生存者
七歳の夏、僕は母親に捨てられた。
まるで飲み終わったペットボトルを道端に投げ捨てるみたいに、僕は知らない公園のベンチに一人置いてけぼりにされたのだ。
そのとき僕が真っ先に思ったのは、これからどうやって生きていくかということだった。住むところもなければ、食べ物を買うお金さえ持っていなかった。まだ義務教育も終えていないというのに、どこかの会社に雇ってもらえる可能性も高いとは思えない。つまり僕は、これから生きていくために、誰かに養ってもらわなければならない必要があったのだ。
ちょうどそのとき、僕の座っていたベンチに、誰かが腰かけた。その人は上下黒色のジャージを着た四十代くらいの男性だった。小さな公園には、ベンチが一つしかない。他に休憩する場所が見当たらなかったのか、その人は少し苛立ちを見せながら煙草を吸っていた。
しばらく男性は僕の横に座っていたけれど、ふとベンチを立ち上がった。男性はどこかに向かって歩いていく。
僕は少し考えて、その男性の後をつけていくことにした。僕には頼れる親戚も友達もいなかったから、これから行く場所が思いつかなかったのだ。だから、あの男性に助けてもらおうと思った。
男性は公園を出て、都心から離れた住宅街へと歩いていった。しばらく後をつけていると、男性はこちらの気配に気づいたようだ。めんどくさそうに後ろを振り向いた。
「何だよ、後つけてくるな」
男性は僕に冷たく言い放った。
それでも僕は、再び歩き出した男性の背中を見失わないようにして後を追っていった。
人影が薄い路地を通って、小さな一軒家の前にたどり着いた。そこが男性の住む家らしい。慣れた手つきで男性は玄関の鍵を開けている。そのときにはもう、男性は僕のことを追い払うことを諦めていたみたいだ。黙って立ち尽くしていた僕のことを見て、男性は渋い顔をしながら家の中へ招いてくれた。僕は遠慮なく、家の中へ入った。
家の中は散らかっていた。一階のリビングには、ページが破かれた漫画や、いつ洗濯をしたのかわからないような衣服などが、あちらこちらに落ちていた。どこにも足の踏み場がなかった。
「別にここにいてもいいけど、絶対に二階へ上がるんじゃないぞ?」
男性は床に落ちていた空き缶を踏み潰しながら、僕にそう言った。どうやら男性は、僕が母親に捨てられたことに気づいていたらしかった。きっと、僕が母親に背中を叩かれるところをさっき目撃していたのだろう。
男性は、あわれむように僕を見下ろしていた。
僕が男性のことを見上げると、静かな時間が部屋に流れた。その人は特に文句を言わなかった。この家に住んでもいいと、その男性は僕に言ってくれた。
僕は素直に、その言葉に甘えることにした。他に行くところがなかったから仕方がなかったとも言える。この部屋はゴミだらけで汚いけれど、今の立場じゃ文句は言ってられない。
そこから追い出されるといけないから、僕はその日から、男性の指示だけには忠実に従うことを決めたのだった。
◆
数日後、二階から物音が聞こえてきた。
それは深夜、僕がリビングに散らかっていたゴミと一緒に眠っていたときのことだった。
その時間、男性はどこかに出かけていて、家の中には僕一人しかいなかった。
男性には家族も恋人もいないようだった。だから、ペットでも飼っていない限り、この一軒家に長年一人で暮らしていたことになる。僕が見たところ、男性がペットを飼っているような人物には思えなかったから、二階から物音が聞こえてくるのはおかしかった。
不思議に思い、僕は使い古された布団から出た。二階の様子を見に行こうとしたのだ。
でもすぐに、僕は男性との約束があったことを思い出す。もし約束を破ったら、この家を追い出されてしまうかもしれなかった。
仕方がないので、僕は二階に行くことは諦めた。その日は、大人しく布団の中へと戻った。
◆
この家の主は、僕が二階へ上がることを極度に恐れているようだった。
以前、僕がお腹を痛めてトイレに行こうとリビングから出たとき、男性は一緒についてきた。それはたまたまなのかと思ったけれど、僕がリビングを出るときには必ず男性は後をついてきた。それはまるで見張りみたいだった。
だから、この家の二階には何か知られたくない秘密があるのかもしれない。
この家に住むようになってから、僕はそう思っていた。日が経つにつれて、その思いは徐々に気になっていったけれど、僕は何も考えないことにしていた。
だって、もし僕が男性との約束を破ったことがばれてしまったなら、この家から追い出されてしまう危険性があった。
僕にはもう、他に行くところがないのだ。だから、ここは自分の好奇心を静めることに集中させて、早めに就寝しようと思った。
でも目を閉じた瞬間、二階の方から女性の嗚咽のような音が聞こえたような気がした。
聞き間違いかと思ったけれど、よく耳を澄ましていると、確かにそれは聞こえてきた。
夜中だということもあって周囲は静かだったし、僕は目をつぶっていたから、それははっきりと聞き取れた。
僕は目を開けた。
確かにこの家には、『誰か』がいる。
二階が気になる気持ちを我慢して、僕はリビングにあったテレビをつけた。テレビの音声をこの部屋に流せば、少しは二階の方を気にしなくてすむと思ったのだ。
暗い部屋でつけた画面には、ニュース番組が放送されていた。
深刻そうな表情でニュースキャスターが読み上げていたのは、最近起きた連続殺人事件の報道だった。
被害者は若い女性で、森の中で遺体が発見されたと報道されていた。その死体の遺棄現場は、この家からそれほど離れていない場所にあった。見覚えのある風景が画面に映って、僕の目はテレビに釘づけになる。
その事件の犯人は、まだ見つかっていないみたいだ。何やら数ヶ月前にも、行方不明だった若い女性が、この近所で遺体となって見つかっているらしい。その被害者と今回の被害者にはいくつか共通点があって、犯行の手口が似ていることから、連続殺人事件の可能性が高いとテレビの中の専門家が言っていた。今のところはそれ以外に詳しい情報がなく、捜査は難航しているらしい。
そのとき、男性が帰宅した。
明かりがついていない部屋でテレビを見ていた僕を見つけると、男性は眉間に皺を寄せながら家の鍵をダイニングテーブルの上に乗せた。
「子どもは早く寝ろ」
男性はそう言い、強制的にテレビを消した。
二階にある自分の寝室へ戻るためか、男性はリビングのドアを開けた。
そのドアを閉めようとした瞬間、男性は何かに思いついたように立ち止まって、僕に声をかけた。
「お前、ずっと、一階にいたか?」
暗くてよく表情は見えなかったけれど、その声はいつもより低かった。僕は首を縦に振って「うん」といつもより小さく返事をした。
◆
男性は、朝になると仕事へ出かけていった。車で通勤しているのか、出かける前には必ず鍵を二つポケットに入れていた。
「そのうち小学校には行かせてやるけど、絶対に授業参観には行かないからな」
男性は、僕の父親代わりになってくれるみたいだった。
このあいだは、家で一人退屈にしていた僕のために、新品のランドセルを買ってきてくれたのだ。
けれど、相変わらず男性の僕に対する態度は冷たかった。僕を見下ろすときのその目には、全く愛情が感じられなかった。
でも、それでも僕はかまわなかった。
とりあえず住む場所と食べ物の確保はできたから、あまり文句は言えないだろうと思っていたのだ。ろくに食べ物を与えず、欲しい服も買ってくれなかった母親に比べたら、この家はとても住みやすかったという理由もある。僕を捨てた母親のことは、もうこの頃には忘れようと心がけていた。
男性が仕事から帰ってくるときには、いつも僕の分の夜食も買ってきてくれていた。それは安くて冷えたお弁当だったけれど、何もないよりははるかにましだ。母親と暮らしていたときなんて、一日中食べ物を与えてもらえなかったことは当たり前だった。だから僕は、目の前にあるお弁当を一口一口味わって、美味しく頂いた。
その家に住まわせてもらうようになって、一ヶ月が過ぎていた。
その頃には、もうお互いの素性を深く探ることはしなくなっていた。一緒に生活をしていたからか、僕と男性の間には奇妙な信頼感まで生まれてきていたのだ。
僕は、ご飯をくれる男性のことを本当の父親のように頼っていたし、男性は、僕を二階に行かない約束をしっかりと守る真面目な子どもだと思っているらしかった。
大抵僕たちは、何もすることがないとき、一階でテレビを見て過ごすことが多かった。
でも僕が寝る時間になると、男性はときどき外に出かけて行って時間を潰しているみたいだった。
最初はそのことに気がつかなかった。
僕は、男性が毎日二階の寝室で寝ているのかと思っていたけれど、そうじゃなかった。
そのことに気づいたのは、ある日の夜中だった。
僕が我慢できなくてトイレに行ったとき、ふと玄関の方を見ると、いつも男性が履いているはずの靴がそこになかったのだ。
そして男性は、僕が目を覚ます時間の前には必ず家に帰ってきた。
そのことにも気づいたのは、僕の眠りが浅いからだった。僕は昔から、音に敏感なのかちょっとの物音でも起きてしまう人間だったのだ。
男性が家に帰宅すると、玄関のドアが開く。その音は、僕にとって大きな音だった。いつもその音で目が覚めてしまう。
目が覚め、まだ暗い部屋の中で耳を澄ましていると、男性の他にもう一人の足音が聞こえたような気がした。リビングのドアは閉まっていたから、その様子を見ることはできなかったけれど、いつだったか男性が帰宅したとき、玄関の方から女性の小さな悲鳴のような声が聞こえてきたのを僕は思い出した。
それともう一つ、男性が深夜にこっそり出かけて行くときのことも、僕は思い出した。
そのとき男性は、人が一人入りそうなくらいの大きなバッグを二階から一階へ運んでいたのだった。男性は気づいていないと思うけれど、その様子を僕はこっそりとリビングのドアの隙間から観察していたのだった。
◆
男性の家で暮らすようになって、もう数年が経った。僕はそのとき、中学生になっていた。
朝になると、僕たちは一緒に家を出た。僕は学校に、男性は仕事へ向かうためだ。
大抵は僕が先に帰ってくるから、家の中にいると退屈な時間が増えた。
そういうときは、男性からもらっていたお小遣いで、レンタル店からDVDを借りてきて、家のリビングで鑑賞をして時間を潰した。
その頃になっても、僕は未だに二階へ足を踏み入れることはしなかった。
深夜になると、相変わらず女性の啜り泣くような声が漏れてくる日もあったけれど、僕は聞こえなかったふりをした。
僕がこの家で暮らさなくなるまでは、男性との約束を守り続けなければならない。じゃないと、僕は生きていけなくなってしまう。
二階から聞こえてくる音は、定期的に別人の声になっているような気がした。
控えめに涙をこらえているようなときもあれば、喚くような大声が聞こえてくるときもある。
まるで僕が知らないうちに、誰かがこの家を去って、そしてまた別の誰かがこの家にきているみたいだった。
あるときには、何か大きなものが逃げようとしているみたいに、上からドンドンと音が聞こえてきた。まるでそれは、ロープか何かで縛られている人が必死に足で蹴って助けを呼んでいるみたいな音だった。
◆
その夜も、男性は僕に内緒でどこかへ出かけていて行った。
僕はトイレに行くために、布団を出た。
トイレの電気を消して、リビングに戻ろうとしたとき、近くから何か物音が聞こえてきた。それはいつもより大きな音だった。
僕はいつものように聞こえなかったふりをした。
早く眠りにつこうと、布団の中で羊を数えてみることにした。
その日、僕が早く眠りたいのには理由があった。それは明日、僕の通う中学校で大事なテストがあるためだった。いい成績をとるためにも、今日は十分な睡眠をとっておきたい。僕は必死に羊を数えた。
でも、そういうときに限ってなかなか睡魔はやってこなかった。
その理由には、ある要因が考えられた。
物音がうるさいのだ。さっきから、何かの音が絶え間なく続いていた。これじゃ、せっかく羊の数が増えてきても、全く睡魔は襲ってこないはずである。
仕方がないから、僕は布団から出た後、二階へ上がることにした。
階段を使おうと思ったのは、今日がはじめてだった。
男性は今どこかへ出かけている。さっき出かけたばかりだから、きっとすぐには家には戻ってこないだろう。僕はそう予想した。
僕は急いで階段を上った。
上っている間にも、物音はどんどん大きくなっていった。
普段から女性の嗚咽が聞こえてくる場所を推測して、僕は部屋のドアを開けた。
その部屋には、一人の女性がいた。
床の上で体育座りのように座っていた。でも、両手と両足をロープで縛られていて、身動きがとれないようだった。
その部屋もリビングと同様に散らかっていた。でも一つだけ違ったのは、軍手やロープなどの作業道具が無造作にあちらこちらに置かれていたことだった。
女性は散らかった部屋の中で、肩を震わせ怯えていた。
部屋のドアが開いた音に驚いたのか、身動きのとれない身体でどこかへ逃げようとしていた。
でも女性は、僕の姿を見ると、急に大人しくなった。相手が自分よりも小さな子どもだと思って、安心したらしい。
「お願い、助けて」
女性は涙声で、そう僕に言ってきた。
その人は、派手な服装に身を包んだ女性だった。金髪のロングヘアーと濃い化粧のせいで学生のようにも見えるけれど、よく見てみると、もっと上の年齢のようだった。その女性は、僕くらいの歳の息子がいてもおかしくないような年代に見えた。
女性の顔をずっと見ていたら、なぜだか僕は懐かしい気分になった。
もしかすると僕は、以前にこの人とどこかで会ったことがあるのかもしれない。そう感じて、僕は記憶を遡って思い出そうとした。
数秒後、答えが導きだされた。
やはり、その女性は以前に会ったことがある人だった。
その女性は、僕の『母親』だったのだ。
僕がまだ小さかった頃、何の理由も告げずに、どこかの公園へ置いてけぼりにしたあの母親だった。あれから二度と姿を現すことはなかったから、危うく僕はその顔を思い出せなかったところだった。
辛い過去を思い出していると、向こうも僕のことに気づいたみたいだった。
「もしかして、あんた……」
母親はそう呟いた。
それは久しぶりの再会だった。
母親は、大粒の涙を流しながら僕に言った。
「このロープを外してくれたら、何でも好きなもの買ってあげるから、ほら早くとって。ねっ?」
母親は、まるで駄々をこねる子どもを諭すみたいな口調でそう言った。
僕たちが二人で暮らしていた頃の思い出は、数年前で止まっていたから、もしかしたら母は、まだ自分の息子が中学生になった現実を受け止めることができずにいるのかもしれない。だから僕と接するとき、態度が子どもっぽくなってしまうのだ。
母親は、昔は僕がいくらおもちゃを欲しいとねだっても、一度だって与えてくれたことがなかったのに、今頃になってようやく願いを叶えてくれるようだ。僕はその態度に寒気を感じた。
「そのロープを外したら、また僕を養ってくれる?」
僕は母に訊いてみた。これは重要な質問だった。
だって、これから僕は中学校を卒業して、高校にも通いたいと思っているからだ。今のところ、この家の主は、その願いを叶えてやると、以前に約束をしてくれていた。だけど、その願いを母親も叶えてくれるかどうかは分からない。だって母親は以前に僕を裏切ったことがあるからだ。そんな簡単に信用はできない。だから、ちゃんとこの目で確認しておきたかったのだ。
「もちろんよ、また一緒に暮らしましょ。だから、こんなところ早く逃げなきゃ!」
母は、そんな質問聞くまでもないというみたいに首を大きく縦に振った。
でも僕は、その言葉を口にしたときの母の目が一瞬泳いだのを見逃さなかった。
きっと、母はこの部屋から上手く脱出することができたとしても、僕と一緒に暮らすつもりはないのだろう。僕はそう思った。
そのときだった。僕の背後に、誰かが立っていたことに気づいた。
振り返ると、この家の主が立っていた。
「おい! 二階に上がるなって言っただろ? 約束を破ったのか!」
男性は怖い顔で僕を見下ろしていた。その手にはハンマーが握られている。
「キャー」
男性の顔を見た母が、騒ぎだした。自分をこの家に連れ込んで、手足をロープで縛った犯人が突然現れて、きっと頭の中が錯乱状態になっているのだろう。
母は身動きのとれない身体で必死に暴れていた。
すると、一瞬だけ、男性の視線が母親の方に向いたのを、僕は見逃さなかった。
僕は、その瞬間を逃さず、素早く男性に襲いかかった。
僕は自分のポケットに隠し持っていたスタンガンを、男性の身体に押しつけたのだ。
すると男性は抵抗することもなく、簡単にその場に倒れた。
毎月もらっていたお小遣いを貯めて、僕がスタンガンを購入しておいたことは正解だった。いざというときのための護身用として、僕は肌身離さず持ち歩いていたのだ。
男性は電流のショックで気絶しているのだろう。しばらくは目を覚まさないはずだ。
その様子を目撃していた母は、騒ぐのをやめていた。自分の息子が、犯人をやっつけてくれたことに安堵しているのかもしれない。大きく息を吐き出していた。
「よかった……」
大人しくなった母に近づいて、僕は言った。
「今、この家の隣家が、火事になってるんだ」
母は、僕の言った言葉の意味が上手くのみ込めないようだった。数日間も監禁されていたのだから、頭の中で冷静に対処できないのかもしれない。僕は、母にわかるように一から説明することにした。
「今ね、隣の家が火事なんだ。この家は隣家のすぐそばに建っているから、火がこっちに燃え移るかもしれない。だから、早く逃げないとこの家も燃えてしまうだろうね」
母は、とりあえず今の状況をわかってくれたようだ。僕の顔を見て無言で頷いていた。
それを見て僕は、続けて説明をした。
「あのね、さっき、僕がトイレで目を覚ましたとき、何かの物音に気がついたんだ。最初は、いつもみたいに二階から物音が聞こえてきたのかと思った。誰かが助けを求めている音だ、ってね。でも、何かがいつもと違ったんだ。それで僕は異変に気づいた。布団から出て、カーテンを開けて窓の外を見てみたんだ。そしたら、隣の家が燃えてることに気づいた。そこでようやく僕は気づいたんだ。さっき、聞こえてきた物音はそれだ、って。隣は空き家だったから、全焼しても構わないとして、でも、この家に火が燃え移ったら危ないと思った。だって、この家には僕がいるからね。だから、すぐ逃げようとしたんだ。でも、この家の二階に誰かがいたことを思い出した。そこに倒れている男は、実は連続殺人犯で、次の被害者がこの家に連れ込まれていたことに僕は薄々気づいてた。だから、その被害者を救うために、二階へ上がってきたんだけど、まさかそこに僕の母親がいるとは思わなかったよ。きっと、お母さんは若者が好みそうな服装をしていたから、犯人の目に止まりやすかったんだろうね。この男は、なぜかわからないけれど若い女性しか殺そうとしなかったから。今、僕がお母さんを助けてあげてもいいけど、僕は次に住む家の確保を優先しなきゃいけない。だって、僕はまだ、一人じゃ生きていくのが難しい年齢だから」
僕の説明を聞いて、母はさらに顔色を悪くさせたみたいだ。
僕は、母親が一緒に暮らすつもりがないということを、最初から見抜いていた。
その僕の考えに、向こうも気がついたのだろう。
母親は、背中を向けて歩き出そうとする僕に向かって、こう呼びかけていた。
「ま、待って! ほんとよ! 私はあんたと一緒に暮らすつもり。今度こそは、あんたを幸せにしてあげるから! 私を置いて行かないでっ!」
母は涙ながらに言った。その涙は、恐怖に怯えた涙のようだ。肩が小刻みに揺れている。
「じゃあ訊くけど、僕の名前は覚えてる? お母さん」
僕は、母の目を見ながら尋ねた。
これくらいの質問には簡単に答えられるだろうと思っていたけれど、それを期待したのは間違いだった。
母親は、口を開きかけて絶句していた。どうやら、自分の息子の名前をすぐに思い出せなかったらしい。
「あのね、僕にも、ちゃんと名前はあるんだよ」
それだけを言い残して、僕は母に背中を向けた。この家が燃えきる前に、早いとこ一人で逃げようと思ったのだ。
僕は、近くに倒れていた男を跨いで、一階へと下りた。どうやらこの男が目を覚ますことは、もう二度とできないようだ。
僕は心の中で男にお礼を言った。この男は人を殺す人間だったけれど、一応、僕をここまで育ててくれたのだ。そのことだけはお礼を伝えたかった。
さてと、次に僕を養ってくれる人を探さないとな……。そう思いながら、僕は振り返ることなく、数年間暮らしていた家を出ていった。