正邪の森
時を越えて存在するのは、空間だけだ。
あるべきものがそこにはなく、なくてもいいものがそこに存在している。
望むものを与えられないからと、拗ねて他者を傷つける者がいれば、大事な何かを損得なしに他者に与える者もいる。
「―――とまぁ、人とは不思議な生き物なわけよ。クリパスなら分かってくれるよな?」
クリパスはザンカの横で何度も頷き返していた。
ザンカは、自分の相手を快く受けてくれている少年の頭をガシガシと撫でる。大きな手の平に頭部を包まれて、クリパスが肩を竦めた。
迎いの席に座るロマリエは、窓の外を眺めている。その隣でヨウヒが居眠りをしていた。
彼らが乗っている馬車は、前回占いの館への道中に使った馬車ではなく、一回りは大きいものだった。
車内も広く窮屈さを感じさせるものではない。しかし、御者はなかった。
馬車の側面を撫でるように、木立の枝が伸びている。走る道は長く険しいものではなく、平坦な舗装されたものではない。だがそこには道があるのだろう。馬車馬は方向を見失うことなく、薄暗い森林の中を疾走していた。
町が目覚める前の時刻にザンカはソーテールの看板を取り外した。
そして、隣の小売り店へと向かった。そこは、老夫婦で経営している雑貨店だが、以前彼らの息子が飲食店を開きたいと言っていたのをザンカは思い出したのだ。
早朝にも関わらず、快く扉を開けてくれたのは、店主である初老の男性であった。
ザンカが宿屋の権利を譲りたいと申し出ると、当然訳を聞いた。なぜなら、宿屋は姉のサラが経営していたからだ。ザンカがそのサラが昨夜急死したと告げると、店主は驚きのあまり失神した。
ザンカは、意識が朦朧とする店主の手に権利書を握らせて扉を閉め、馬車に乗り込んだのだった。
「――――姉さんは、本当にみんなに愛されてたんだよ」
クリパスがザンカの顔を見つめる。ザンカの目にはもう、涙は浮かんでいなかった。
「あ、あの――」
戸惑いながらロマリエが声を出した。
「なんだ?」
ザンカが答えた。ヨウヒは目を閉じたままだ。ロマリエもまた窓の外から目を離せずにいる。
「この道は……その、道と言っていいのか分かりませんが。一体どこへ続いているのですか? そもそも、ヘルモンって……」
「ヘルモンは使徒の町だ。場所は―――聖山の……いや、シヴァエの裏になるかな」
「裏!? 意味がわかりませんが」
ロマリエが勢いよく振り返る。
「そういうものだよ」
「はぁ……」
誤魔化されているわけではないと、ロマリエは感じていた。
ザンカが言うように、本当にそういうものなのだろう。彼ら人外の者の在り方が、ただ人である自分に分かるわけがない。ロマリエは外の景色を楽しむことにした。
森はどこまでも続いているように思えてならなかった。
心に巣食う闇が畏怖の念を感じさせる。それは、人に関わらずだ。
ヨウヒは目を閉じていた。馬車に乗り込んでからずっとだ。
何も聞かず、何も言わない。そして、何も見えないようで、クリパスはザンカの話を聞くことで気にしないようにしていた。
――いや、違う。そうじゃない。
彼の話を聞くことで、自分の罪が洗い流されていると思いたいだけだった。
クリパスはザンカの手を握った。
「どう、した? んん?」
困惑の色を表情に浮かべるザンカ。クリパスは首を振る。
「大丈夫だ。お前は俺が守るからな」
サラを守れなかった代わりに?
―――違うよ! 違う!
「ううう、おおうあがあッ」
「なんだ……どうした?」
狼狽するザンカ。救いを求めるようにロマリエへと視線を送った。
――お願い! 僕を殺してッ サラを死なせたのは僕だ! だからッだからッ
クリパスがザンカの胸元を掴んで激しく揺さぶる。
「お、おい……」
ロマリエが窓からクリパスへと視線を移すと、興奮しているクリパスを見て驚く。
「急にどうしたんです?!」
「何とかしてくれよ」
ロマリエがクリパスの腕を掴んだ。途端、クリパスが絶叫した。
「アアアアアアアアアアアアアアアッ!!!」
「王子!?」
「おいっ 一体何なんだッ!!」
気が狂ったように叫ぶクリパス。ザンカとロマリエはあたふたとクリパスを宥めようとしていた。
「落ち着け、大丈夫だ。クリパス。俺が守るから。何も心配はいらない」
ザンカがクリパスの肩を掴むと、少年の叫び声が収まった。
「……そうだ。落ちつけ……誰も、お前を気付けたりしない。そうだ。深呼吸しよう。息を吸え」
クリパスはザンカの声に促されて、鼻から深く息を吸った。
「そう、それでいい……そうだ。大丈夫。お前は俺が守る。命に――」
掛けて? 言葉を遮ったのはヨウヒだった。
「それ以上の言葉は口に出すんじゃない」
夜の女神が冷ややかにクリパスを見つめていた。
「騒がしいったらありゃしない。私は瞑想に耽る時間も与えてもらえないのか?」
馬車内が一気に冷え込んだ。
ヨウヒの雰囲気がいつもと異なるように感じるのは、彼女が放つ気が刺々しいものだからだ。
「それに、命をかけて守るのはそいつじゃないだろ」
ザンカがクリパスの肩を抱き寄せると、少年は自然に身を寄せた。
「やめろよ、ヨウヒ。クリパスが怖がってんだろ」
恐れ多くも女神に注意を促す。ヨウヒはぴくりと片頬を引き攣らせたが、
「そう、だな――――悪かった」
無感情に感じるが素直に謝るヨウヒに、クリパスとロマリエは呆気にとられた。
「だが、ぎゃいのぎゃいのと騒がないでくれ。この森は私の領域ではないのだから」
ヨウヒが軽く首を回した。肩が凝っているのだろう。ゴキッと骨が擦れる音がして、クリパスが顔をしかめる。ヨウヒが少年を一瞥すると、ニヤリと笑った。
「本当に気の小さい奴だな。そんな小心で一国を治める王になれるのか怪しいもんだ」
「―――」
クリパスは恨めしそうに下唇を噛んだ。
「ヨウヒ」
じろりとザンカが睨むと、ヨウヒは両手を軽く上げ降参の意を表した。
「わかったわかった。嫌味はよそう」
「――ったく、弱い者いじめしてるみたいに見えんだからさ。嫌味もほどほどにしろよ」
ヨウヒが大げさに肩を竦めておどけた。
「なんでこう……私の主従関係は微妙になるんだろうな」
「何言ってんだよ」
「何でもない」
ヨウヒが拗ねたようにそっぽを向いた。
ロマリエが何か言いたげにヨウヒを見ていたが、代わりにザンカが口を開いた。
「この森は『秤の森』って言うんだ。人の世のものではないからお前たちは知らない森だ。ちなみに俺たち使徒の中ではこう呼んでた。『正邪の森』ってな」
「せい、じゃ?」
「そうだ。この森は普通の森じゃない。なんつうか――――その、説明しにくいんだが、――――――――とにかく、思い通りにいかない場所なんだ」
ちんぷんかんぷんの様子のロマリエが窓に映る。ヨウヒが噴出した。
「ばか! お前の説明じゃ分かるものも分からんわ」
「そうかな?」
「そうだよ。しかし、興味津々のようじゃないか、ロマリエ」
「そういうわけでは……でも、普通知りたいと思いませんか? 私たちの世界にはない、不思議なものなんですから」
ヨウヒが窓に映るロマリエと視線を交わした。少女の口許には大人びた微笑が刻まれている。
ロマリエは思った。
(彼女は探っているのかもしれない。私の心を――)
だが、ロマリエは心地好い緊張感を味わっていた。
「思い通りにいかないのは人の世の方で、この森はある意味純粋すぎるのさ」
「純粋、ですか? 森が?」
「純粋無垢な子供ほど、邪悪なことを平気でしたり言ったりするだろ? 小動物を殺傷したりさ」
ロマリエが言葉を呑んだ。ヨウヒは素知らぬ顔で話を続ける。
「この森はその時々の気分で侵入者の善悪を振り分けるんだ。だから、この馬車が何の問題もなく走っていられるのは、使徒であるザンカが乗っているからだよ」
「そ。この俺様の偉大さがわかったか」
威張るザンカだったがクリパスは笑わなかった。
ロマリエは、どうしても森の仕組みを解明したいようで、ヨウヒの話に身を乗り出さんばかりだ。
「この森は使徒の町『ヘルモン』を守るために存在するんだよ。だから、使徒であるザンカがいるから安全なのさ」
「ヨウヒさんがいるからではないのですか?」
「さっき言っただろ。この森は――――私の領域ではないんだ」
ザンカが神妙な面持ちでヨウヒを見た。
少女が無表情で窓の外を凝視している。その眼差しは、木々のざわめきを打ち砕くように剣呑なものだった。木の影が手を伸ばすように見えるのは錯覚ではないと、ヨウヒは知っているのだ。
「こいつらは単純に喜んでるだけだよ。親である女神の来訪を歓迎してるのさ」
ザンカの気遣いにヨウヒの頬が緩んだ。
「そうならいいがな」
ヨウヒの意味深な言葉が、森の話を終わらせた。
窓に映るロマリエの姿を見つめるヨウヒ。同じように窓に映るヨウヒを見つめるザンカが、身を寄せるクリパスの肩を抱く手に力を込めた。




