2コマ目
一時間目の授業が終了した後の休み時間。大介はまるで忍び込むような感じで自分の教室に入った。誰もが彼に気付き、一瞥――特に絆創膏を――しながらも、すぐにまた視線を逸らした。わざとらしく。渦中の人物に、しかし誰も積極的に話しかけようとしたりはしない。同級生たちの反応に安堵したような、拍子抜けしたような、もしかすると寂しいような感触を覚えつつ、大介は席に着いた。間もなくチャイムが鳴って二時間目の授業が始まるまで、結局、彼が誰かと話すことはなかった。いや、始まってからも。
午後の授業がすべて終了し、ホームルームも終わると、大介はすぐさま教室を後にした。ほんの一秒でもそこにいる意味と必要性を感じていなかった。しかし目立ちたくはないのか、決して早足にはならない。あくまでごく普通の足取りで廊下を抜けて行こうとする。今日に限ってはそれでも視線を幾つも感じていたが、それはもう仕方のないこととして諦めて。
「はい、『二〇六号室』の患者さんですね。ただ今確認致しますので、少々お待ち下さい」言って。若い女性の看護師が手元の内線電話の受話器を取り、番号を押してしばらくの後、口を開いた。「はい、長野大介さんという方がお見えになられていまして。そうです。はい、分かりました。はい」向こう側から切られるのを待ってからそっと受話器を元の位置に戻した看護師が告げる。「お待たせしました。では病室の方へお願いします」
「はい。あの、大丈夫なんですよね? なんか容体が急変したりとかは」
「いえ、そんなことは。ご安心下さい」
「そうですか。ありがとうございます」
会釈して。今朝救急車に乗ってやって来た時と全く同じ格好の大介が、やはり今朝にもやって来た病室へと向かった。
扉の前。そこまでは揚々とやって来た大介もさすがに少し躊躇いつつ、だが意を決して扉を叩いた。軽く二度音を鳴らしてから自分の名を告げようとして。しかし彼が声を発するよりも早く。
「どうぞ」
と。内側からのお招きが掛かった。『お邪魔します』と一声掛けてから、大介は扉を開いて中へ入った。
「どうも。本当に来てくれたんだ」
「はい、のこのこと」
「ふふっ」
冗談めかした大介の台詞に、女性は穏やかな笑みを浮かべる。他の誰でもなく自分に向けられた笑顔。それだけで大介にはこの上ない喜びが感じられた。
「そう言えば、記憶の方はどうなんですか?」
社交辞令程度の感覚で少年が尋ねると、女性は「ううん」と首を横に振る。しかし続けて。
「でも、身元は分かったの。今ちょうど出ちゃってるけど、お母さんが来たんだ」
「ああ、お母さんが……。じゃあ、名前なんかも分かったんですか?」
「うん。クミっていうみたい、私。だからこれからはそっちで呼んでくれないかな」
「いやあ、でもそれはちょっと馴れ馴れし過ぎるんじゃ。って、『これから』?」
「うん。身勝手なお願いだけど、これからも、気が向いた時だけ、たまにでいいからお話しに来て欲しいの。今の私にとっては君が一番古い付き合いのお友達だから」
確かに身勝手な申し出。第一、元々は事故の有責者と被害者の関係である。にもかかわらず。
「……分かりました、クミさん」
大介は答えた。
「本当に? ああ、言ってみてよかった」
胸を撫で下ろしつつ。クミは、少女のように輝く笑顔を見せた。
「はは」
大介は小さな罪悪感に苛まれながら、愛想笑いを浮かべた。満身創痍で、記憶まで失くしてしまっている女性からのお願いを無碍にすることは出来ない。そんな思いもあるにはあったろう。だがそれは本意に比べると言い訳程度の理由に過ぎなかったから。
「じゃあね、その、早速だけど、今からちょっとだけ時間もらえる? 話の種も少しは出来たから」
「はい、勿論。どうせ、時間は幾らでもありますから」
「やった。じゃ、どうぞ座って」
「はい、失礼します」
言って。今朝と同じように、大介はクミの寝台傍の椅子に腰を掛けた。
「ええっとね、そう、何から話そうかな。やっぱりこれかな。朝、大介君が帰ってから一度簡単に検査したんだけど、私みたいな症状は逆向性の『全生活史健忘』っていうんだって。社会的な常識は大抵覚えてるんだけど、個人的な記憶はすっぽり抜け落ちてるんだ」
「なんか、ドラマみたいな話ですね。こんな言い方、不謹慎かもしれませんけど」
「いやいや、実際その通りだと私も思うよ。ああ、そうそう。個人的な記憶と社会的な常識っていうものの境界線ってかなり曖昧なんだよね。たとえばドラマっていうのがどういうものなのか、何となく概念としては覚えてるから、今みたいな受け答えも出来たんだけど、ドラマのタイトルは一つも言えないの」
「不思議ですね」
「そうだね。でも、完全な記憶喪失ってなると、それこそ言葉も分からなくなって生まれたての赤ちゃんと同じ状態になることもあるらしいから、そうなるよりはまだ運が良かったと思うしかないかな。ああ、赤ちゃんと言えば。私ね、娘がいるみたい」
「は」
急転直下の告白に、大介は間の抜けた声を発してしまう。意識も一瞬どこかへ飛んで行ってしまいかける。しかしよくよく考えてみると。
「ああー、でも、別にいたっておかしくはないですよね」その通り。「何歳ぐらいなんですか?」
「四歳だって。それでね、今、こことは別の病院に入院してるみたいなの」
「――」
連続する告白に今度こそ大介は言葉を失う。こちらは真実予想出来ないことだった。
「あ、重い病気とかじゃないらしいの。金曜日、って言っても一昨日じゃなくて、もう一つ前の金曜日、つまり一七日ね。公園で遊んでた時、ジャングルジムから落ちて怪我しちゃったんだって。覚えてないけど、なんか、この近くに図書館があるんだって? そこの前にある公園だって。で、脚を骨折したらしいの。明日か明後日には退院出来るから、そうしたらここへも連れて来るって母さんも言ってた」
「え、あ、ああ、そうなんですか。びっくりしましたよ。でも、心配なことには変わりませんし。クミさんも早いところよくならないといけないですね」
「そうだね。しっかりしないと。病は気からって言うし」
「病とはちょっと違うと思いますけど」
怪我にしろ。記憶喪失にしろ。
「それにしても、自分の娘のことも思い出せないなんて。薄情な親だね、我ながら」
「まさか……むしろ、覚えてもいない自分の娘のことをちゃんと気にかけられるだけ立派ですよ。いや、それが当たり前なのかな」
「もしかして私、なんか悪いこと言った?」
「? どうしてですか?」
「だって今、君、ちょっと怖い顔してたから」
「いや、西日がちょっと眩しかっただけですよ」
窓に視線を向け、笑いながらそんなことを言う大介であったが、あかさまに取り繕うようでぎこちない。人間関係の記憶がほとんどまっさらなクミにすらそれは感じ取れた。
少々の問題はともあれ。二人の会話は朝よりもよほど弾んだ。
「大介君って今、何年生?」
「中学二年です」
「何かクラブとかはやってる?」
「いえ。まあ、その、あんまり入りたいクラブもなかったし。無理に入ることもないかなって思って」
「ふうん……。ま、好き好きだよね」
言葉面は素っ気なくとも、語調としては、大介に興味がないからそんなことを言っているというふうではなかった。クラブ活動についての知識はあっても記憶がないから、本意からそのような対応になるのだろうと、大介は悟った。それは彼にとってありがたいことだった。しかしクミにも一般常識としての倫理規範は辛うじて残っているらしく、西日の一件が牽制となって、彼女が大介の家庭事情を突くことはなかった。それもまた大介にとって都合が良かった。
三十分ほどが経過した頃、扉を叩く音がした。続けざまに、
「クミ、今入っても大丈夫?」
高齢らしき女性の声。
「ん? ああ、多分お母さんだ。入ってもらってもいい?」
「はい、もちろんどうぞ」
「ありがとう。どうぞ」
仕方ないことなのであろうが。母親に対して、まるで看護師か何かを招き入れるような口ぶり。扉は開かれ、紙袋を持った、見目六十歳前後の女性が中へと入って来た。クミのことよりも先に大介の姿が目に入り、女性は『あれ?』といった顔を見せた。とすぐさまクミが、説明をする。
「お母さん、ほら、この子が朝に話した子だよ」
「えっと……? あ、ああ!」気付くと同時、クミの母親は頭を下げていた。「この度は本当に娘がとんだことを……!」
姿もさることながら。裏返る寸でといった、聞くも悲痛な声。
「いえいえ! 僕は全然大丈夫ですから、ほんのちょっと擦り剥いたぐらいで。そんな事されると余計に困ります」
「でも。そう、せめて治療代は払わせて下さい。まずはお金の話っていうのも情けないけど」
「いえ、それで少しでも胸の支えが取れるなら」




