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 それから数日。安静を言い渡された碧は、寝台の上で未だ夢見心地の中にいた。


 自身の唇に、そっと触れる。


 ――ジャハーンギルと、キス……したんだ。


 そのことを考えると、言いようのない衝動が碧の体のうちを駆けめぐった。恥ずかしいような、うれしいような、けれどとてもむずがゆいような……。しかしふわふわとした幸福感の中にいることだけは、たしかであった。


 ジャハーンギルは仕事が忙しいらしく、あれ以来碧のいる離宮をおとなってはいなかった。


 そうした中での久方ぶりの訪問者は――


「マハスティ様、宰相のティルダード様が面会を希望なされておりますが」

「えっと……離宮(ここ)には、入れる、の?」

「ティルダード様は中庭でお話しできればとおっしゃられております」

「じゃあ、中庭で……」


 老年に差しかかった、いかにも好々爺といった風情のティルダードである。えびす顔のティルダードは穏やかな気性の老爺といった風ではあるものの、宰相という地位に就いているからには、見た目通りの性格ではないのだろう。


 ファフリの手を借りて中庭に備えつけられたベンチに腰を下ろした碧の前で、ティルダードはゆるやかに腰を折って頭を下げる。


「まずは礼を言わせてくだされ。『月の使い』様の力がなくては陛下をお救いすることはできませんでした。民を代表し深く感謝いたします」

「い、いえ……その、当然のことを、したまで、です」


 助けるかどうか、一度は思い悩んだことなど口の端にも上らせてはいけないなと碧は思った。この事実は墓まで持って行くべきであろう。


「さてこたびの訪問の委細でありますが――『月の使い』様、是非北の砦へ赴いてはくださいませぬかな」

「それは、その、どういった理由で……?」


 思いも寄らぬティルダードの言葉に、碧は少々怯えた。直感的にあまり心を許してはいけない相手のような気がすることもある。それとは別に「月の使い」であるとの証拠もない自身のことを思えば、警戒してしまうのも無理からぬことであった。


 ティルダードは豊かな白い髭をひと撫でする。


「北の砦は隣国との国境付近に建設された城塞でしてな。ああ、勘違いなさらないでくだされ。なにも隣国との諍いに『月の使い』様を駆り出そうとしているのではありませぬ」


 ティルダードによると、王都から遠く離れた北の国境付近の村々では旱魃に喘いでおり、このままでは餓死者が増える可能性がある。そうであるから「月の使い」である碧に北の砦を訪問し、慈雨を降らせて欲しい――というのが、彼がこの離宮をおとなった主目的であった。


「でも、わたし……」

「ご心配めされるな。護衛には王宮の近衛兵をつけ、身の回りの世話は女官が同道しまする。北の砦を守る将軍も『月の使い』様を歓迎しましょう」


 一見するとティルダードは碧が了承するか断るか、そのどちらかを待っているように見える。けれども他人の感情に敏感になっている碧からすると、ティルダードは碧に断りの言葉を入れさせるつもりはないようであった。恐らく彼はなにがなんでも碧にうんと首を縦に振らせるだろう。なんにせよ、一筋縄ではいかない相手という直感は当たっていた。


「雨なんて、降らせられ――」

「現に王と周辺では例年より雨に恵まれておりまする。加えて害獣による作物や牧畜の被害も少なく、お陰様で今年は飢える民は減りましょう。『月の使い』様はそこにおられるだけで我々民草に恵みを与えるお方。少しのあいだ北の砦へ滞在して欲しいのでございまする」


 例年よりも安定した降雨、害獣被害の減少……それはジャハーンギルにも言われたことだった。


「俺はやっぱりアオは『月の使い』だと思ってる」


 あの日の夜、ジャハーンギルはそう言って碧の目を見つめた。


「アオには自覚がないのかもしれないけれど、俺からすればアオはじゅうぶん『月の使い』と言っていい人間だよ」

「そんな、こと」

「アオは不思議なことを起こしてきただろう。奴隷商とモルテザーに天誅を下し、俺の前から姿を消した。それ以外にも今年は降雨が安定しているおかげで作物の実りも安定しているし、害獣たちもあまり村には下りて来ない。明らかに人智を超えた力が働いていると俺は考えているし――その源はアオの力だと思ってる」


 買い被り過ぎだと碧は思った。


 けれども奴隷商人とモルテザーの一件を置いておいても、碧は現実に他者から認知できなくなるという、なんとも不可思議な現象に見舞われた。たしかにそれは神の御業とも言うべきものなのかもしれない。だが碧は未だにいまいちそれらの出来事を飲み込めないままだ。どう処理して良いのやら、検討もつかない。


 なにか、世界で自分にしかない特徴でもあればいいのにと碧は思った。ジャハーンギルたちからすると、その特徴とやらは碧の色素の薄い容貌になるのだろう。彼らによればそのような容姿の人間は生まれたことがないと言うのだから。


 しかし碧からすると別に珍しいものではない。いや、たしかにプラチナブロンドに青い瞳という組み合わせは、元いた世界全体で見ればマジョリティーとは言い難いかもしれないが、けれども驚くほど少ないというわけでもない。


「でも、仮にわたしに、不思議な力があっても、自由に使えないんじゃ、意味、ないんじゃない、かな?」

「けれど現実に例年よりも天候は安定しているし――」

「偶然、かもしれない」

「けれどアオが姿を見えなくすることが出来なければ、暗殺計画は阻止出来なかったかもしれない」

「でも」

「――うーん……アオはどうして頑なに『月の使い』であることを否定するのかな? もしかしたら知らないうちに……たとえば選ばれていたとか、そういう可能性は考えたことはない?」

「……ない」


 そんな都合の良い話があるだろうか。世界でたったひとりの、「月の使い」とやらになってしまうなど。


 碧は首をかしげざるを得なかった。


「だって、わたし、ふつうの人間だった、から。だから、いきなり、つ『月の使い』とか言われても、困るし……それに、そう思われ続ける、のは、騙してるみたいで、いや……」

「騙しているようなのがいやなの?」


 碧はうなずいた。いっそそこまで開き直れたら良かったのかもしれない。碧を「月の使い」と崇めたてる人間を、馬鹿馬鹿しいと見下しながら甘い汁をすすれるような性格であれば楽だったのかもしれない。


 けれども現実の碧はごく普通の人間で、どこまで行っても小市民で、そして出来るならば他人からは嫌われたくないと思う、臆病な性格のありふれた一五の少女だった。


「でも、仮に『月の使い』ではないというアオの主張が認められたとして――どうするの?」

「それ、は……」

「アオの容姿は目立ちすぎる。『月の使い』を信じる人間や、あるいは利用しようとする人間に、()()ひどい目に遭わされるかもしれないよ?」


 ジャハーンギルの言葉に碧は震えた。掛け布の上から、折れ曲がったまま骨が癒着した右脚に触れる。


 碧はずっとこの脚でも働ける場所はある可能性についてばかり検討していたが、仮にそんな場所を見つけたとしても平穏に過ごせるとは限らないという可能性を失念していた。


 碧の姿は目立ちすぎる。これまでの生活基盤が違いすぎることはもちろん、まず第一に見た目があまりに違いすぎた。


 この王宮で、「月の使い」と誤認されて生き続ける。それが今の碧に提示された中で、もっともベストな未来なのだ。それを碧がいくらいやがり、負い目に感じようとも、動かしようのない事実なのである。


「――『月の使い』が存在したほうが都合が良いといったら、アオの心は軽くなる?」


 うつむいてしまった碧に、ジャハーンギルがそんな言葉をかけた。


「都合が、いい……?」

「ああ。この国(メフラーヤール)の民にとって『月の使い』は崇拝の対象だ。けれど『月の使い』はいつでも陽の国(メフラーヤール)にいるわけではない」


 現にファフリによれば「月の使い」が現れるのは実に二〇〇年ぶりだと言う。


「『月の使い』が現れたと言うことは、今代王は月の女神から好かれているということでもある。だから俺にとっては、アオが『月の使い』というのは都合が良いんだ。なにせ奴隷制度の廃止や奴隷解放を強行したことで諸侯らの不満は未だにくすぶり続けている。だから『月の使い』が俺の治世に現れたということは、俺の行いは間違っていないと女神が証明したことにもなる」

「証明、になるの?」

「そうだ。俺の正当性を神が担保したも同然だから――だから、『月の使い』は存在するということにしてくれたほうが、俺はありがたい……んだけれども」


 そこで言葉を切ってジャハーンギルは碧を見る。碧の機嫌をうかがうような、探るような、それでいて申し訳なさもにじませた目をしている。


「それではダメ? やはり、王宮(ここ)にはいたくない?」

「……ジャハーン、ギル、は、わたしに、いて欲しい、んだよ、ね?」

「……勘違いしないで欲しいのは、俺はアオが『月の使い』ではなくとも、ここにいて欲しいと思ったよ」


 ジャハーンギルが視線をそらし、恥ずかしげに言うので、碧も思わず頬を羞恥に染めてしまう。


「碧といると楽しいんだ。心が安らいで、色々な重責を一時(いっとき)忘れられる……。だから、出来るならアオには王宮(ここ)にいて欲しい」

「その……聞きたい、んだけど」

「うん」

「不思議な力、以外に、『月の使い』に、出来ることって、ある、のかな」


 仮に碧が「月の使い」だとしよう。そうなったときに問題となるのは、今の碧はその不可思議なる力を一切自らの意思で行使することが出来ない、という点である。碧が頑なに自身を「月の使い」ではないと否定する理由も、ここにあった。


 けれど碧はジャハーンギルの言葉を受けて「月の使い」として生きてく道を考え始める。彼の言うとおり碧がそうであるかそうでないかに関わらず、「月の使い」には大いに利用価値がある。それを考えれば、もしかしたらジャハーンギルは舌の滑りの良いことを言っているだけかもしれないと、疑うことも出来た。


 しかし碧はジャハーンギルの言葉に嘘はないと考える。そこには信じたいという気持ちもあった。それに、たとえ嘘でもいいとさえ思うほど、碧はジャハーンギルに対して好意を抱いていた。


 ジャハーンギルの暗殺計画を止める過程で、碧は彼への隠しようもない好意に気づいてしまったのである。


 それはまだ、燃えるような情熱に満ちたものではなく、春の訪れにつぼみを綻ばせ始めたような、そんな淡い感情ではあったが。


 そしてそうやって傾きつつある心で考えたのが、人智を超えた力を抜きにして「月の使い」に出来ることはなにか――ということであった。もし、なにかあるのであればやりたいと、碧は思った。なければ……また脚と発声が不自由な自分でも役に立てることを考えるしかない。


「そうだね……正直に言ってしまうと『月の使い』は存在するだけで価値があるし、だからいるだけで士気も上がる」

「そっか……」

「でもたとえば遠征から帰還した兵士を出迎えるとか、豊穣祭に俺といっしょに出席するとか、そうやって民にも顔を見せることは出来ると思う」

「それ、だけ?」

「アオからすると『それだけ』のことかもしれないけれど、『それだけ』のことでうれしい気持ちになれたり、救われるひともいるんだよ」

「救われる、は、おおげさじゃ、ないかな」

「そんなことはないよ。生きるということは闇の中を手探りで進むようなものだ。けれど『月の使い』はそこに現れた光のようなものなんだ。『月の使い』がいればこの国(メフラーヤール)は大丈夫だろうと、そう思えるひとも多いんだよ」


 やはり現代日本で生きる碧には、上手く消化することの出来ない価値観である。


 その日はジャハーンギルから「療養がてらしばらく考えてみるといいよ」と言われ、また自然と唇を交し合って別れたのであった。



 そして碧は――北の砦へ向かう馬車の中にいた。

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