罪
宿屋を一人、ふらりと出たヨウヒは占いの館へと足を進めていた。夜道を照らす街灯が点滅して今にも闇に包まれそうだった。
湿った風が優しく髪を撫でる。耳に届くのは風の精の囁き。
「何もかも、最初から間違っていたんだな」
大人びた口調で呟く。その息が清く澄んでいたとしても、黒い瞳が濁っていた。
と、ついに街灯が消えた。路地裏から滑り出た影をヨウヒは軽く地を蹴り宙へ回避した。
「下がれ…。貴様らの相手などする気にもならんわ」
凄みのある低い声音で一喝すると、影は素早く路地裏へと身を隠した。じっとり纏わりつくような視線を全身に感じる。
「無様だな…。古の堕落者が、今更私を主にのし上げる気か? 厚かましいにもほどがあるぞ」
振り払うようにヨウヒは力強く地を蹴った。宙へと舞い上がるヨウヒへと、投げ掛けられる形なき眼差しは恨めしそうでもあり、慈悲を求めるようにも思えた。見下ろすヨウヒは、冷淡とした口調で罵るように言った。
「下がれ。三度目はない」
言い捨てると、その場を離れる。
追い掛けたくても追い掛けられない。形なき影たちは、逃れられないのだ。
「心とは…本当に、脆く儚いものだな…シュコウ」
禁を破り堕落した神の使者。その成れの果てが闇に潜む影たちだった。
同情なんかしない。彼らはその道を自ら選んだのだ。この世界を守護する神を欺き、『奴』に加担した。その罪の代償を、長きに渡り人間たちが支払っているのだから。
(――私も人の事は言えないか)
自嘲した笑みが漏れると、闇夜にも浮かび空を渡る薄雲のように、ヨウヒの姿は夜に紛れていた。
空を飛び占いの館へと向かうと、人の気配を探りながら地上へと降り立った。
明かりの消えたその場所は、小さなうめき声さえ響くほど静かで暗く、まるで自分のようだとヨウヒは思う。
「――さぁ、どうする? 私は『お前』ではないし、『お前』もまた私にはなれない。だからなのだろう? 私が庇護するものを欲するのは」
ならばいっそ。
「くれてやるさ」
手放せば何かを得られるかもしれない。ヨウヒはそれに賭けてみることにしたのだ。
あの時、占い師は確かに言った。
『願いは聞き入れられましょう』
その言葉は不確かではあったが、確信に似た何かをヨウヒに感じさせたのだ。
この館は繋がっているかもしれない。ヨウヒが望む答えをくれるところへ。
今頃宿舎では、ロマリエがザンカの足止めをしている間に、シュコウの姿は忽然と消えていることだろう。
ヨウヒがもっているものの中で、『奴』が欲しがるものであり、ヨウヒ自身差し出せるもの。それはシュコウしかなかったのだ。
「……本当に愚かだな」
その言葉は、ロマリエに対してなのか、それとも自分に対してなのか。
ヨウヒはゆっくりと歩みを進める。扉に手を当てると、深く息を吸い込み止めた。胸の鼓動を数えながら、細く息を吐く。
(シュコウに値するものを『奴』は与えてくれるはずだ――…)
何もかも一からやり直すことができるなら、迷わずそうしただろう。
道に外れたのは『奴』だったかもしれないが、そうさせたのはきっと自分だ。
懐かしいはずの古き時代の記憶は、いつも霞かかって朧げで、まるで『奴』の存在そのものを忘れようとしているようで嫌だった。
白き世界に落ちた黒い滴。流水に塗料を落とすように、穢れは清められていく。
よき時代、なんてあったのだろうか。天に向かって喚き叫んでも、自分の声が木霊するだけ。仰ぎ見ても闇夜が彼女を見下ろしている。
誰に問うこともできない。誰にも答えることもできない。すべては心次第だからと。ここまで来ても迷っている自分が信じられなかった。
簡単に切り捨てられるほど、彼とヨウヒの繋がりは脆くなかった。
互いに代用品なんていらない。そんな存在の彼を手放すことになろうとは。
出会った頃の自分は少女でもなく、彼も従者ではなかった。
指し示す光はもうない。進むべき道はただ一つ。
もう二度と、この手に戻らないかもしれない。そんな大きな決意をヨウヒはしたのだ。
「すまない、シュコウ。お前は私の『罪』だ」
遥か昔を思い出しながら、ヨウヒは扉を静かに開いた。