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冬の最涯  作者: 直弥
第二話「ループ」
9/19

3コマ目

 高山家の夕食。親子三人でカレーライス。テレビも点けず、ろくに会話もない、ひどく静かな食事風景。

 ――もう結構経ってるっていうのに、いつまでこんな感じのままなんだよ。

 飽き飽きしながらも。他ならぬ自分自身に原因があるだけに、最も慎重にならざるを得ない広明は何も言うことが出来ないでいる。そうして真っ先に食べ終えた彼は立ち上がり、皿とコップを流し台へ運んで行った。そのままの脚で部屋を出て行こうとする彼の背に、

「広明」父からの声がかかる。「お前、またバイト探してるんだって?」

「え? う……うん」

「そんなに急いでバイクを買い替えることもないんじゃないか?」

「別に、バイク買うためにバイトしようとしてるわけじゃないよ。バイクなんか、あってもしばらくは乗れないよ」

「っ、そうか」

 押し黙る父。ますます暗澹とした空気を纏い始める部屋の中から、

「風呂入るから」

 広明は逃げ出した。


「はあっ」

 湯船に浸かりながら、広明は嘆息する。

 ――ったく。こうなったのも、どっかのわけのわからんクズのせいだ。人のバイクに細工なんてしやがって……一歩間違ったら人殺しになるところだったんだぞ、くそっ!

 もう何度目か分からない、やり切れぬ怒り。犯人が未だ見つかっていないこともそれに拍車を掛けていた。だからこそ。

 ―やっぱり、これしかないよな。

「へえ、もう決まったの」

 少女の声が浴室に響いた。

「うおい!」

 反射的に立ち上がる広明。せわしく視線を動かして、鏡の中に少女を認めた。数時間前にパソコンの画面の中にいた少女が、その時と寸分違わぬ格好で映り込んでいる。浴室には確かに広明しかいないにも関わらず。

「どこに出てくんだよ、お前は」

 小声で言う広明に、

「なんでそんな、ひそひそ声なの?」

 少女はきょとんした表情で訊ねた。広明は慌てながらも小声のまま、言葉を紡ぐ。

「声落とせっ。自分の部屋ならパソコンの声とか電話とか幾らでも誤魔化せるけど、風呂の中じゃそれも出来ないんだからよ。ただでさえ響くっていうのに」

「ああ、そういうこと。でもそんな心配は要らないわよ。だって、誰にも聞かれるわけがないもの。今、世界中の時間を止めているから。この場所以外はね」

「なっ、お前そんなことまで出来るのか」

「まあね。だから、もう普通に喋っても大丈夫だよ」

「ん」広明は頷くと、湯船の縁に腰掛け、鏡の中の少女と向かい合った。そして切り出す。「もう分かってるみたいだけど、決まったから。いつに戻るか」

「そう。だいたいは把握しているつもりだけど、一応言葉に出して聞かせてもらいばしょうか」

「おう。まず、戻りたい日付は今年の一月二五日。俺がバイクで事故を起こしちまった日の前日だ」

「何年前からでも人生をやり直せるのに、何故、その日に戻りたいの?」

「俺は二五日にもバイクに乗ったんだ。でも何の問題もなかった。んで、次の日、センター試験受けるためにバイクに乗ったら、三度目のブレーキであの事故だ。ってことは。事故の原因になったイタズラは、二五日に俺がバイクを降りてから、二十六日にまたバイクに跨るまでの内に行われたって可能性が高いだろ? だから二五日に戻って、バイクを降りてからずっと見張る。んで犯人を現行犯で捕まえる! それで事故は起きないし、センター試験だって受けられる。一石三鳥だ」

「なるほど」少女は頷いて。「でも」残酷な言葉を紡ぐ。「それは無理な相談ね」

「なっ」予想だにしていなかった拒否の言葉に、広明は脳天を直に殴られたようなショックを受ける。「なんでだよ! あ! お前、俺のことからかってただけなのか?」

 広明は全裸のまま少女――ただし鏡の中の――に詰め寄っていく。だが少女は一切臆することなく、冷静に言葉を放つ。

「まさかそんな。あなたにはちゃんと人生をやり直すチャンスを与えるわ。だけど、私にだってやれることの限界というか範疇っていうのがあるのよ」

「なんだよ、それは」

「実は、あなたの事故は、既に他の誰かが人生をやり直した結果、起こるようになってしまったことなの」

「は? どういうことだ?」

「順を追って話すわ。少し長くなるから、湯船に浸かったら?」

「あ、ああ」

 それどころではないという思いは強かったが、逆らってどうなるものでもないと悟った広明は少女の言葉に従った。

「よろしい。じゃあ話すわね。実はあの日、本来事故を起こすはずだったのは、あなたじゃない別の人間だったの。だけど、あなたと同じように人生をやり直す機会を与えられたある男の子が、その事故を未然に回避したのよ。結果、歴史の流れが歪んでしまうことを拒絶した〈世界〉が、歴史に修正を加え、帳尻を合わせようとした。それで、本来起こるはずではなかったあなたの事故が起きたわけ。本来の歴史でもあなたのバイクはイタズラされて故障していたのかもしれないけれど、だとしたら事故を起こす前にそのことに気付けていたんでしょうね」

「なんだって? とばっちりじゃないか! しかも無茶苦茶だ! 誰かが事故を起こすって点だけを見れば、歴史の流れとして埋め合わせされてる感じはするけど、当事者が違うっていうんじゃあ、結局は全然違う未来じゃないか」

「交番なんかで、昨日の交通事故件数が書かれてる掲示板、見たことない?」

「……あるけど」

「あれさ、いちいち一件一件の事故の内容まで細かく書かれてる?」

「いや。少なくとも俺が見たことあるようなのは、死亡事故とそれ以外の件数が別々に載ってるぐらいだったな」

「つまり、Aという人が事故を起こそうが、Bという人が事故を起こそうが、あそこに書かれる数字は変わらないってことでしょう? 世界の帳尻っていうのもそれと同レベルなのよ」

「ふ、ふざけんなよ! 納得行くもんか! 第一、なんで、俺が、くそっ、くそっ!」

 興奮した広明は、拳で水面を何度も叩く。激しく飛沫が上がり、鏡にも降りかかる。しかし鏡の中にまでそれは届かない。少女に憐憫の目で見られていることに気付いた広明は、その悔しさでまた水面を叩いたが、それを最後の一回にして、二つの意味で拳を沈めた。

「……本来起こるはずだった方の事故じゃあ、被害者は誰で、どうなってたんだ? 俺の事故とそっくり同じなのか?」

 広明は必死に気持ちを取り繕い、少女へ湯ではなく質問をぶつけた。少女は答える。

「被害者そのものも、被害者の状況も全然違っていたわ。死者が出ていないのは共通しているけどね。気にはなると思うけれど、これ以上は教えられないわ。たとえ伝聞の形でも、存在しなくなった時間軸の知識を複数の人間が持っているのは危険だから。ただ名誉のために言っておくと、問題の男の子は世界の修正なんてもの知らなかったのよ。ただ本来事故に遭うはずだった人を助けたかっただけ」

「そうかよ。でも、その男の子とやらに人生やり直しの機会を与えたのはお前だろ?」

「いいえ、違うわ」

「ふうん。なら、お前みたいな存在が他にもいるってことかよ。まあ、たとえ嘘でもこっちに確かめようなんてないけどな。ともかく、俺が俺の事故を防いでもどうせ別のところで別の事故が起きちまうから、それは駄目だってことか? いや、それが分かってるなら、俺だって何も他の誰かを犠牲にしてまで過去を変えようとは思わないけど。でもよ、世界からの修正なんて物がある以上、誰も何も犠牲にせず過去を変えるなんて無理じゃないのか?」

「あなたは大いに誤解しているわ。私はなにも、そんな聖人君子じみた理由で駄目だって言ってるわけじゃないの。もっと切実な理由よ」

「切実な理由?」

「そう。まず私は世界の修正力なんかに負けない。私の力であなたが過去に戻って、そこで歴史を変える行動を起こしても、それに対して世界からの修正が加わるなんてことは決してない」

「なんでだ?」

「私とあの子とじゃあポテンシャルが違い過ぎるもの。でもそれも一回きり。一度加わった修正の結果である歴史については、幾ら私でも二度と手出しが出来なくなるの。それは絶対的な確定事象となってしまうから。一度折れた骨は、治った時、折れる前より強固になっているって言うでしょう? あれの究極系と考えてもらえればいいわ。あなたがあの事故を起こすということは、もはや確定事象となっているの。たとえあなたが事故を起こす一時間前に戻って絶対に家から出ないようにしようとしたところで、世界は一時的にあなたの身体を乗っ取って操ってでも事故を起こすし、前日に戻ってバイクそのものを破壊しようとしても、どこからか妨害が入る。もはや埋め合わせとか帳尻とかいうレベルではなく、まったく同じ事故がどう足掻いても起きてしまうの」

「マジかよ」

「マジよ。だからあなたは、事故が起きることは受け入れた上で、人生をやり直さなければならないの。今の記憶と知識を持ったまま昔に戻れるんだからさ、それをフルに活用して、事故を補って余りあるほどの事を為せばいいじゃないの」

「なんか、妙な話になってきたな」

「最初から妙な話でしょ、人生をやり直すなんて。やめる?」

「……やるよ」

「そう。じゃあ、いつ頃からやり直すの?」

「今年の一月一九日だ」

「え? あれ? 私の提案、聞いてた?」

「聞いてたさ。たとえ赤ん坊から人生をやり直したって、あの事故はどうしても防げないんだろ? だったら昔に戻れば戻るほど苦しむ時間が伸びるだけだ。補うもクソもあるもんか。俺だけの事故じゃあるまいし」

「分かったわ。でも、それなら戻るのは事故の後の方がいいんじゃないの? 時間としては一ヶ月もないけれど、古新聞見て万馬券でも買えば相当儲けられるわよ? 場合が場合だし、それぐらいなら待ってあげていいし」

「事故起こしたヤツがそれも解決しない内に競馬行くのかよ」

「黙って行けばいいと思うんだけど」

「あのな。親に賠償金払わせといて自分は反則技の博奕で儲けた金を隠して貯め込むなり使うなりするのかよ。というか一人暮らしでもないのに隠し通せる自信もねえ」

「どうにかなるとは思うんだけど。決意は固いみたいだし、もうとやかく言わないわ。だけどどうしてその日に戻りたいわけ?」

「センター試験だよ」

 某年のセンター試験、その日程は一月一八日と一九日であった。現役の受験生で、公立のとある大学を志望していた広明も当然受けるはずだった。一八日、手応えを感じて帰宅。一九日は、受験会場に辿り着けなかった。

「どうして?」

 相変わらず浴室。鏡の中から少女が訊ねると、大介は無言で鏡に背を向けた。そして、自らの右太腿を指し示す。そこにはまだ新しい縫い目の痕がはっきり残っていた。

「どうしたの、それ?」

「刺されたんだ」

「つまり掘られたのね」

「つまってもそうはならねえだろ。会場に行く途中、裏路地を使って近道しようとしたら、そこにおかしなオッサンがいてな。ぶつぶつ呟きながら歩いてたんだよ。やばいなと思って引き返そうとしたら信じられない速さで追いかけてきて、ポケットからナイフ取り出してグサっだよ。したら冗談みたいに血が出てな。そのまま気絶しちまったんだ。気付いたら病院だよ」

「それで試験が受けられなかったってこと?」

「そう。怪我自体は、意外に大したことなくて、三日後にはバイクにも乗れるぐらいのものだったんだけどな。いやむしろ歩くよりそっちの方が楽だったから、それまでは休みの日にぐらいしか乗ってなかったバイクを、普段の交通手段として使うようになったんだけど」

「なるほど。じゃあ、事故があったあの日に受けるはずだったセンター試験っていうのは、本来の日程じゃなくて追試験の日だったのね」

「ああ。センターの追試験を受けるのって、あっちに不手際があったとかじゃない限りかなり厳しい条件が要るみたいなんだけど、俺の場合はさすがに認めてもらたんだ。ただ不審者に絡まれただけならともかく、刺されてるっていう証拠があるわけだしな」

「でも予備日にはあの事故が。信じ難いぐらいにツイてないのね、あなた」

「自分でもそう思う。だけど、そこへお前が現れてくれたことは奇跡だよ。事故はもう受け入れよう。あの子には悪いけど、どうしようもないんだし。だけど、センター試験さえ受けることが出来れば、俺にとってのこの今は、この家全体に立ち込めてるろくでもない今は、多少よくなるはずだ。事故を起こしたからって二次試験を受けられないなんてことも、大学に行けないなんてこともなくなるし。それに、大学へ通いながらバイトすれば、あの子への償いだって自力で出来る。浪人しながらそれをやるよりは父さんたちにとってもずっとマシなはずだ。だから、俺をあの日に帰してくれ」

「本当に、いいのね? あなたに与えられる機会はたった一回だけなのよ?」

 少女が念を押して訊ねると、広明は力強く頷いた。

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