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冬の最涯  作者: 直弥
第二話「ループ」
11/19

5コマ目

「広明、ご飯」

「……ん?」

 パソコンの前に座って突っ伏していた広明は、扉越しに母親から呼ばれて身を起こした。画面に映っているのは、ガソリンスタンドのバイトの募集ページ。とりあえずディスプレイの電源だけを消した広明は自室を後にした。


 高山家の夕食。親子三人でカレーライス。テレビも点けず、ろくに会話もない、ひどく静かな食事風景。真っ先に食べ終えた彼は立ち上がり、皿とコップを流し台へ運んで行った。そのままの脚で部屋を出て行こうとする彼の背に、

「広明」父からの声がかかる。「お前、またバイト探してるんだって?」

「うん」

「そんなに急いでバイクを買い替えることもないんじゃないか?」

「別に、バイク買うためにバイトしようとしてるわけじゃないよ。バイクなんか、あってもしばらくは乗れないよ」

「っ、そうか」

 押し黙る父。ますます暗澹とした空気を纏い始める部屋の中から、

「風呂入るから」

 広明は逃げ出した。


 事故の前と比べて、広明の入浴時間はずっと長くなった。かつては湯船にもろくに浸かることなく、カラスの行水もいいところであったのに、今や三十分近く入ったままでいる。しかし心はまるで寛げていなかった。のぼせかかった頃合いになってようやっと湯船から上がり、まず先に頭を洗うと、続いてナイロンのタオルで身体を洗い始める。

「つっ」

 右太腿にしっかりと残る傷痕。未だに、あまり強く擦ってしまうと痛みが走る。タオルから手で泡を掬い取り、そっと揉むようにする。真っ白になって隠れた傷痕は、シャワーで泡が流れた後には当然ながらまたはっきりと形を現した。


 風呂から上がったことを、それだけを伝えるために、広明が、気は進まないながらながらももう一度訪れたリビングダイニグで、

「あ、広明!」母親が、大声で彼に呼び掛けた。反射的に半歩後退さった広明に向かって彼女告げる。「あんたが風呂入ってる間に警察から電話があってね、捕まったんだって、あんたを刺した犯人が」

「え? ま、マジで?」

「本当だ」と父親。「もう一度詳しく話を聞きたいから、明日はお前にも警察に来て欲しいらしい。母さんと一緒に行ってきなさい」

「う、うん」

 思わぬことが会話の糸口となり、広明は複雑な心境に襲われる。今更犯人が捕まった所でその後の事故がなかったことになるわけではないし、試験だって今年はもう受けられない。だが朗報には違いない。本当にどうしようもない事ばかり続いていたところにこの知らせ。それは今の閉塞状況を打開する切っ掛けにさえなるかもしれない出来事だった。どれだけ特異で突飛であっても、彼にとって良い話題には違いないのだから。

 少しの希望が見え始めた広明の表情が綻びそうになっていたところへ、

「それにしても」父の声。「下手をしたら、お前も死んでたところだったんだよな。改めてゾッとするが」

「え、俺〝も〟?」

 父の言葉に引っ掛かり、広明が問い返すと。

「いや、だって、お前と一緒に刺されたもう一人の子は亡くなってるだろ? それはすごく可哀想だけど、お前が無事だったのは本当に良かったよ」

「え? なにそれ、初耳だけど」

「な、何言ってるのよ広明! 知らないわけないじゃない!」

 覚えず母親が声を挙げてしまったのも無理はない。当然である。自身が当事者の一人である傷害事件、もとい殺傷事件で、もう一人の被害者の存在を知らないことなどあり得るのだろうか。現場は見ていないかもしれない。先に自分が指されて失神した後、もう一人の少女が被害に遭ったとすれば。しかし、とは言えその後、事件について聞く、聞かされる機会は幾らでもある。そう、知らずにいられるわけがない。にもかかわらず。

「ちょっと待ってって! 俺、本当に……あれ?」

 ふと、広明の中に生ずる違和感。彼はまじまじと、両親の顔を見つめ、言った。

「父さんたちって、そんな顔だったっけ?」

「な」「何を!」

 ふざけた様子など全くなく、真剣な顔でそんなことを言う息子に、両親は唖然とする。犯人が捕まったどうこうという話など吹き飛んでしまうような事態を予感して。


   ◇


「〝彼女〟の記憶喪失をこういう形で移送して、歴史の歪曲を拒絶したわけね。随分と知恵と力を付けてきたじゃない、この世界も。そろそろ潮時かしらね」

 虚空に浮かんだ一人の少女がそう呟いた。

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