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神ならざるものの称号

 どれほどの時間が経過しただろうか。サラの薄紅色の美しい唇は、不気味なものへと変わっていた。

 街に仄かな光が差し始める。もう夜明けだ。

 嗚咽を漏らすザンカの際を通り抜け、ヨウヒがサラの傍へと足を進める。そして、サラの体が覆われた血濡れの布を床へと放り投げた。

 ザンカは虚ろな目でヨウヒの背中をぼんやりと見つめる。サラの血が染み付いた布が、乾いた音を立てた。

 ――――弱さは闇を色濃く浮き彫りにする。

「お前は己の罪に溺れた上、その罰に泣くのか?」

 ヨウヒは非情な台詞を口にしたが、ザンカは何も言い返さなかった。彼はわかっていたのだろう。自分の気持ちが禍を招くきっかけを作るかもしれないということを。

 彼ら使徒は人ではない。そして神でもない。人にもなれず神にもなれない彼らは、何者にもなれない中途半端な存在なのだ。

「……」

 ヨウヒはちらりと、肩の斜交いからザンカを一瞥した。

 大きな威圧感を放っていた背中は丸く小さく震えていた。本来ならここで、泣き崩れている彼を抱きしめ、共に悲しみを味わってやるのがいいのかもしれない。だが、ヨウヒにはできなかった。

 何も感じないわけではない。だけど……シュコウなら、ここで何と言うだろうか。 

 ヨウヒは生々しさを失ったサラの傷痕を凝視した。

 心臓を一突き。即死であった事が覗えると、ほんの少し安堵した。サラが痛みを感じることなく死を受け入れたのなら幸いだ。だが、なぜサラを殺されるのか不可解だった。

(……何か痕跡を残してくれていたらと思ったが……そう上手くはいかんか)

 無意識にひと呼吸置いた。そして、サラの真っ赤に染まった胸へとヨウヒは手を当てた。  

「…すまないな、サラ。まだ眠らせてはやれないんだよ。お前自身がそれを望んでいたとしてもな……」

 小声で発したヨウヒの言葉に反応して、ザンカがのろのろと顔を上げる。

「――――お前は私に問うたな。愛したことを後悔しているのかと。そしてそれを罪と呼ぶのかと」

 ヨウヒは振り向かない。しかし、彼女を中心に周りの大気が緩やかに動きだす。風が毛先と遊び、土埃が流れを浮き上がらせた。

「それはお前の罪でもあったのではないかと、私は思うのだよザンカ」

 ザンカの目が大きく見開かれる。恥じる時はとうに過ぎたと思っていた。姉を失ったこの今、まさか罪を暴かれるなんて誰が予測できただろうか。

「お前、サラを愛していたんだな。姉ではなく、一人の女として」

 秘密を知られることほど恥ずべきものはない。

「……は、はは…………まいったな………ああ…あの……ときだよな?」

 ザンカは腫れた瞼を手の甲でこする。それは照れ隠しとも取れた。だからヨウヒはあえて沈黙で返した。ザンカはロマリエから話を聞いている時の事を言っているのだ。

「私はお前が思っている以上に打算的なんだよ」

 肯定と取れる返事だった。ザンカに気を与えた際、ヨウヒは密かにザンカの精神の奥にある内なるものを探ったのだ。

 なぜなら、秘密とは力を得るための対価に成り得るからだ。

 額から伝わるザンカの温もりが見せた幻像は、彼を永く苦しめている元凶だとすぐ察した。しかし、それは決して苦痛だけではなく、悲痛と優しく真綿に包んだサラへの想いが交ざり合ったものだった。

 語りかけるように柔和な声音でヨウヒはザンカに話す。

「ザンカ。世界は広くて小さいんだよ。人は人を愛し、羨んで、そして憎んで、殺す。そんなしょうもない世界で私はシュコウと出逢ったんだ」

 独り言のように暴露される女神の秘密に、ザンカは呆然と耳を傾けていた。

「笑える話さ。私はその時本気で思ったんだ。この世界を捨ててシュコウと共に消えてもいいと。――――今思えば愚かな事だと解るが、その時の私には大した問題に思えなかったんだよ。そして当然のことのようにシュコウを選ぼうとした。……こんな愚かな神がこの世界を統べているんだよ。だけど、お前はそんな感情を愛だと言ってくれた。私は嬉しかったよ。だからお前はいい男なんだ」

 すべてを投げ出しても手に入れたかったもの。それを自ら手放したヨウヒとザンカはどこか似ていた。

「一度は捨てようとしたものを、私は何の代償もなしに再び手に入れてしまったんだ。だから、今ある世界の腐食は私の怠慢が招いた結果だ。そんな私のツケをお前たち使徒が払っているにすぎないんだよ」

 背中を向けたまま語るヨウヒの小さな体から迸る光に、ザンカは見とれていた。

 ザンカは思った。愛なるものが神を盲目にさせただけだと。

 そして、世界なんてどうでもいいと思っていた頃の事を思い出していた。

 だけどもう覚えていなかった。姉が女へと変わった瞬間がいつだったのか。考えるには十分すぎるほど時間はあったのに。

 正直両親を恨んだこともある。使徒の血を引いた自分たちの運命を呪ったこともある。それでもサラがいたから生きてこれた。いつでもサラはザンカの傍にいた。だから――…

「―――どうしても……許せなかったんだ」

 ぽつりと呟いた言葉が床に落ちた。

「俺はあいつが許せなかった」

 姉を裏切り、自分も裏切り、姉を捨ててまで作った家族も裏切った男。ザンカは血走った眼を見られまいと両手で覆い隠した。

「頼むヨウヒ。姉さんを生き返らせてくれ。俺の命を使っていい。それでも足りないなら…」

 その先の言葉はあえて紡がなかった。

 サラは望まないかもしれない。それでも、本当に助けてくれるなら、何を対価に支払っても構わないと、ザンカは思っていたのだ。そんなザンカの気持ちを確かめるようにヨウヒは問い質した。

「それは他人の命を対価に支払うと言うことか?」

 湿った空気が一変して、寒々としたものへと移った。

「お前の命で足りぬ言えば他の命を差し出すのか? お前は自分の罪を他人の命で償おうと言うのか?」

 ヨウヒはザンカを責めているのではなかった。ただ、純粋に問うているのだ。

 犠牲になった他人の命の価値を知っているのか?

 その価値以上の代償をどうやって支払っていくのか。

 命は軽くない。傷つければ傷つけられる。奪えば奪われる。まさのその瞬間を今、この時に味わったばかりじゃないかと、遠まわしに問うていた。

 気付いてくれることを前提に、ヨウヒは尋ねているのだった。だがヨウヒはザンカの返答を待たなかった。

「やめておけ。お前には荷が重すぎる」

 振り返ったヨウヒの顔が、サラの泣き笑いに見えた。 

「称号を返してもらおう。そして、新たに願おう。アザを次ぐ者、ザンカ。お前はサラを犠牲に生き残った。その痛みを代償に私と契を交わそうじゃないか。永久に継ぐ支配ではなく、この私と共存する者として」

 涙は枯れることがないのだろうか。

 押し止めようとしても歯向かって溢れてくる雫に、ザンカは抗う術を持たなかった。

 ヨウヒにはこれが精一杯だった。誠意を示す方法はなかったのだ。

 シュコウを手放した件にザンカは関わりのないことだ。それなのに、ザンカが彼女の対価を払ってしまった。彼が背負う罰は、ヨウヒの罪でもあった。彼女には失くすものがもうないからだ。

「すまない、ザンカ。お前の罰は私が背負うべきものなんだ」

 巻き添えにしてしまった。だけど、罪悪感を感じらるほど彼女は傲慢ではなかった。

「――バカ、野郎……最初からわかってたことだろうが。俺が甘かったんだよ。お前は悪くない」

 ヨウヒは言い返さなかった。

「それに、素直に言えよ……シュコウの代わりではなく、俺が必要なんだろ?」

 泣き腫らした目で強がるザンカはヨウヒを強く睨んだ。一方、ヨウヒはその眼光を鼻先で交わし微笑む。

「お前には、私が必要なんだよ」


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