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冬の最涯  作者: 直弥
第一話「交差点」
2/19

1コマ目

 某病院の一室。寝台に横たわり眠っている一人の妙齢の女性。具体的には三十歳手前といったところ。そんな彼女の額から後頭部まで、ぐるりと包帯が一周。首は固定されていて。ギプスに覆われた右脚は天井から吊り下げられた金具の上に載せられている。分かり易い怪我人の図。服の下も、そこここに治療の跡があることだろう。寝台の傍ら、椅子があるのにそこへ座ることもせず、棒立ち状態で不安そうに女性の顔を眺めている制服姿の少年。齢は十四か、十五か。腕にはブレザーを抱えている。頬に真新しい絆創膏を貼っている他、彼には怪我らしい怪我が見当たらない。そんな彼の脇には女性の看護師も一人付いている。中年で、ヒールの高さを含めると少年よりも僅かに高い背丈の彼女は、

「あの」

 小さな声で少年に声を掛けた。

「もうすぐ授業が始まるんじゃないかしら。今日、振替日なんでしょう? うちの子も同じ学校だから知ってるのよ。彼女のことは大丈夫だから、学校へ行った方がいいんじゃない? お知り合いってわけじゃないんでしょう?」

「それは、でも」 

 壁に掛かった時計に目を見遣りながら、少年は言う。時間は九時三分。しばし逡巡し、少年は回答する。

「もう少しだけ待たせて下さい。このまま学校行っても、まともに授業なんて受けられないと思うんで」

「気持ちは分かるけど」

 看護師が次の言葉を紡ごうとした瞬間、

「っ」

 にわかに患者の口から漏れた声。少年と看護師が緊張する中、ゆっくりと患者の目蓋が開かれた。少年が戸惑っている中、看護師はすかさず患者へと歩み寄る。

「大丈夫ですか? 意識ははっりきしていますか?」

「え、あ、ええっと、はい。あの、私は」

「事故に遭ったの。覚えてる?」

 分からないと言った表情。困惑した患者は、簡潔に、

「いえ」

 と答えた。

「そうですか。では、あなたのお名前と住所。それに、ご家族かご友人の連絡先を教えていただけますか? お持ちになっていた携帯電話の方は、事故で完全に潰れてしまっていて、財布などもお持ちではなかったので、今、あなたが誰なのかも分かりかねているんです」

 看護師はあくまでも冷静に己の職務をこなそうとしているようであった。ただ彼女の右手は、正体を失いかけている少年の肩にしっかりと添えられていた。

「………………」

 長い沈黙。看護師からの問いに一つも答えることなく、患者は黙り込んでしまう。しばらくは急かすこともなく、ただ待っていた看護師であったが、遂に一分が経過しそうになると多少は焦りの表情を浮かべ出す。少年にも悪寒が過る。果してようやく口を開いた患者の言葉は、

「すみません。何も思い出せないんです……」

 誰しもの予想をそのままなぞるものであった。


 看護師は一通り事故についての説明をした後、再び患者に自分が何者か思い出したかという質問を重ねたが答えは最初と同じものであった。

「ナンバープレートから割り出すしかないですね。場合が場合だから、警察もすぐ調べてくれるでしょう。それでよろしいですか?」

「はい、お願いします」

「分かりました。では」

 患者の了解を得た件の看護師は一礼して病室を後にしようとすると、その背に

「あの」掛けられる声。「看護師さんと一緒にいた子は誰なんですか? 私の知り合いじゃあ」

「ないんですよ」

 あっさり。

「あの子は事故の目撃者で。心配して来てくれていたんですよ」

「え。でも知り合いでもないのにわざわざ……あ……っ」少年の頬に貼られていた絆創膏が思い出され、患者は声を上げる。「もしかして、あの子の怪我って」

「正直に申し上げますと、確かに事故によるものです。しかし怪我って言ってもあの子はちょっと顔を擦り剥いたぐらいで。いえ、私がどうこう決めることじゃありませんね。まだ外で待っていると思いますし、呼んで来ましょうか」

「ええっと」

 迷いを見せる。恐れているのだろう。見透かされる。

「大丈夫ですよ。あの子は文句を言おうとして待っていたわけじゃありませんから。本当に心配していたようですよ。ですからなおのこと、本当に申し訳ないと思うなら、何か一言二言話してあげるべきじゃないでしょうか」

「……そうですね。じゃあ、呼んでいただけますか?」

「ええ。ちょっと待っていて下さいね」

 言って。今度こそ看護師は病室を出る。ほとんど間を空けずに扉が再び開かれると、看護師の横に件の少年の姿。

「しばらくしたら先生を呼んで来ますからね」

 

「失礼します」

 と一声発してから、少年はぎこちない足取りで寝台へ歩み寄った。患者の女性は改めて少年の顔を見た。視線はどうしても絆創膏へと向かう。だから自然に発せられる一言目。

「ごめんなさい」

「いや、本当にちょっと擦り剥いただけなんで。僕なんかより、その、本当なんですか? 記憶喪失って」

「うん。日本語は普通に話せるし、字も分かるし、バイクの動かし方とかだって覚えてるんだけど。自分のことなんかはさっぱり」

 力なく女性が言うと、少年は気まずそうに口を噤んでしまう。

「ちょっと」堪らず、女性が言葉を紡ぐ。「君がそんなに泣きそうにならなくってもいいんじゃないかな。君、私のせいで死にかけたんだよ?」

「いやいや、あんなの完全に事故、いや事件じゃないですか。バイク、イタズラされてたって」

「だったらそれも、乗る時に気付けないといけなかったの」

 免許を持っていなくても、高校生ぐらいともなれば常識的な範疇の話。無論イタズラによるものであれば事案が一つ増えるわけで、その点において車両の所持者は被害者になろう。しかし事故そのものの責任の所在がまるごと犯人に移るわけではない。割合が変わるだけ。

「変ですよね、やっぱりそんなの。車に乗る時だって、毎回毎回タイヤの空気圧まで調べてる人がどれだけいるのかって話ですよ」

「まあね。現実的には確かに」

 千分の一、万分の一。いや、そんなにもいるのだろうか。

「でも、仕方ないんだよ。って、私がこんな言い方するのも変だね。君に怪我させちゃったことまで『仕方なかった』だなんて思ってないよ、本当に」

「いや、僕もお姉さんがそんな風に思ってるとは思ってませんから」

 互いに気の遣い合いで、却って妙な空気が流れる。

「もうちょっとだけお話しして行かない?」

「へ?」

 予想していなかった申し出に面食らい、少年は覚えず間抜けな声を発する。

「こんなこと言えた立場じゃないのは分かってるつもりだけど、心細くって。何か思い出して空想でもしようと思っても、思い出せることがないから」

「そういうことなら」

 などと。気軽に答えた少年は、寝台横の椅子に腰掛けた。とりあえずは。

「名前は、何て言うの?」

「長野です」

「下は?」

「大介です」

 そこからは本当に他愛もない話である。唯でさえ初対面で、片や記憶はなく、齢は一回りかそれ以上離れている。話すのは主に大介で、女性はただ相槌を打って、たまに至極どうでもいい質問をするぐらい。と言って、大介の話すことはと言えば彼が読んだ小説や漫画のことばかりで。大した盛り上がりもなく、ゆったりとした時間が二十分ほど流れた頃、扉を叩く音が鳴った。

「あ、はい、どうぞ」

 女性の返答から間を開けずして扉が開き、白衣を着た中年の男性医師が病室に入る。先ず彼は少年の姿を見咎めて。

「君、まだいたのか」と。やや非難がましい声で言い、言葉を続けた。「さすがにもう授業が始まってるだろう。ナースも言っていたぞ。彼女のことは心配いらないから、もう学校へ行ったらどうだい」

「すみません。そうですよね」

 ぐうの音も出ない忠告。大介は大人しく立ち上がった。露骨に態度を示すということはせずとも、内心不満を感じたまま。と。

「学校って、え、まだ、そんな時間?」驚いているのは女性。「ごめんなさい! 私てっきり、学校の帰りだとか思ってて! あれ、でも今日って確か日曜日だって、さっき看護師さんが。あ、日曜日が休みだってことは覚えてるの。じゃなくて。先生、その、私が引き止めちゃったんです!」

「お、落ち着いて下さい。動くと傷に障りますから」

 女性も慌てていたが、彼女を諌めようとする医師も少し焦っている。それで多少溜飲を下げた大介は、

「気にしないで下さい」余裕ぶった調子で言ってから。「ただ」途端に弱気な声で。「学校終わってから、またお話ししに来てもいいですか」

 そんなことを言った。

「は?」「は?」

 女性と医師は、まったく同時に同様の反応を見せた。鳩がというより、鳩に豆鉄砲を喰らわされたような顔。

「変な意味じゃないですよ、本当に。ただ、やっぱり気になりますから」

「いや、しかし君」

「いいよ」

「なっ」今度は医師ただ一人が一瞬間だけ目を丸くしたものの、すぐ冷静になって言葉を紡ぐ。「まあ、今のところ面会するだけなら問題はないようですから、あなたがいいと言うなら止めはしません。但し、ちゃんと受付で確認を取ってからにしてください。間違っても直接病室に向かうようなことをしてはいけないよ。それはたとえご家族でも当たり前のことだからね」

「はい、それは勿論。じゃあ、放課後に」

「うん。楽しみにしてる」

 嘘偽りのない笑顔でそう言われ。大介は照れながら会釈して病室を後にした。

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