秘密
宿へと戻ったザンカとヨウヒを出迎えたのはサラだった。
「おかえりなさい」
玄関先で、彼女は大きな布を両手に広げるとそっとヨウヒを抱きすくめる。
冷えた体にじんわりと染みるように温もりと甘く優しい香りが伝わってきた。
黙ってヨウヒの体を拭うサラの手は傷口を癒すように感じられた。
布を体に巻きつけて部屋へと入ると、濡れ鼠状態で帰ってくることを見越しての配慮だろう。シュコウが入浴の用意をして待っていた。
シュコウは、いつもの普段着に着替えを済ませていたが、クリパスは、赤と青、そして灰色の混ざった毛織物の衣服を着せられていた。大量生産のフランネル生地だが、肌触りも良く保温性が高い。クリパスの体は無駄に肉が付いていないため、雨で冷えないようシュコウが気を配ったのだろう。足元も裸足ではなく毛糸の靴下を履いていた。
シュコウは、 ヨウヒの後ろに立つザンカを一瞥すると、何もなかったように話し出す。
「占いの館での話はロマリエに説明済みだ。お前は先に風呂に入れ。そのままじゃ風邪をひくぞ」
無表情でヨウヒは頷くと、浴室へと足を進める。
「なんだったら俺が背中流してやろうか? ヨウヒ」
ザンカの軽薄な口調に、シュコウはすかさず鋭利な眼光を放った。
「お前は自分の部屋で風呂に入れ! バカは風邪をひかんと言うが、迷信はあてにならんからな。中途半端に風邪を引いてうつされちゃ困る」
身も蓋もないシュコウの台詞に、ザンカは顔を引き攣らせた。
「ちょっとくらい労いの言葉を掛けても罰は当たんねーと思うけどなぁ」
威嚇するように腰に手を当てザンカは胸を張った。しかし、シュコウはザンカの分厚い胸板には目もくれず、彼の瞳を睨みつけている。
「……それはそうと、昼飯はまだか?」
「―――――お前さ…人の話聞いてねーだろ…」
相対するシュコウとザンカ。二人は視線を合わせることで何か訴えあっているようだったが、第三者であるクリパスには二人が単にいがみ合っているように見えていた。
「ううあーっああ!」
喧嘩はよくないとばかりに、クリパスがシュコウの足元にしがみつく。それをきっかけにザンカが動いた。
「ほれ見ろ。クリパスは誰が正しいか分ってるじゃねーか。な? お前は俺の見方だもんな」
そう言うと、ザンカは大きな身体を屈めクリパスの頭を撫でる。
そして微動だにしないシュコウへと目配せすると、半ば強引にクリパスを抱き上げた。
「シュコウなんか放っておいて俺と仲良くしようぜ。ちょうどいい運動だ。昼飯の用意をしに行くぞ」
「あぅ?!」
手足をバタつかせ拒否を示すクリパスに気も留めず、ザンカはシュコウに軽く手を振って部屋を出た。
嵐が去ったように静まり返った室内では、浴室から水が流れる音が響いている。
何気ない雑音が耳に付くほどの気だるさを、シュコウは感じた。
ヨウヒが帰って来たと同時に気配を消し、部屋と一体化している人物への不信感が募る一方で、自分がこれからしようとしていることへの罪悪感を早くも感じているのだ。
主であるヨウヒは動いた。だから、彼もまた後戻りはできないのだろう。
「王子が居ては、私と話し難いですか?」
ロマリエは、数日前に瀕死の状態で事情を語った青年とは思えないほど精悍な面持ちでシュコウを見据えている。
冷然としたものに取れる口調に、シュコウは嫌悪感を覚えた。
シュコウが何を聞きたいのか、彼はわかっているのではないだろうか。
そう思ってしまうのは、ロマリエが口許に薄く笑みを刻んでいるからだ。
「――占いの館へ赴かなかった理由はなんだ?」
訊ねても当然と思われる質問から会話を始めたシュコウだったが、ロマリエは含み笑いをして毅然たる態度で返した。
「そんなに警戒する必要はありませんよ。私と貴方との力の差は歴然だ」
シュコウが僅かに目を眇めた。
「俺の質問に答えろ…」
流れる空気が張り詰めたものへと一変する。
「………そうですね。気分が乗らなかったとでも言えば納得してもらえますか?」
シュコウが馬車道でザンカに返した言葉と同じだった。
「随分と身勝手な言い分じゃないか。お前自身が頼んだことだぞ? クリパスを守ってくれと」
「でも『奇跡の石』なんかどうでもいいですよ」
眉間に皺を寄せ、ロマリエを睥睨するシュコウが、厳しさを感じさせる低い声で言い返した。
「勘違いするなよ、ロマリエ。俺たちには俺たちの事情ってもんがある。お前の願いはヨウヒの気まぐれが成したものにすぎない。現状が気に入らないなら、クリパスを連れて即刻立ち去れ。俺たちはお前を咎めもしないし追いもしない」
シュコウは苛立ちを感じていた。なぜなら、クリパスがシュコウの傍から離れないからだ。
ヨウヒがクリパスを買うと言い出したとき、シュコウは確かに反対した。だがそれは上辺だけのものだった。
小汚い奴隷の少年ではあったが、彼こそがこれから立ち向かわなくてはならない事柄に関係していると思ったから、シュコウも承諾したのだ。でなければ断固拒否し力ずくでも止めていただろう。
この世界が、人を売り買いしなくては生きていけないそんな世界じゃなかったことをシュコウは知っていた。
だけど、眩い光に包まれた黄金の世界だったわけでもない。
それでも、浅ましい人間ばかりが集まった世界でもなかったはずだ。
ヨウヒがなぜ、ロマリエを同行させるのか。
シュコウは釈然としないまま流れる時間に逆らうこともできずに、昂ぶる気持ちを抑えてきた。
クリパスがロマリエと寝台を共にし、夜を越えたのは初日だけ。
翌日からはなぜかシュコウのベッドに入り込んでくる始末だ。
しかも食事の時も、日中時間を持て余している時も、クリパスは四六時中シュコウに纏わりつき、その行動はまるでロマリエを避けているみたいだった。
「……私一人ではまた奴隷へと逆戻りですよ――…王子の体をこれ以上痛めたくない。子供の奴隷がどのような扱いを受けるのか、貴方もご存知でしょう?」
それは現実味のある返答だったが、それだけではシュコウは納得できなかった。
「お前のその想いが本物だという確証はどこにもないし、出会って日は浅いが……お前の話の中の王子クリパスと俺たちが見るクリパスが同一人物とは思い難いのも事実だ」
「シュコウさんは私を疑っておられるのですね……無理もありません。王子は嘘をつくのがお上手ですから……でも、貴方が私に聞きたいのは別にあるのではないですか?」
(――したたかな奴め…)
シュコウの頭の中では疑念が更なる疑念を生み複雑に絡み合っていた。
「お前は一体何者だ……?」
クリパスの素性は確かに聞いた。だがロマリエ自身の事は何一つ耳にしていないのだ。
宮殿で仕えていたのは分る。罪を犯したクリパスと共に降格処分を受けたというなら側近だろう。だが、シュコウにはどうしても解せないことがあった。
「私は第三王子を守護する戦士ですよ。それ以外答えようがない。ま。証拠を出せと言われれば終わりですけどね」
「王位継承者の側近と言えど主は罪人となった。罪人の側近であるお前の嘆願を受け入れてくれるほど、この国の司法機関とやらは甘いのか?」
ロマリエは目を瞬かせた。
「――――――――参りましたね……貴方がそう考えているということは、ヨウヒさんも…と言うことですよね? だから私の願いは聞き入れられなかったのか…」
実の所、シュコウはロマリエとの話の内容をヨウヒから全く聞かされていなかった。
だが、ロマリエはシュコウが知っていると思っているようだ。シュコウはあえて否定はしないことにした。
彼の願いとは、クリパスを守って欲しいということだと分っているからだ。
「貴方の言うとおりですよ……司法機関が一兵士である私の声など聞くはずがない……だから私は国王に直訴したんです。そして私たちは密約を交わした」
ロマリエは視線を床に落とした。
何を考えているのだろうか? 自分の身の振り方か? それともシュコウに取り入る方法だろうか。
「私自身も奴隷になることで、国王は約束を下さいました。わが子が心を入れ替えれる期間を作るために少しでも長く生きると。だから、命尽きるまでに王子が心を取り戻せたならその時は必ず王位を継がせると。あれからもう二年が経ちますが――――国王はまだご存命でいらっしゃる。ですが、国王は病弱で……だから私は王子を、早く国王の元に送り届けたいのです。ご逝去された後ではなく、ご存命のうちに……そのためにも」
クリパスの舌を取り戻したいと思ったのだと、ロマリエは言ったが、シュコウは即答した。
「それは無理だな」
シュコウの反応は予測どおりだったのだろう。ロマリエは、冷静に受け止めているようだった。
「ええ……ヨウヒさんにも言われました。命を救っていただいて、厚かましい願いだったと今は理解しています。ならばせめて、王子を無事王宮にお連れする手助けだけでもお願いできませんか。シュコウさんからもヨウヒさんを説得していただけないでしょうか。私一人の力では…」
言葉を濁らせたロマリエに、シュコウは追い打ちをかけた。
「どうにもならないとは思えんな」
「なんです?」
自分の耳を疑っているようだ。ロマリエは、目を丸くしていた。
「お前たちを買い取ってから特に不審な気配は感じないし、お前が言うようにクリパスが本当に王子だとすれば必ず殺しにくるはずだろう」
「……」
「まず、それ以前に売らないだろうな。それはお前に関しても言える事だが」
「………何が言いたいんですか?」
ロマリエの薄ら笑いとも取れる微笑が消えた。
「自分を買い取ってくれる奴を待っていたんじゃないかって話だ」
――ずっと気になっていた。ヨウヒに聞きたくてもクリパスが邪魔で聞けずじまいになっている疑念。それは占いの館の一件から大きくなっていた。
「お前の所有者の名は何と言うんだ?」
ロマリエの顔色が一変する。唇を硬く閉じ、沈黙が流れた。
仮にも所有者だ。偽名だとしても知っているはずだ。
「私は、邪法を施されて意識が朦朧としていたんですよ」
知らない、とは言わなかった。シュコウの出方を待っているのだ。
「――そうか。ならば先に俺の考えを言おう」
真顔のロマリエを見据えると、シュコウは淡々と告げた。
「お前が占いの館に行かなかったのは、占い師の女がお前の所有者だったからだろ」
表情を一切変えずにロマリエは返す。
「一体何を根拠に……」
ロマリエは頭を軽く左右に振った。
「競戦場ではフードを深く被っていて顔まではっきり確認できなかったが、男か女かぐらい体格で分る。それにあの占い師は、ザンカを見て誰かと俺たちに訊ねた。おかしいだろ? 奴はどう見ても使用人だ。貴族の端くれにも見えやしない」
なのに占い師はわざわざ、
『あの者は…?』
と、訊ねた。
もしかしたら、競戦場の受付をしていたザンカを見知っているからじゃないか。
シュコウはそう思ったのだ。
「……答えろ。言わぬならその首、即刻俺が貰い受ける」
斬り殺す。ということだ。その意思を表明するため、シュコウは剣を静かに鞘から抜いた。そして、剣先をロマリエに向けると唸るように言い放つ。
「脅しかどうか、戦士ならわかるはずだ……」
シュコウの眼差しは透き通っていた。彼が本気だということはその目を見れば一目瞭然だ。
ごくり、と生唾を呑み込むとロマリエは引き攣った面持ちで答えた。
「――それは、誰のためなのですか?」
「どういう意味だ」
「言葉の通りですよ。貴方は誰のために剣を抜いているんです?」
ロマリエの意図が読めなかった。
「ご自分のためですか? それともヨウヒさんのためですか?」
シュコウは即答できなかった。
なぜ、ヨウヒのためと言えなかったのか。
心の片隅では理解していた。だが認めたくない。認められない。なぜなら、彼の主はヨウヒなのだ。
命を懸けて守ると誓った。一人にしないと誓ったはずだ。
――あの時、その瞬間……シュコウの脳裏に浮かんだ映像が次々と弾けて消えていく。
ヨウヒの顔。
ヨウヒの唇。
ヨウヒの髪に絡ませる自分の指先。
感触までも覚えているのに、シュコウは思い出せなかった。
愛したはずのヨウヒ。
世界を捨てても共にと誓った唯一無二の存在の女神。
出会った頃の彼女を思い出せない。
「……悪いが謎解きをする気はない」
シュコウの剣はその剣尖をロマリエの喉元へと狙いを定めていた。
ロマリエの目的がどうであれ、自分がする事は決まっている。
彼女を傷つけさせないこと。失わないこと。それだけだ。
ぴくりとも微動しないロマリエは、一つ嘆息すると再び微笑をその顔に刻んだ。
「――いいでしょう。お教えしましょう」
程よい緊張感が漂う室内。ゆっくりと唇が紡ぐその名は――。
「そのくらいにしておけ」
突然、話の腰を折るべく現れたヨウヒに、ロマリエは声を詰まらせる。
「お前たちの長話に付き合っていたら、この様だ。剣をおさめろ、シュコウ」
いつ浴室から出たのだろう。ヨウヒは着替えを済ませ立っていた。
頬が仄かに赤みを帯び、白い絹のシャツを着崩してほてった体の熱を少しでも発散させようと、パタパタと扇子を使いながらヨウヒは席に着いた。
そして、シュコウは冷たい表情で剣を仕舞う。
「声を掛けてくださってもよろしかったのに…」
気まずさを取り繕おうとロマリエが口を切るが、シュコウは口を噤み黙々とヨウヒの髪を拭い始めた。
水気を含んだ黒髪は艶やかで綺麗だった。
櫛をとおすたび小さな滴が床に落ちる。
髪を梳くシュコウの手付きは、いつもより荒く刺々しい。
「私に聞かれて不味い話でもしていたのか?」
どちらにともなくヨウヒは訊ねたが、二人は口を閉ざした。
「――…ふう…」
ヨウヒは煙管に火を点す。紫煙がふわりと舞い上がった。灰皿をコンコンと軽く指で叩くと、シュコウが冷めた紅茶を差し出した。
ヨウヒは、それを一気に飲み干すと一息ついたとばかりにロマリエへと話し掛けた。
「シュコウから話は聞いたんだったな」
「……はい?」
ロマリエは上擦った声を上げる。
「奇跡の石は偽物だ。だが、用心に越したことはない。一人で出歩くなよ」
内容の趣旨が理解できないながらも、体内を巡る赤い血は緊張した体とは正反対に熱く煮えたぎっていた。ロマリエの汗が肌を湿らす。
「それと、嘘を付くならもっと上手くつけ。下手すぎて張り合いがないわ。話は終わりだ」
それっきりヨウヒは何も語らなかった。
利用しているつもりが、逆に利用されている。そう思っているのは両者共にだ。
腹の探り合いは神経が疲れる。ヨウヒは紫煙に紛らせてため息を一緒にはき出した。
(もう少しだったのに…)
そう胸の内で呟いたのはロマリエだ。
(まぁ、いい。まだ時間はあるし、それに――)
ちらりとシュコウを一瞥する。
主であるヨウヒがだんまりを続けているのに、従者自ら動くとは不注意もいいところだ。素性と事情は分らなくとも、同じ戦士として、主を守護する者として、シュコウの心の内側を少し垣間見ることができた。
彼は迷っている。自分が出した決断によって成した結果に心を乱されているのだ。
忠誠心にひびが入った。それは誰のせいではなく、きっとシュコウ自身が招いたことだろうとロマリエは考えていた。
だからもう少しだった。もう少しで自分に課せられた役目が果たせると思ったのだ。 ほんのわずかな願いだったとしても、望みを叶えるためには何か犠牲を払わなくてはならない。それが微々たるものだったとしても、無から有はないのだ。
「おいっ! 早く食おうぜ」
ザンカの声に我に返る。気付けばクリパスも部屋に戻っていた。
人の出入りを感知できないほど考え込んでいたことに驚くのも束の間、こっちへ来いと、ザンカの手招きにつられてロマリエは席に付いた。シュコウは何事もなかったように席についている。その隣にはクリパスがいた。
五人分とはいえ、山積みのサンドイッチの量は圧倒されるものだった。しかしクリパスは臆することなく早速かぶりついている。美味しそうに頬張るその顔はあどけない。
見掛けによらず世話好きのザンカが、さり気なくロマリエにサンドイッチを手渡した。
「こら、ヨウヒ。好き嫌いはするなよ。ちったぁ、クリパスを見習え」
サンドイッチに挟まっているトマトを引き抜こうとしているヨウヒに、ザンカが叱責する。しかし、涼しい顔でヨウヒはトマトをシュコウの皿へと移した。
「シュコウはトマトが好物なんだ」
抜き出されたトマトを黙々と食べるシュコウは慣れているようだった。
和気藹々としている食卓は、居心地のが良いのか悪いのか。判断しかねる状況に、ロマリエは困惑していた。
ついさっきまで、堅苦しい話をしていた雰囲気は微塵もない。違和感を感じつつも、サンドイッチをかじる。トマトの酸味が自家製のハムに合って美味しかった。
――だけど、迷ってはいけない。
見失いそうになっている心の置き場所を思い出すようにロマリエは強く念じた。
彼がクリパス自身であるようにと、幾度となく願ってきた。
ほんの少し、ほんの少しでいい。優しさがあったらと。
クリパスの笑顔がロマリエを苦しめていた。




