた。

「春彦、喜んでくれるかな」

 あの仏頂面の男が喜んでいる顔など、どう頑張っても想像できなかったけれど。きっと今は身体が弱っているから、心も落ち込んでいるだけだ。

 元気になれば、彼だって笑ってくれるだろう。きっとそうだ。


「春彦、起きてる?」

 いつものように戸が開いて、佐恵がひょっこりと顔を出した。

 春彦は寝床から身を起こして、本を読んでいるところだった。

 寝ているだけでは退屈だろうからと、佐恵が家の中から持ってきたものだ。本と言っても、医学書や図鑑類ばかりで、小説や雑誌などはない。ほかにすることもないので、そんな物でも頁をめくっていれば暇つぶし程度にはなる。

「見て見て! 今日は大物が捕れたんだ。兎だよ。今、料理するから、楽しみにしてて」

 佐恵は得意げに手に持っていたそれを春彦に見せびらかす。

 事切れて、血も抜けきった白兎が彼女の手からだらんとぶら下がっていた。

「おー、凄いな。全部自分で処理したのか?」

「ほかに誰が居るのよ」

 佐恵は当たり前のことのように答える。

「本当に、お前は何でも出来るんだな」

「そうだよ。凄いでしょ」

 佐恵は謙遜することなく胸を張った。

 その夜は、二人一緒に納屋の中で兎鍋を食べた。納屋の中で食事を囲む光景も、今や当然のこととなった。

 春彦は火を怖がるので、明かりとして蝋燭や油は持ち込めない。だから代わりに、トモシビを使ったランプを用いた。

 朽ちた生物の生命力が地中で結晶化した鉱石であるトモシビ――それはこの國独特の地脈特性による魔素の性質変化の産物であり、外国ではこのような現象は報告されていない。トモシビは、資源に乏しいこの國では貴重な生活の糧だった。

 それらは、生物の姿を模した物体を動かすことが出来る。一見何の役にも立たないような特性だが、元々手先が器用だったこの國の人々は、様々な工夫を凝らして、トモシビを燃料として生活に役立てる道具を発明してきた。

 蛍の姿を模したランプは、本物の火よりも弱々しい光だったが、無いよりはましだった。

「美味い」

 椀に注がれた汁を口にした時、半分包帯で覆われた顔が、ほんの少しだけ綻んだような気がした。

 味付けは薄かったが、何日も水っぽい粥と僅かな野菜しか口にしていない身体には染み渡る。それは当然、佐恵にとっても同じ事だった。

「本当! 美味しい! さすが私!」

 佐恵は久々にありついた蛋白源に、味わう手間も惜しむように貪り付く。

 育ち盛りの子供が、あんな粗末な食事だけで足りる筈がない。しかも、ただでさえ貴重な食料を春彦に分け与えていたのだ。そんなことを、春彦は今になってようやく思い至った。今まで自分の事だけで精一杯で、佐恵の実情を本当に推し量ることは出来ていなかったのだ。

 やがて、鍋の中の肉は最後の一切れとなった。

 痩せ気味な少女は、鍋の中と春彦の顔を物欲しそうに見比べる。

「何だよ。欲しいなら食えばいいだろ」

「でもでも、私はもうたくさん食べちゃったし、春彦は病み上がりで、栄養つけなきゃだし……」

「俺はもう十分に食わせて貰ったよ。これはお前が捕ってきた獲物だろう。それを分けて貰えただけでも、居候の身にしては破格過ぎるぐらいの待遇だ。いいから食えよ。腹減ってんだろ」

 それでももうしばらくは逡巡していた佐恵だったが、最終的には欲望に負けたらしく、最後の肉は彼女の胃の中に収まった。


 次の日、いつものように納屋を訪れると、春彦は居なかった。

 納屋の中には、今や布団のほかにも、佐恵が春彦の為に持ち込んだ様々な物が置かれていた。そこに人がいた形跡だけを残して、彼は居なくなっていた。

「まさか……」

 ついにこの日が来てしまったというのか。いつかこんな日が来るということは分かっていた。けれど、何も言わずに行ってしまうなんて酷い。


 せめて一言くらい、挨拶くらいしてくれたって――。


 まだ遠くへは行っていないかもしれない。佐恵は春彦を探すべく駆けだした。

 だが、その心配は杞憂に終わった。

 家の裏手にある梅の木の前に、春彦は立っていた。包帯の巻かれた上半身には、直接軍服の上着を羽織っている。

「よう、どうした? そんなに息を切らせて」

 春彦は駆けてくる佐恵を見つけると、片方しかない目を丸くして尋ねる。

 結果としてすぐ近くに居たわけだが、全力疾走してきたために息が乱れた。

「どうしたじゃ……ないよ……勝手に出て行ったりして、心配したんだから……」

「そんなに騒ぐようなことか? まだ家からは全然離れてねえぞ。傷も大分良くなってきたし、外の空気が吸いたくなったんだよ。それに少しは身体を動かしてないと、かえって治ったときに動けなくなるしな」

 そうじゃない。この不安の意味は、そういうことじゃない。病み上がりの人間を心配するような優しさなんかじゃなくて、もっと利己的な――。

「まあ、その……なんだ。あり……あり……ありが……」

「どうしたの? まだどこか痛い? やっぱり帰って休む?」

 佐恵は、急に言葉に詰まりだした春彦を心配して尋ねる。

「ちげーよ! ……ありがとう。お前が居なかったら、今頃死んでいた。俺が今生きているのは、お前のお陰だ。感謝してる」

 やっと言うことが出来た。散々世話になっておきながら、今まで一度も、彼女に感謝の言葉を告げたことがなかったという事に気がついたのだ。

 全く――謝辞を述べるという、たったそれだけのことにまで抵抗を覚える程に、心が荒んでしまった自分に腹が立つ。

 軍にいた頃は、感謝なんて無意味なことだったから。そんなもの、するだけ莫迦を見るだけだったから。

「う、ああ……」

 佐恵の大きな瞳から、涙がぼろぼろと零れる。顎を伝って落ちた雫は、降り積もった雪をほんの少しだけ溶かした。

「ど、どうした!?」

 自分のせいで泣かせてしまったのだろうか。自分が余りにも粗暴な態度をとるから、ついに彼女の心が折れてしまったとか?

 そんな的外れな想像をして慌てふためく春彦の誤解を解こうとして、佐恵は涙を拭う。

「ううん、大丈夫。ただ、嬉しくなって。それだけなの」

「そ、そうか。なら良かった」

「梅を見ていたの?」

 誤魔化すように、佐恵は話題を変える。

「ああ、こんな所でも、花は咲くんだなと思ってな」

 春彦は、雪と同じ色をした花弁を見つめる。

 人工的に植えられたものではない。鳥が何処かから種を運んできて、そこから芽吹いたものだ。その花は、雪に閉ざされた大地にあってもなお、力強く咲いていた。

 数秒間、沈黙が続いた後、佐恵の方から口を開く。

「私のお父さんとお母さん、殺されたんだ。医者は世の中が不安定になるほど儲かるから、周りの人たちよりもお金も食べ物も、少しだけ多く持ってた。だけど、独り占めしてたわけじゃないんだよ? 必要とされればお金がない人も治療したし、食べ物がなくなれば皆で分け合ったよ。それなのに……ほんの少しだけ、ほかよりも恵まれているというだけで、人の不幸で飯を食ってるって、それで……」

 恐慌状態で正気を保てなくなった人々に排除され、全てを奪われた。

「……そうか」

 春彦は彼女の話に、何も言い返せなかった。

「それにしても、家族、か……」

 そういえば、春彦にもそんなものが居たのだった。今まで、そんなことも忘れていた。

 國から徴兵の命令が来た時、彼の両親や近所の人々もこぞって喜んだ。お國のために立派に死んでこいと万歳三唱。今思い返しても反吐が出る。

「春彦には、お父さんとお母さん、居る?」

「ああ、まあ、生きてるよ。多分な」

 まあ生きていたところで、あんなもんはもう親じゃねえ――。さっきの話を聞いた直後では、とてもそんなことは言えなかった。

「ねえ、春彦。怪我が治ったら何処へ行くの?」

「さあて、どうしたもんかな。もう、隊には戻れねえだろうな。脱走兵は有無を言わさず処刑だし、逃げるときに仲間を一人殺しちまった。まあ、そいつも俺を拷問した一人だったし、悪いなんて思っちゃいねえけどな。

 かと言って、実家にも帰れねえ。戦場から逃げ帰ってきた腰抜けに、居場所なんてあるわけがない。それに、こんな身体で帰っても腫れ物扱いされるだけだろうしな」

「……綺麗に治してあげられなくてごめんね」

 火傷が完治したとしても、蟹足腫(ケロイド)の皮膚は一生春彦に付きまとい続けるだろう。

「気にするな。生きていただけでも儲けものだ」

 どうせ、一度死んだ様なものだ。今更傷跡の一つや二つ、何だと言うのだ。

「私、臆病だから。人が怖いの。だけど、ひとりぼっちはもっと厭なの」

 進むも地獄、戻るも地獄。そんな袋小路に閉ざされた道に、二人は立っていた。

 他人の都合で、誰かの欲望を満たす為だけに死ぬなんて御免だ。

 どうせ死ぬなら、自分が納得出来る死に場所で死にたい。


 例えば、一人の孤独な少女の為に、彼女の幸福を祈って死ぬとか――。


「だったら、もういっそ逃げちまうか」

 何かを投げ捨てるように、けれど大切な何かを守るように、春彦は言った。

「えっ?」

 佐恵は驚いて顔を上げる。

「本当に? 付いて行っても良いの?」

 或いは、春彦が佐恵に付いて行きたかったのか。どちらが正しいのかは分からない。けれど――。

「こんなことで嘘吐いてどうすんだよ」

 春彦は佐恵の目を見つめ返して、不敵に笑った。

 それを見て、佐恵は今までにないほどに満面の笑みを浮かべた。

 溶けることのない雪に閉ざされた広大な大地で、二人はあてどない旅の最初の一歩を踏み出した。


プロローグ的な何か。

もしもネタがたまったら長編として書きたいです。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 作中の世界観が気になります。ファンタジー要素があるみたいですが。 [一言] 読ませていただきました。是非、長編化してほしいです!
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