4コマ目
一月一九日、日曜日。まだ夜も明け切っていない冬の早朝。目が慣れていなければ五十メートル先の視界も怪しいような暗がりの中、一人の男――森野シンジが、とあるマンションの集合ポストが設けられた玄関の影から、同マンションの駐輪場を覗き見ていた。紺の制服ではなく、ごく一般的な私服姿でそこにいる。警察官としてではなく、兄として妹の言い分を確かめることが、彼にとって最大限の譲歩。出勤時間のぎりぎりまで、彼は現場にいる覚悟だった。
――何が起きようが起きまいが、未季には後で改めて話を聞かないとな。
張り込みを開始して既に二十分以上経過していたが、出て来た住人は一人だけで、前の道を通り過ぎた人は皆無。後は全く何の変化もない。しかし退屈云々以上に彼を悩ませているものがある。コートを羽織っているとはいえ冬の早朝に屋外でじっとしていたために、シンジの身体は冷え切っていた。駐輪場の真ん前には自販機があり、ホットの缶コーヒーも買おうと思えばすぐに買える。だが万一のことを考えるとそれすら出来ないでいる。律儀を通り越したその性格は、正義感とセットになって彼が警察官を志す要因でもあったのだろう。ともあれ待つ以外に選択肢を持っていない彼の頭上で、空がようやく白み始めていた。
◇
さて。マンションの向かい、ビジネスホテルの駐車場の影に一人の少女がいた。
――まさか、本当に一人で張り込んでるなんて。
己の見通しの甘さから兄を必要以上の危険に晒してしまったことに責任を感じていた未季である。彼女は当初、警察官としての兄に頼めば、同僚の何人かを連れて張り込んでくれるものと考えていた。大人や仕事というものを甘く見過ぎていた。シンジが警察官としてではなく一人の兄として張り込みをすると言い出した時、未季は迷ったが、やはり確実にいると分かっている殺人者を放置するわけにいかないという思いが勝った。それにしても兄ばかり危険な目に遭わせていられず、居てもたってもいられなかった彼女はこんな真似を冒していたというわけである。
◇
――あと一時間何にもなかったら、さすがに帰ってもいいよな。
不審な人影が現れたのは、シンジがそんな風に考えていた矢先のことであった。マンションの中からではなく、前の道から徒歩で現れた中年の男が、こそこそと駐輪場へやって来る。
――怪しいっちゃあ怪しいけど、これだけじゃ……っておい。
覚えずシンジが心でツッこんでしまったのも無理はない。男は駐輪場で一台のバイクの前に座り込むと、ジャケットのポケットからおもむろにプラスドライバーを取り出したのだから。
シンジはそうっと、気付かれないように男と距離を縮める。本職警察官なのに忍び足で。男がキャブレターを剥き出しにしたところで背後まで詰め寄って。
「それ、僕のバイクなんですけど」
言った。途端、振り向いた男は鬼のような形相で、右手に持っていたドライバーをシンジ向かって突き立てようとする。シンジはしかしそれを紙一重で躱し、男の右腕を締め上げた。
「ぐああっ!」
悲鳴を上げる男を、シンジはぎりぎりと絞め続ける。やがて男の腕から力が抜けていき、遂にドライバーも手から離れて地に落ちた。
――カマかけも何も関係なかったな。
「話を聞きたいから、このまま警察まで来てもらうぞ」
「っ!? おお、お前、警官か!」
「そうだ」
――こうなった以上は兄としてもクソもないな。
完全に警察官と化したシンジは男を断たせると、後ろ手に腕を固定したまま歩かせる。ドライバーの回収は後回しにして。悪態を吐き続ける男をしょっ引いて行く。
◇
――ふうっ。もう大丈夫だよね、これで。
寸でのところで飛び出しそうになったのを何とか堪えた未希は、今胸をほっと撫で下ろした。
――でも、本当だったらあの人が雪のことを……。なんか、変な感じだな。怒るのもおかしい感じがするし。だけど、よかった。もう何も心配はないよね。
過去は変わった。もう雪が死ぬことはない。今日この後も、明日からも、雪に会うことが出来るのだと思うと、小躍りの一つもしたい気分になる未希は、浮足立つ自分を理性で留め、兄が完全に角を曲がってしまうまで身動きせず待っていた。ここで出て行って兄を驚かせるわけにはいかないと。
そうしてようやく兄の姿が見えなくなったところで彼女は。
「はあああっ」
詰まらせていた息を吐き出しながら、駐車場から出てきた。いつの間にか夜は完全に明け切っており、携帯電話を取り出して時間を見ると、六時十五分。
「ううっ、寒い! 帰ろう」
そうして彼女は小走りで家路を急いだ。コートの浅いポケットに携帯電話を雑に押し入れて。
午前六時二〇分、自宅の前に着いた彼女は、今すぐにでも真向いにある芳村家のインターホンを押したい気持ちに駆られていた。雪の無事を確実に確認しておきたいという当然の衝動であったが、迷った挙句、断念。出来るはずもなく、気づけばインターホンを押していた。十秒近い間があってから、
『ふぁい?』
あからさまに寝ぼけた声で返答。聞き覚えある声に、未希は本日二度目の胸を撫で下ろす。
「私、未希だよ。ちょっと心配になったから。ごめんね、雪、こんな朝早く」
『ふぁあ。ふぁいじょうふだって。ちゃんと約束通り、二度寝してたんだから』
「いや、二度寝まではお願いした憶えないけどね」
二言三言言葉を交わしているうちに、雪の口調はもうしっかりとしていたが、頭は覚醒しきっていないようで、未希が苦笑する。こんなにも愉快な苦笑はこれからもこの先も、もう二度とないことだろうなと感じながら。
「でもホントごめんね。オバさんたちにも、起こしちゃったんなら謝っといて。じゃあ、またあとでね」
『あいよー。何時ぐらいにそっち行けばいい?』
「そうだな……じゃ、九時ぐらいで」
『わかった。じゃあね』
雪の声が聴こえなくなってからもしばらく、未希はそこに突っ立っていた。新しく作り出された、自分が作り出したといっても過言ではないこの今を噛みしめていた。とはいえ。いつまでもそうしているわけにもいかない。彼女は振り返り、自分の家へと入っていった。
両親ともにまだ眠っていて、明かりの灯っていない廊下を進み、自室に辿り着いた彼女はコートとその下の上着も一枚脱ぎ捨てて、蒲団の中に潜り込んだ。今朝確実に兄の跡を着けるため、ほとんど徹夜状態だった上に、気を張りっ放しだったために疲労困憊していた彼女は、すぐ微睡の中に溶けて行った。
……。…………。……。
「未希!」
「ひゅいっ!?」
突然に耳元で名前を呼ばれ、未希は跳ね起きた。何事かと声の主を見遣れば、母と父が何とも形容しがたい表情で彼女を見ていた。
「ど、どうしたの?」
他に言いようのなかった未希が訊ねると、
「どうしたの、じゃないでしょ」間を開けず捲し立てる、彼女の母親。「今シンジから電話があったのよ。聞きたいことがあるから、後で警察署まで来てくれって! あなた一体なにやったの?」
ヒステリックな声を上げる彼女の傍らから父は、
「まあ落ちつきなさい。未希が何か悪いことやったわけじゃないって、ちゃんとシンジが言ってただろう? 俺たちはシンジの後で詳しい話を聞けばいい」冷静な口調。「とにかく一緒に警察署まで行こう。父さんたちもすぐ支度するからお前も……お前、なんで着替えてるんだ」
「え? ああ、これはちょっと、朝、雪のジョギングに付き合って、帰ってきてそのまま寝ちゃったから」
「……まあいい。十分ちょっとしたら出るからな」
「は、はあい」
相変わらず動揺しまくっている妻を宥めながら、夫は部屋を出ていく。一人残された未希は大きく嘆息した。
――ああ、びっくりした。でも、まさか警察まで行って話しさせられるなんて。どう言えばいいんだろう?
事実をありのままに話せば頭がおかしいと思われる。かといって今すぐでっち上げられるようなホラ話が通じるとも思えない。兄としてのシンジであれば信じた振りをして見逃してくれるのかもしれないが、警察相手となるとそうもいかないだろう。問題はまだまだ解決していなかったことを思い知り、未希は頭を抱える。
――とにかく、雪にはちゃんと断りの電話しとかないと。っていうか、今何時なんだろ。ええっと、携帯は。
脱ぎ散らかしたままのコートを引き寄せ、ポケットの中を探る。が。
――ない。
辺りをざっと見渡してみるも、やはり。
――ない。あ、もしかして落とした? うわあ……。
財布の次に、いや人によっては財布よりも落としてはならないもの。自分以外の個人情報も山ほど入っている携帯電話。未希の顏が、見る間に青褪めていった。
「お父さん、ちょっと出かけてきていい?」
「お前は何を言っているんだ」
当然すぎる辛辣な反応であったが、そこで引くわけにいかない未希は。
「お願い! 十分……は無理でも、十五分で戻るから!」
「バカ、情況分かって言ってるのか?」
「分かってるよ! でもこっちだって一大事なの! 絶対にすぐ戻るから!」
「わけを言え、わけを」
「携帯、落として来ちゃったみたいなの。早くしないと」
「落とした場所分かってるのか?」
「多分、大体は」
「なら早く見てきなさい。今ちょうど母さんも着替えてるところだし。こっちも、お前が戻って来たらすぐ出られるように準備しておくから」
「うん、すぐ戻るからね!」
言って。未希は飛び出して行った。
平日であればもう通勤、通学の時間帯となっていて。外には人が溢れていた。
――これで拾われてなかったら奇蹟だな。
八割方諦めてはいながらも、とりあえず捜すだけは捜してみようと、未季は朝の道のりをそのままに辿る。が。
――はあっ、やっぱりなかったなあ。
件のマンション前までやって来たところで、未希は肩を落とした。
――親切な人が、交番に届けてくれてればいいんだけど。交番……あ、警察。早く戻らなくっちゃ。
十分はもう確実に過ぎている。急がなければと思ったところで、ふと路地裏への入り口が彼女の目に留まった。
――そういえば、ここ通っていけば早かったんだっけ。
近道を思い出して、未希は迷わずその路地裏へ。小走りで駈け行っていく。何の警戒心もなく。飛び込んで。
――え。
彼女が見たのは凄惨たる光景であった。
脚から血を流し、倒れ伏している一人の青年。その傍らには、赤い血の滴るナイフを手にした男。狂気を宿した目で、何かうわごとのように呟いている。
「ひっ」
脚はガクガクと震え。歯はカチカチと。逃げ出すか、せめて大声でも出さなければと思ってはいても、どうにも体が言うことを聞かない。男がゆらりと未希を見た。いや見ていない。人形めいた男の目には何も映っていない。ただ機械的に、何かに操られているように、人間離れした跳躍をした男は、少女に向かってナイフを振り上げた。その刃に、申し訳なさそうな表情をしたベリーショートの少女が映っていた。




