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奇跡の石

 ヨウヒたちを乗せた馬車は、市街地の舗装された平坦な道から離れ、荒涼とした原野へと入る。起伏の激しい道だ。馬車が地面の凸凹に合わせて上下に揺れていた。

「……おい」 

 頭をぶつけそうになりながら、シュコウが言った。

「本当にこんな所に店があるのか?」

 シュコウは、跳ね上がるクリパスの肩を抱きながら、もう一方の手で結露で曇った窓を拭う。今にも崩れそうな掘っ立て小屋が建ち並んでいるのが見えた。

 降り注ぐ雨が容赦なく土砂を弾いた。

「すぐそこが貧民街だ。この雨の中うろついている奴はいないと思うが気を抜くなよ」

 それは脅しではなく警告だ。

 ザンカが先に降りて傘を差した。シュコウがクリパスを背負い馬車を降りると、御者の男がヨウヒに傘を差し出す。

「滑るから気をつけて」

 ヨウヒは雨具用のベールでさり気なく顔を隠した。

「少し歩くんだが――――――おっちゃんはここで待っててくれよ。変な奴が来たら俺の名前を出していいからな」

 御者の男が、口許を緩ませて雨合羽から顔を覗かせて頷く。

 ザンカは、クリパスが濡れないようシュコウの背後から傘を差して歩いた。すぐ後ろをヨウヒが行く。雨で視界が悪く、ヨウヒは五感を研ぎ澄ませていた。

「……」

 水飛沫の霧のせいなのか、荒地は特質な雰囲気が立ち込めている。

 数分と行った距離の先、石造りのこじんまりとした建物が雨の中ぼんやりと姿を現した。

「あれだ」

 第一声を上げたのはザンカだ。

 入り口には『バラクィヤル』と流れるような字体で書かれた看板が取り付けられていていた。

 黒味が濃い灰色の四角い建物で正面には小窓が二つあるが、室内の明かりは見えない。 小窓の間にある木製の扉は重圧感を感じさせ、黒金のドアノブが一層怪しさを醸し出していた。

 シュコウが看板の手前で足を止めた。ヨウヒがザンカの隣へと足を進める。

「お前も一緒に来い」

「――――やっぱりか……」

 少し戸惑いを見せるザンカだったが、ヨウヒは鼻で笑うと、簡潔に指示を出した。

「そのなりで何を言う。お前は使用人らしく最後に入って来い」

 ヨウヒを先頭に、シュコウとザンカが歩き玄関口で足を止めた。

 ヨウヒは、肩から垂れ下がったベールがずれないように、内側から裾を握りしめている。ベールの裾から滴り落ちる滴で泥が跳ねていたが、黒いブーツやドレスは濡れていなかった。

 ヨウヒの手が扉へと伸びる。その時だ。室内から若い女性の声が聞こえた。

「どうぞ、お入りください」

「――」

 ノックする前に掛けられた声に、ザンカとクリパスは顔を見合わせる。

 ヨウヒは背後を振り返り、シュコウと軽く目を合わせた。

 シュコウが頷いたのを合図に、ヨウヒはわざと躊躇いがちに扉を開く。

「失礼します……」

 扉の軋む音がやけに耳に付いた。

 上り口へと足を踏み入れた瞬間、ヨウヒの足元に淡い光が灯り室内を照らした。

 玄関の正面には複数のランタンが左右均一に床に置かれ、まるで道標のように並んでいる。灯りは優しく温かいものだったが、なぜだろう。怪しさをより一層深く醸し出しているように思えてならない。

 淡い光の道標の先には長方形のテーブルが置かれ、占い師と向き合うように客用の椅子が二脚用意されていた。

 卓上にあるのは手の平サイズの水晶玉が一つと、両サイドの隅にある三又の蝋燭立て。細長い蝋燭の炎は小さくも強く燃えている。

 テーブルの向かいに坐す占い師は、頭から黒いフードを被り両肘をついていた。その手の中に包み込んでいる水晶玉で、一体何を見るのか。

 ――それは未来か? それとも過去なのか?

 背後の壁面に映った占い師の影は、歪で幻妖なものだった。

「……このような日にお越しになられるとは、よほどの事とお見受け致します。どうぞ、こちらへ……」

 硝子に響く透き通った声音であった。

 ヨウヒは左側の椅子を選んで座ったが、シュコウはクリパスを背負ったままヨウヒの後ろに立ち、ザンカは使用人らしく数歩離れた位置から見守っていた。

 占い師の女性は、特別美人でもないごく普通の三十代半ばの女性に見えた。

 癖のない金髪は、肩より少し下で切りそろえられてい清潔感を感じられるが、瞳の色が左右で異なった。左は青、右は琥珀色だ。よく見れば黒いフードではなく、黒みを帯びた濃い紅色のローブを身に着けている。薄暗い室内で浮き立つ肌の白さは、青みを帯びたものだった。血色をよく見せようとしてなのか、占い師の唇は真紅の口紅を差していた。

「まず。占いを始める前に、当店のご説明をさせて頂きます……」

 ヨウヒはベールの中から小さく頷き返した。

「当店は占星術を用いてお客様の願いを叶えるお手伝いをさせて頂いていおります。ここで得た情報は一切外部へ洩らさぬとお誓い申し上げましょう。ゆえに、お客様も同様の誓いを立てて頂きたい。よろしいですか?」

 ありきたりの説明にヨウヒたちは神妙な面持ちで首肯する。

 シュコウが返事を返した。

「はい、もちろんです」

「では、ご用件をお伺いいたしましょう」

 シュコウは、長兄らしい落ち着いた態度で述べた。

「弟の病を治す方法の手掛かりが欲しくてここに来ました。ご覧の通り、弟は自分で歩くこともままならない状態なのです。国中の名医に手当たり次第診ていただいたのですが……原因不明の奇病だと言われて…」

 占い師は、弟と呼ばれたクリパスへと視線を滑らせる。

 クリパスはシュコウの肩越しにおずおずと顔を覗かせ、呻くような声を発した。

「う…ああ…」

 すると、占い師の目が大きく見開かれ、その面持ちに陰影を刻み驚愕する。

「なんと――…!」

 小さく囁くように呟いた言葉を、ヨウヒは聞き逃さなかった。だが、占い師の女はヨウヒの存在を忘れているようだ。彼女の意識は、シュコウとクリパスに縫い付けられていた。

 涙を堪える振りをするシュコウは、弟想いの兄役を忠実に演じていると言っても過言ではなかった。

「弟の体はどんどん衰弱していくばかりで……このままでは――」

 シュコウは切願の念を込めて、搾り出すように声を震わせる。

「奇跡の石というものが手に入ると噂で聞きました。その石があれば弟は元の体に戻れるのではないかと…」

 シュコウは、苦痛に歪ませた顔を伏せ占い師の反応を待つ。

 ――何と芸達者なのか。

 彼らを見守るザンカは、口許が緩むのを必死で堪えていた。

 今ここで脇腹を小突かれたら噴出すこと間違いなしだ。

 ザンカは、にやける顔を下げてぷるぷると肩を震わせている。

 すると、ふいに、占い師の興味がザンカへと移った。

「――あの者は?」

 シュコウが占い師の視線を辿り、ザンカを見ると胸の内で舌打ちした。

 体格の良さを強調するには十分すぎるシャツの張り具合。シュコウが用意したつなぎの服ですら、ザンカの肉体美を隠しきれていない。

「彼は―――…長年我が家に仕えている使用人です。実は、この館の噂を聞いて私たちに教えてくれたのも彼なんです」

 予定通りの問答だ。狼狽えることなくシュコウは答えた。

「以前の私なら……その…、奇跡の石などという怪しげな物の存在を認めることはできなかったでしょう。ですが今は違います。弟が奇病にかかって早二年――――このままでは、弟が不憫で……不憫で――」 

 最後は言葉を濁しシュコウは再び顔を伏せた。

 シュコウの迫真の演技が、ザンカの笑いを増長させる。もう噴出す寸前だった。

「ぐ……ぼぼ………ぼぼぼっちゃんを……助けてくださいまし…」

 ザンカの震える声が嗚咽を堪えているように聞こえないこともない。

「――」

 占い師はザンカからシュコウへと視線を流した。

 ――真偽を問うのは自分の仕事ではない。

 そう言っているようにヨウヒには見えた。

「私の力がお役に立てればよいのですが…」

 占い師の女は嘲笑にも取れる笑みを唇で象る。

「では早速占いを始めます」

 暗雲が光を遮るように、室内を淡く照らす蝋燭の灯が薄く揺れた。

 占い師の細い手指が水晶玉を撫でるように動くと、何やら意味不明の呪文をブツブツと呟いた。

 体に纏わりつくような湿った空気が漂う室内で、ヨウヒたちは占いが終わるのを待った。

 ――数分後。

 占い師の手がゆっくり下ろされると、予想通りの答えが返ってきた。

「……残念ですが――弟様のお命はもってひと月でしょう」

 悲哀を滲ませた返答に、絶望の色を濃くシュコウは言い募った。

「そ…そんな――! 何か手立てを…! どんなことでもいい。何か望みをお与えください。何を犠牲にしても構いません。弟が助かるのならっ!」

 ヨウヒは水晶玉をじっと見据えている。その凝視に気付いた占い師は、素早く布を被せた。そして、ふ…っと息を抜く。

「わかりました。ではこれを…」

 差し出されたのは、紛れもなく道端に転がっている小石だった。

「これはもしや――」

 訝る彼らに占い師は続けた。

「これが噂になっている奇跡の石です。ただ持っているだけで幸福を呼び寄せる効果があります。これを毎日握りしめ、弟様の命を永らえるように念じてください。そうすれば、願いは聞き入れられましょう」

 ぴくりとヨウヒの頬が動く。

「ですが、願いを叶えるためには代償が必要になるかもしれません。お身内の方、もしくは周囲の方々にほんの少し不幸が訪れたとしても、それは弟様の体を癒すために必要不可欠なことなのです。それを了承の上、奇跡の石をお持ち帰り下さい」

 奇跡の石となる小石からは何も感じなかったが、占い師はさりげなく宣告していた。

 無から有はない。何かしらの要素がいると。

 願いを叶えるために犠牲が必要だと断言しているわけではないが、インチキ占い師であることは一目瞭然だった。眼前の女性は何の力も持たない徒人なのだ。

 占い師自体からは何の魔力も感じられない。だが、ヨウヒには気になることがあった。

 色違いの瞳に、店の名前。そしてもう一つ。

 ヨウヒはゆっくりと振り返ると、シュコウと目を合わせる。

 ――悩む必要はない。前へ進むしか道はないのだから。

 シュコウは深く頷き返し、そしてヨウヒは小石を手した。

「…ありがとうございます」

 占い師の温もりがわずかに残る小石を懐に仕舞うと、頭を深々と下げ礼を述べた。

「いいえ。私は皆様に幸せになって頂きたいだけ。礼など言う必要はありません」

 ヨウヒは立ち上がると、わざとベールを外し顔を曝け出した。

「!」

 占い師の唇が僅かに震えているのは目の錯覚だろうか。

 ヨウヒは無表情に首を傾げると問い掛ける。

「どうかしましたか?」

 我に返ったように、占い師の女は動揺の色を隠せずに答えた。

「え……いえ……珍しいと思いまして――その…」 

「ああ――この黒髪ですか?」

 ヨウヒの指に毛先が絡む。

「え、ええ…」

 当惑する占い師の女性の顔を、覗きこむようにヨウヒは身を乗り出した。

「貴女の瞳も珍しいですよ」

 にっこりと微笑みヨウヒは銅貨を数枚テーブルに置いた。

 ザンカが入り口のドアを開き、シュコウがクリパスと共に外に出る。

 激しい雨が雷を呼び起こした。

 大気を裂くように弾く音を発するのは稲光だ。

 ヨウヒの影が室内へと伸びるように落ちると、少女は斜交いに占い師の女を一瞥した。

「……礼を言います。ありがとう」

 扉が軋む音すらも雷鳴に掻き消されるなか、わざとヨウヒが呟いた。

 重い扉がゆっくりと閉じられていく。それはまるで、漠然とした意識と額を伝う冷たい汗が彼女の心境を示していた。

 占い師の視線を背中に感じながら、彼らは雨の中へと身を投じる。

 完全に扉が閉じられた時、占い師の女は脱力感に見舞われて深い息を吐いた。

「……ほん、とうに」

 発する声は掠れていた。

「……て、こられたのだわ………………信じられない……本当に降りて――――」

 意味深な言葉が、彼女の瞳を怪しく光らせた。だけど、


 ――琥珀色の瞳に宿るものを、あの少女は見抜いたかもしれない。


 逸る気持ちとそっと静め、占い師の女が席を立った。

「早急に手を打たなくては…………」

 






『約束は違えるためにあるのではない』


 揺れる馬車道。

 降り注ぐ雨の槍は少しずつ数を減らしていた。

 明朝には雨足は遠退くだろうと、思われたとき、暗雲を吹き消すような風音が遠くで聞こえた。それでも散らし切れないのは抑揚した積乱雲だ。

 威圧し存在感を露にする膨らんだ雲の隙間には、雷光をちりりと鎮めている。

 それはまるで解き放つ時を待ち詫びて、溜め込んだ力を抑えきれずにいるようだった。

 ヨウヒは心のわだかまりに似た小石を胸に抱き、声を詰まらせて泣く子供のように俯いていた。

(――私が躓いたのただの屑石か?) 

 ヨウヒは自問していた。

(『アイツ』がいらないと言って捨てたもの。捨てようとしているものは本当に必要のないものなのか?)

 自答するには情報が少なすぎて、質問だけがいつまでも残されている。

 奪われたものが大きいのか、それとも小さいのか。

 瞼を上げるとクリパスの懸念している顔が映った。

 奴隷へと成り果てた一国の王子。

 もはや王位継承者としての威厳は微塵もない、だけど。

「…しばらく様子を見よう…」

 ぽつりと呟いたヨウヒの声は、消えそうに小さくひ弱なものだった。しかし、伏せがちの瞳には強い決意が秘められていることに、シュコウは気付いていた。

 複雑な思いを胸にシュコウは短く息をはく。

(――見捨てたのか、見捨てられたのか……)

 シュコウの脳裏に描かれたのは、彼女と唯一無二の存在だった者。霞む面影がヨウヒと重なって映る。

 シュコウは苦虫を噛み砕いたように顔をしかめると、曇る硝子窓の一点を見つめた。

 涙のように垂れる水滴を、シュコウはあえて拳で拭う。

 悲嘆に暮れる日々はとうに終えたはずだった。どれだけ哭声を上げようとも、届きはしないとようやく認識できたのだから動いたはずだ。だから『ここへ』来た。

 ヨウヒが何を感じ、何を決意し、何を成そうとも。

 自分自身を見失わないために、シュコウは彼女の傍に居続けることを選んだのだ。

 失くしたものは大きかっただろうか。

 残されたものは小さかっただろうか。

 耳を澄ませば聞こえる声が、彼を誘惑し続けていた。

『こっちにおいで、こっちにおいで』

 その声は誰のものだったのか。シュコウは思い出せなかった。

「――――――――――なんだよ? 随分暗いな」

 沈鬱な雰囲気を打ち破るように口を切ったのはザンカの一声だった。

 ヨウヒの隣で踏ん反り返っている、その飄々とした態度が彼らしい。しかし、狭い車内が余計狭く感じられるのも彼のおかげだ。

「明日には雨も止むだろう」

 返したのはヨウヒだったが、ザンカは気だるそうに大袈裟な嘆息をついた。

「そういう意味じゃねーよ。つうか…ロマリエがいないから聞くけどさ。あんたらの目的って一体何なんだ? 事と次第によっちゃ、俺も協力できないこともないかもよ?」

 向かいに座するシュコウが露骨に嫌悪感を表した。

 クリパスは目をぱちくりさせて動揺の色を隠せない。

 無理もなかった。ザンカはロマリエがいないから、と言ったのだ。

「………ぷっ」

 思わずヨウヒが噴出した。

 ザンカが片眉を上げて怪訝そうに睨む。

「なんだよ」  

「なに……ずいぶんと大層な言いをすると思ってな。本音は気になって仕方ないと言ったところじゃないのか?」

 不明な点が多ければ多いほど面白い。だが、興味半分にしては簡単に深入りしてくる男だと、ヨウヒは思っていた。

 彼女にとって、シュコウがロマリエの事をどう思っていようと問題ではない。

 だが、ザンカは率直な男だ。

 クリパスはともかく、ロマリエに関しては最初から不信感を露わにしていたのを、ヨウヒも気付いていた。 

(――ということは、腹の探り合いをしている事も承知の上か…?)

 侮れない奴だ。隆起した胸の前で逞しい腕を組む様から、喧嘩負け知らずといった事が伺える。

 だけど、なぜか、ヨウヒは胸の痞えが少し軽くなった気がした。

 不思議な男だと最初から思ってた。

 馴れ馴れしいというか、人の間にスッと入ってくる………そうだ、まるで風のように。

(とうとう、焼きが回ったのか?)

 ヨウヒはさも面白げに笑うと、あえて冗談じみた言い方を選んだ。

「人情厚くには見えんがなぁ」

 ザンカは不貞腐れたように口を尖らす。

「人相だけで人の良し悪しはわかんねーぜ。まぁ実際、競戦の受付なんかしてたら悪人に思われても仕方ないけどな。あの仕事は小銭を稼ぐには丁度よかったんだ。姉貴にばかり頼っていられねーしさ。かといって退屈でな」

「お前なら自分の体を糧に稼ぐ方法はあるだろうに」

 嫌味ではなく、正直な気持ちだった。

 見掛けからは想像できないが、ザンカは非常に細やかな神経をしている。沈鬱な空気を軽くしたのも、彼なりの配慮だろう。

 言葉使いや身の振る舞いは、お世辞にも良いとは言えないが、視野も広いし物事を考察する力も十分ある。自制心も携えられているし、行状もシュコウが毛嫌いするほど悪くないとヨウヒは思っていた。

「まぁな。ここいらで俺の相手になる奴なんかいねーよ。戦士としての訓練校も卒業してるし、宮使いを続けていてもよかったんだが性に合わなくってな。領地争いなんざ、俺たち国民にはどうでもいいんだよ。戦場で勇者になっても家に戻れば単なる人殺しだからな」

 血に染まる手は懺悔には程遠く、例え全身を血の海に沈めてもきっと、自分を戒めてくれる悪夢なんかない。そう感じたから、ザンカは退屈な毎日を送ることを選んだのだ。

「戦場へと出れば持て余す力を発散できる。でもそれだけだ。何もない。何も残らない」

 ザンカは、驚嘆するシュコウの隣にいるクリパスへ向けて、物腰柔らかい笑顔を作った。

「二年ほどだよ。特待生で訓練校を出たからな。お礼奉公ってやつさ」

 過ぎたことだと思い出を語るザンカの話を区切るように、ヨウヒはあえて口を挟んだ。

「興味深い話だが、どうやら宿に着いたようだ」

 御者が戸を開くと生温い風が車内に吹き込んだ。

 雨は少し和らいでいたためか、ヨウヒはベールを御者の男へと突き出すと、傘も差さずに馬車を降りた。シュコウとクリパスはザンカの差した傘の下、濡れることなく宿屋へと入るが、ヨウヒは宙を仰いだ状態でしばらく雨水を浴びていた。

「……おい。お譲ちゃんびしょ濡れだぜ。いいのかよ?」

 シュコウがヨウヒを一瞥する。

「――濡れたい気分なんだろ。後で部屋へ連れて来てくれ。一人にするとどこにほっつきに行くか分ったもんじゃないからな」

「お、おい」

 呆気にとられるザンカを残し、シュコウはクリパスを背負って淡々と階段を昇り始めた。

「マジかよ。俺に子守をしろってのか………」

 御者の男からヨウヒのベールを手渡されたザンカは、ぽりぽりと軽く頭を掻いた。

 ザンカが傘を差しヨウヒへ近付く。彼女はザンカが来るのを待っているようだったが、ベールを差し出すと、それを無視して歩き始めた。呆気にとられたザンカが慌てて追いかけるが、

「お、おいっ 濡れるだろ! 待てよ、ヨウ――――……」

 振り返ったヨウヒの顔を見て、唖然とする。

 黒髪は雨水を含みずっしりと重みを感じるほど長く垂れていた。

 頬に張り付く髪を指で掬い片耳にかける仕草は十四歳の少女には見えない。

 初めて出会った時から大人びた少女だと思っていた。だけど、本当にそれだけだろうか?

「ちょっと散歩に出掛けるだけだ」

「散歩って……この雨の中どこに行くんだよ」

「どこにも行かない。ただ歩くだけだ。お前も来るのだろう?」

「何で俺が――」

 しかめっ面をするザンカに、ヨウヒは妖艶な笑みを刻んだ。

「シュコウに頼まれたのではないのか?」

「…………しかたねーなぁ」

 そう言うと、ザンカは広げた傘を折りたたむ。ヨウヒが不思議そうに首を傾けた。

「お前まで濡れることはないだろう?」

「いいんだよ。俺も濡れたい気分だし。風邪を引く時は一緒に引こうぜ。仲良しこよしってやつだ」

「――――お前は本当に面白い奴だな」

 鉄臭い雨水。水溜りを避けることなくヨウヒは突き進む。

 当てのない旅路を行くように、ただひたすら街路を歩いた。

 その足が、どれだけ土砂で汚れても、肩に掛かる髪がどれほど重くても、彼女は立ち止まれないと知っているようだった。

 露店街は暴雨のため、軒並みそろえて閉まっている。

 普段人通りの多い商店街は、雨が余計なものを運んでこないように、ひっそりと息を潜めていた。正午に差し掛かるというのに、人っ子一人いない。

 辿り着いた無人の中央広場で、ヨウヒとザンカが立ち並んだ。

「どういうつもりだ?」

 ザンカの問いを黙殺し、ヨウヒは周囲を見渡した。

「こんな雨の中、市場なんかやってねぇ……ぞ……?」

 どくん…と、ザンカの鼓動が高鳴った。

 ヨウヒの手が、逞しい肉体へと伸びていたからだ。

「なんだよ…?」

 使用人設定のため繋ぎ服であるが、雨で濡れて中のシャツは肌に密着して布越しに浮き彫りになっている筋肉は美しい。それに見惚れたのか、ヨウヒは指をザンカの上腕部へと伸ばし筋をなぞった。

 ザンカは、背筋に感じた悪寒を隠すように大袈裟に身を震わせた。まるで犬が水を切るようにだ。

「やめろって。ガキが一丁前に俺を誘惑するつもりか?」

 ザンカは怯まず無理に笑みを浮かべた。その様を見てか見ずか、ヨウヒがさらりと続ける。

「そうとも言える。誰の目にも触れず、誰の耳にも届かず、お前と話をしようと思ったんだ。悪く思わないでくれ。こう見えても私は恥かしがりやでね…」

 高揚感が沸き上がる。無意識に握られた両の拳。ザンカは平常心を保とうとしていた。

「柄にもないこと言うと舌噛むぜ?」

「…そうだな……舌を噛むか―――――ならばお前の舌ごと噛み切ってくれる」

 言い終わるとヨウヒの体が宙に浮いた。

「はは……飛べるとは恐れ入った。さすが魔道師様だな」

 二人の視線が同じ高さになると、ヨウヒは伸ばした小さな手をザンカの喉元へと滑らせた。

「おぉ…っと…」

 条件反射で一歩後退するザンカを、黒い瞳が嘲笑った。

 背筋を伝うのは雨水のせいで体が冷えたのだろうか?

 ほんの一瞬だが、ヨウヒから殺気を感じたのだ。

「さほど驚いているようには見えんな。私と同様の者を見知っているのか?」

 ヨウヒがゆっくりと、息が触れる距離まで顔を近づける。

「……どういうことだかさっぱりわかんねーぞ。自慢じゃねーが頭の方はちと疎いんだよ」

「ふふ。二人きりで話をしたかったのはお前の方だろう? 私は最初からお前に目をつけていたよ。競戦の受付で座っている姿を見た時からな」

 ザンカの目が大きく開かれた。そして照れ笑いをする。

「まいったなぁ。俺ってそんなに男前かな」

 宿屋の名はソーテール。

 救済者という意味だった。奴隷戦士であったロマリエの所有者の名は――。

 ヨウヒは口許に笑みを絶やさず返す。

「――本当に大した男だ。お前は私を何者なのかも、おおよそ見当ついているんじゃないか? 『アザの称号』を持つ者よ」

 時間はまだあるはずだ。

 無限にとまではいかないが、手持ちの駒を揃えるだけの時間は用意されている。

 永く、息をするのも億劫だと感じることも面倒なくらい、永い時間を生きてきた。だがそれは、ヨウヒだけではなかった。

「俺がロマリエを知っているのは兵士の経験があるからだ。だけどクリパスの事は半信半疑だった。王子が街中で奴隷になっているなんて噂話は欠片も流れてないからな」

 ヨウヒは首を傾げると音もなく後退し、器用に膝を組んで宙に浮いている。

 その姿はまるで――……ザンカの喉がゴクリと鳴った。

「彼らの素性をなぜ知っている? 私は話をした覚えはないぞ、ザンカ?」

 ザンカはぬれた髪をがしがしと掻くと、

「ほんと、まいったなぁ……こりゃあ、うっかりってやつだ。完璧にとはいかねーが、気配は消していたつもりだけどな。さすがヨウヒ様、とでも言おうか?」

 ザンカは肩をすくめて照れ笑いをしたが、ヨウヒは誤魔化されない。

「お前は待っていたんじゃないか? ロマリエを買い取ろうとする奴を」

 ここまできて自分の失態を指摘される羽目になろうとは思いもしなかったザンカは、諦めてため息をついた。

「まあね。競戦場でロマリエを見た時は正直驚いたよ。王子直属の側近だった男が奴隷とはね。それと同時に不可解だった。アイツの所有者の存在がな」

「…どういうことだ?」

 ヨウヒの瞳が真剣さを増した。

「固定じゃなかったんだよ」

 奴隷の持ち主がころころと変わるのはいつものことだ。だが、ロマリエは違うとザンカは言う。

「持ち主の名前は同じなのに男だったり女だったり。いくら奴隷でもあれだけの凄腕だ。手放するのは惜しいと普通なら思うぜ。だからあんたが買いたいと申し出たとき思ったんだよ。競戦に参加し続けたのはあんたを待ってたんじゃないかってな」

「大した洞察力だが、なぜ私だと思う?」

「あんたの正体を知っているからと言ったら納得するかい?」

 質問に質問で返したザンカに、ヨウヒは高笑いをした。

「ははっ。人の心は誰にも計り知れないものだ。例え神であろうともな!」

 その瞬間、ザンカは確信に近いものを得た気がした。

 宿屋に案内した時にヨウヒが問うた言葉が思い浮かぶ。

『――可笑しいとは思わんか? 魔法使いが神の使者であるならば、魔道師は悪魔の使者となる。だが、いったい誰が神と悪魔を区別したんだ?』   

 自分はこう答えたはずだ。

 ――悪魔は人に禍をもたらす象徴で、神様とは別物だと。

 ヨウヒの言葉には何らかしらの意味が含まれている。

 ――神と悪魔。

「お前が悪なら俺も悪だな、ヨウヒ」

 真実の鍵を一つ手に入れたとザンカは確信した。

 腐りかけの一国で、彼女は何をしようとしているのか。それはまだわからないけれど、高揚する気持ちを抑えられずにザンカは膝をついた。

 服従の意を示すその姿を、ヨウヒは冷ややかな目で見下ろす。

「…やめろ。私は崇敬を受けるに値しない者だ…」

 地上へと自ら降りたのか、それとも堕ちたのか。

 反逆の汚名。人間を監察し、見守る役目を持つ『救済者』たち。

 彼らはまさしく神の使者だった。だけど、彼らは神の住まう天上界を捨て地上で生きることを選んだ。そんな彼らを戒めるために堕天使と呼んだのは、もはや遥か昔の消えた過去のことだ。

 だが、彼らは人との契りを繰り返しながらも確実に血脈を受け継いできた。

 それは、いつか訪れるであろう世界の危機を見通してのことかもしれない。

「話に聞いてた神様ってやつとは、随分差があるけどなぁ」

 仰ぎ見るザンカの眼は、誠実にヨウヒにだけ向けられているものだ。

 ヨウヒは薄く笑うと項垂れるように地へと降り立った。

「神…か。何を神として何を悪とする? 私は数多ある神の眷属の一人にすぎないんだ」

 与えられた小さな世界を守るので精一杯の神様。

 弱い心はいとも簡単に壊れてしまうほどに、自分の存在自体に不審を抱いていた。

「だけど、この世界ではあんたが一番偉いんだろ?」

 どこからどこまで本気で言っているのか。ザンカは佇立してヨウヒを見下ろした。

 そして無邪気な笑顔を作ると、ヨウヒの額を指で弾く。

「…?」

「小さな神様か。笑える話だが、確かに競戦場でのあんたの姿は悪鬼に近いものだったよ。だけど、この国にいる神様はもっと残虐だ。あんたじゃねーよ」

 罪を咎め罰を与える神々を、いつしか人間は悪魔と呼ぶようになった。

 いつからだっただろうか。

 世界の均衡が崩れ出したのは――。



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