罪の繋がり
胸のざわつきが止まる事は無い。
どくん…どくん…一定のリズムで時を刻む自分の鼓動に耳を傾け、ザンカは自室のベッドのきわに座っていた。
見た目からはあまり想像できないが、彼は神経質な性格なのかもしれない。
室内の家具は古い物ながらも手入れされており、掃除も行き届いている。
夜間ということもあってか、静けさが際立つ、こじんまりとした部屋であった。
ザンカは、壁の一点を見つめ、まるで祈りを捧げているかのように神妙な面持ちである。
(頼む……無事に帰ってきてくれ、ヨウヒ……)
膝をつくわけでもない。ただ、ベッドに座って前方の壁の沁みを凝視している。と、ふいに視線を自分の右拳に移した。逞しい肉体に似合った大きな拳であった。
「……人殺しの手だ」
そう、ポツリと呟いた声は、普段のザンカを知る者にとっては、驚くほど弱々しいものであった。
「いや……人ではないか…」
誰に向けたものなのか、ザンカは独り言を続ける。
「――頼む。ヨウヒを守ってくれ。この小さな世界を守るために、小さな神様を守ってくれ。―――クルク」
その名を口にするのは、あの日から初めての事だった。
自ら認めた罪だ。今更恐れる事はない。それでも、懺悔したい気分だった。
「ごめんな……姉さん」
ザンカの視線が入り口へと移る。その先には、サラが立っていた。
「あなたはどれほど悔やめば気が済むの? ザンカ」
サラの声は、優しさと厳しさの両方を兼ね備えたものであった。ザンカは軽く笑みをこぼす。
「ふいに思い出しただけさ。クルクがもし生きていたらってな」
「ザンカ……」
「そう思わないか? ヨウヒに出遭ったのがクルクだったら――」
「やめなさい」
話の先を、サラはあえて遮った。ザンカは黙り込む。
「クルクがいてもいなくても、今の状況は変わらないわ。ヨウヒが選んだのは貴方よ、ザンカ。彼女は貴方を信頼してる。そうでしょ? 『神』は『使徒』を裏切らないわ、決して」
血に従え。血に抗うな。
我ら一族は、神から生まれた『使徒』なのだから。
「分かってるさ。ヨウヒは俺たちを裏切らない。だけど、俺たち『使徒』は神を裏切る」
「ザンカ!」
咎めるように、サラはきつく声を上げた。
ザンカは不思議な気分だった。なぜ、こんなことを口にしているのか。
「姉さん、本当に俺を殺したいと思った事はないのか?」
「ないわ」
サラは断言する。そして、ザンカの正面に立つと、おもむろに体を触り始めた。そして何かを探す。それでもザンカは何も感じないように、同じ言葉を繰り返し呟いていた。
「本当に?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ。本当よ」
ズボンのポケットから小さな小石を見つけ取り出すと、短く息を吐く。
それは、ザンカがヨウヒから預かった小石だった。
「本当に、もっとしっかりしなさい!」
威厳ある物言いで、サラは弟の鼻先に小石をちょいと付けた。
「――はぁ?」
朦朧とした視界が明るく、そして鮮明にザンカの目に映る。
少し怒った顔つきのサラが目の前にいたことに、ザンカは驚いて立ち上がった。
――途端、サラに両肩を押さえつけられ、半ば強引にベッドへ座らされる。
短いようで長く感じる沈黙が、その場を支配していた。その沈黙を破ったのはザンカだった。
「…………すみませんでした」
大柄な男が身を縮こまらせて謝罪している前で、サラが仁王立ちしている。
「ええ、本当に」
呆れたように、ザンカの頭を撫で付けた。彼を子ども扱いできるのはサラだけだろう。こういう時、ザンカは実感するのだった。どれだけ長い時間生きてこようと、姉と弟の差は縮まらない。いつまで経っても、ザンカはサラを追い越すことはできないのだ。
サラが小石を差し出すと、ザンカは少し嫌そうに石を受け取った。その様を見てサラが噴出し笑った。
「笑うなよ」
拗ねた子供のように俯いているザンカに、サラは優しく問うた。
「困った子ね。本当に何も感じなかったの?」
「ああ」
恥ずかしいのだろう。ザンカは目を伏せたまま、ぶっきら棒に返した。
「ヨウヒだから何も起らなかったのね。その石、一体何なのかしら」
「……姉さんは何か感じたのか?」
「あなた、本当に何も感じないの?」
同じ問いを返すサラに、ザンカは怪訝そうに眉を寄せる。サラは不思議に思った。話をしているこの今ですら、彼は手に小石を握っている。それなのに、何も感じないと言うのだ。
サラはザンカのズボンのポケットから小石を見つけ、その指に触れた瞬間感じたのだ。
身の内側から何か、嫌なものを引き出される感覚を。
ざわり……と、肌が粟立つあの感触。その嫌な感触をザンカは感じないと言う。
「それ、奇跡の石とか言ったわね」
「ああ。願いを叶える代わりに、周囲に小さな不幸が訪れるかもしれないとかなんとか」
「………嫌なものだわ、それ。何が目的なのか分からないけれど、祈る力を吸い取るのかもしれないわね。貴方はさっき、ヨウヒの事を案じていたし、そのあとからおかしくなったもの」
「確かに不思議な気分だったよ。……でも、さっき言った事は本心だよ、姉さん」
ザンカは迷いなくサラの瞳を見つめた。サラはその視線を受け入れる。
「分かってる。だからよ、ザンカ。貴方の本心を知っているから、私は惑わされなかったのね」
知っていた。どれほど時が経とうとも、弟の気持ちが晴れることはない。
ザンカは永久に自分を責め続けるであろう。世界のためではなく、姉のために同士討ちをしたのだから。
「罪は償ってるつもりだ。それでも、足りないのかもしれないな。だから、こんな石っころに飲まれてしまうんだ」
サラは否定しなかった。違うと庇えば庇うほど、彼を追い詰めてしまうから。
彼女には秘密があった。弟にも言わず、ずっと胸の奥に秘め続けた事。それを今、打ち明けるべきではないか? と、最近思い始めていた。しかし、事はサラ一人で決めていい問題ではなかった。
サラは、喉元までこみ上げた言葉を飲み込む。
何度、こうしてきたことだろう。弟の苦悩する様を目にするたび、サラは胸が締め付けられていた。
サラは、頭を垂れる弟の体を、そっと両の手に抱え込んだ。
(ごめんなさい、ザンカ、ごめんなさい……)
ザンカは何も言わなかった。姉が何か大きな悩みを抱いている事は十分わかっていたからだ。
苦しめているのは自分だと、ザンカは思っていた。
自分が奪った。神を裏切った『彼』を裁いたのは自分だと。
サラから奪った。愛する人を奪ったんだ。
姉の幸せを願っていたはずなのに――。
(ごめんな、サラ…)
胸の内だけだった。
姉を呼び捨てにするのは。