剣
人は、一生涯でどれだけの量の涙を流すのだろうか。
水たまり程度のもの? それとも、小池?
彼らが受けている試練は、一夜にして起きる出来事としては、非常に苛酷なものだと言えた。なぜなら、愛する者を失った悲しみは、他のものに代えようがないからだ。
月が支配する空に赤みが帯び始めると、世界は太陽が支配する空へと徐々に姿を変えていく。その様はまるで、夜の女神がベールを被り眠りに落ちる姿を妄想させた。
深い闇が白い光に包まれ、昼の女神が瞼を上げる。だがそれは、お伽噺だとヨウヒは知っていた。
闇が眠らなくとも光は目覚めている。
「ザンカ。悪いが、新しい布はないか。サラに被せたいんだが……」
ゆっくり二呼吸おいてザンカが答えた。
「あ……あぁ、そうだな。あると思うよ―――――――ちょっと待ってくれ」
ふらつきながらザンカが室内に入ると、ベッドとは反対側の壁面に置かれていたタンスの前に立つ。ザンカは掻き上げるように頭部を撫でた。
彼女を穢すように感じたのかもしれない。
ヨウヒが彼の戸惑いを感じて進み出る。
「私が開けよう。何段目だ?」
ザンカが脇に退いた。
「………悪ぃ、俺には分かんねーんだ。適当に開けてくれ」
「わかった」
下から二段目の引き出しに、薄紅色の真新しい綿の敷布があった。ザンカがそれを見て、薄く笑った。
「なんか、まるで準備してたみたいだな。姉さんらしいよ」
「……」
「実はそろそろかなって思ってたんだ」
「何が?」
「引っ越しさ。俺たちは人と同じように年を取らねーからな。二、三十年毎に住む町や村を変えなくちゃならねーんだよ。だから、次の行き先を考えなきゃならない時期ではあったわけなんだけど。姉さんが故郷に戻りたいって言っててさ。でも俺が反対してたから――――だから……」
ヨウヒは無言で答えた。ザンカが望んでいるように思えたからだ。
「あの町で父さんも母さんも死を迎えたんだ。だからいつか俺たちも……って…………はは。そんなこといちいち言わなくたって分かってるか。何てったって女神様だもんな」
ヨウヒが引き出しから新しい敷布を取り出すと、ザンカは素直に受け取った。
ザンカはベッドの傍らに立つとサラの遺体を動かして、手際よくシーツに包み始める。薄紅色のシーツの中で、サラはまるで蛹のように見えた。
「ヨウヒ。頼みがあるんだが」
ヨウヒが顔を上げる。ザンカが涙を堪えて笑みを浮かべていた。
「姉さんを故郷に埋めてやりたいんだ」
ヨウヒが眉間に皺を寄せる。今は夏季だ。
「……腐るぞ?」
「だから頼んでんじゃねーかよ」
ヨウヒの眉間から皺が消えた。
「――――なるほど。それもそうだ」
太陽の光が大地に降り注がないうちに、ヨウヒとザンカは事を運ぶことにした。
「今、なんと?」
ロマリエの声は震えていた。
ベッドの際ではロマリエと共に床に座り込み、なぜかシュコウの剣を腕に抱くクリパスがいる。腕と剣の太さが同じように見えた。
ザンカは小さなテーブルに添えられた椅子に腰を下ろすようにロマリエへと目配せした。 ロマリエが立ち上がると、ザンカと向かいの席に着いた。ロマリエの表情は険しくひどく暗い。
「姉さんが、死んだんだ。悪いが、小一時間内で身支度を整えてくれ」
ロマリエは蝋人形のように無表情でいた。
「……ま……待って、待ってください……………その………あの、えっと……………サラさんは本当に?」
「俺がお前に嘘をついて何の得があるんだ?」
ザンカは腫らした目を見開いた。
ロマリエが額に手を当てる。
「………私たちのせい、なんですよね?」
ロマリエが膝につきそうなくらい深く頭を下げた。
「なんてお詫びを言っていいか………ッ」
ザンカが肩を落とす。
「そうじゃないよ」
「でもッ」
「―――ロマリエ」
切迫した表情のまま、ロマリエが硬直した。
ザンカがヨウヒへと視線を流す。
「言ったはずだ。むやみに名を呼ばせるなと」
クリパスの目が涙に濡れる。クリパスがヨウヒの腕を掴んだ。
「ううぁあ……あッ」
ヨウヒが寒々とした眼差しをクリパスへと向けると、ロマリエに課せられた重圧が解ける。ロマリエはテーブルに顔を伏した。
――僕のせいだ!
クリパスの鳴き声がそう訴えているように聞こえた。
「いいか、クリパス、聞け、クリパス。私の声を聞くんだ。その剣が必要なんだ。私に渡してくれないか? そうだ、その剣だ」
クリパスが睨むようにヨウヒを見る。剣を抱く腕に力が込められた。
「ううぁあうああっ」
怒っているのか。クリパスはヨウヒを非難しているようだった。
「分かってるよ。それはシュコウの剣ではあるが、元々は私のものだ」
瞠目するクリパスに、ヨウヒが手を差し出した。
「渡せ、クリパス。それはお前が持つものじゃないんだ」
ヨウヒが剣へと手を伸ばす。身を縮こまらせてクリパスが体全体で拒否を示していた。だが、少年の腕が絡んでいるのは剣の鞘だ。ヨウヒは素早く柄を握ると体を宙に浮かせる。銀色の刀身が姿を現しクリパスの顔が鏡のように映った。
歪んだ自分の顔と視線が合うと、クリパスは鞘を手放した。
床に刻まれた鈍い音に驚いて、ロマリエが跳ね上がる。椅子が勢いよく後方へと倒れ、けたたましい音が室内に響いてザンカが顔をしかめた。
ヨウヒは床に足をつけると、重さを感じさせずに剣先をクリパスへと向ける。
「ヨウヒさんッ!!」
歩み寄ろうとするロマリエを、ザンカが制止する。
「王子に何をするおつもりですか!?」
「私がこいつに何をすると言うんだ。少しは冷静になれ」
ヨウヒが首を左右に振る。ザンカが深く息を吐いた。
「頼むよ、ロマリエ。今は手を煩わさないでくれ。今は、頼むから……」
僅かな沈黙で、ロマリエは椅子を立て直し座った。
「す、すみません。本当にすみません………すみません」
ザンカが手を振る。もういいという合図だ。ロマリエはようやく落ち着いた。
一方、クリパスはヨウヒの剣先を見つめていた。クリパスは恐怖を感じていなかった。
「まったく…………これは武器ではなく道具だ。こうするためのね」
ヨウヒが剣先で宙に円を描くと、ぽっかりと黒い穴が空いた。穴の大きさはクリパスの顔と同じくらいだった。
「へそくり袋……いや、違いますね。それはシュコウさんが使っていたものですか?」
「いいや。奴が使っていたものは衣装部屋さ。これは物置部屋を改造して作ったんだよ」
「何をですか?」
ロマリエは物置部屋の意味がわからなかった。
「『ヘルモン』まで持たさなきゃならないからな。この夏季に馬車で運ぶわけにはいかないし、だから即興で作ったんだよ。サラを安置するための空間をね」
ロマリエは首を傾げた。
『ヘルモン』なんて名の町村を聞いた事がないからだ。




