継承6
立ち尽くす足があるなら、彼を追いかける事もできたはずだ。だけどそれをしなかったのは、サラの決意の表れだったのかもしれない。
「……さっきから奥歯に何か挟まったような顔してるわよ、ザンカ」
厨房で昼食の片付けをしながらサラが言った。
「そうか?」
しれっとした顔で返したザンカだったが、内心どきどきしていた。
「朝帰りなんて年頃の子供みたいなことして。一体何処に行ってたの?」
サラは、まるで思春期の子供を持つ母親のようだ。
「久しぶりにショーンと飲みに行ってたんだよ」
嘘はついてないが、少し後ろめたい気持ちになるのはなぜだろう。
「隣のおじさんに馬車まで出してもらって?」
口止め料を払ったはずなのに、あの親父喋りやがったなと、思った事もサラにはお見通しだった。
「言っておくけど、おじさんに聞いたんじゃないわよ。貴方が夜中にこっそり帰ってきた時、ちょうど目が覚めただけ。昨日はお客さんいなかったし、早く寝すぎたせいね。今日はいつもより早く目が覚めちゃってね……まさか貴方、私に、一服盛ったんじゃないわよね?」
振り返ったサラの目が笑っていなかった。ザンカは視線を宙に泳がせる。
「寝酒に少々…とか? まっさかぁ。はっはっは…」
サラから笑みが消えた。
「あっ! そうだ。姉さんに土産があったんだ」
ポンと手を打って、ザンカはもらったワインを床下の貯蔵庫から出した。ワインのラベルを見るやいなやサラの怪訝な表情が一変して明るくなる。
「あらっ!? それってコムの地酒じゃないの」
コムとは、ザンカとショーンが夜中に向かった隣町の名称だ。小さな街ではあるがぶどうの産地でワインが有名だった。偶然は必然とはよく言ったものだと、ザンカは店主に感謝した。
「あそこのワイン美味しいのよね~」
見た目からは想像できないが、サラはかなりの酒豪だ。強い酒をどれだけ飲ませても泥酔させることは困難だった。だから、仕方なく眠り薬を盛ったのだったが、結局のところバレるなら、次からは正直に話そうとザンカは思った。
「悪いんだけど、明日一日家空けるけど、大丈夫だよな?」
「別にいいわよ。忙しかったらお隣さんに助けてもらうし。でも、何かあったの?」
一瞬だが、サラには黙っていようと思った。しかし、ザンカは思い直す。同じ使徒だ。ましてクルクは昔から知る仲間じゃないか。サラにも知る権利がある。過去に捕らわれているのは自分だけなのかもしれにない。特にサラの事となると思考が一方的になり冷静さを欠いていると、ザンカは自分自身と向き合おうとしていた。
「今、魔石とかって薬が出回ってるらしいんだけど、それに使徒が絡んでるっぽいんだ。それを確かめに行ってくるよ。これでも一応アザだし」
アザの者は使徒の中でも極小数だ。主である女神から授かった血を受け継いだ者として、成り行き上、使徒を導く役割も担うようになったのだ。
「……この町でも出回ってるの?」
「微妙なところだけど、売人がその…クルクだって話が出てるんだよ」
「クルクが?! そんな事するわけないでしょっ いったい誰がそんな事言ってるの」
サラの声が震えていた。
「ショーンが仕入れてきた情報だよ。隣町でこないだ変死体で見つかった男とクルクが一緒にいるところを酒屋のプライシアが見たんだと。それで、昨日ショーンと確かめに行ったんだけど会えなくてさ。でも今シヴァエに出稼ぎにいるって話、隣のおっちゃんに聞いたんだよ。で、明日行ってみようかなって思ってて…………なんだよ」
サラの目がザンカを咎めているように見えた。
「あなた、クルクを疑ってるの?」
「……違うよ」
微妙な間が、サラに不安を抱かせる。だが、それ以上にザンカに不満を抱かせていた。
「疑ってるのね」
「あくまでも噂だよ。だから本人に…」
嘘は言っていないのに、胸がざわめいた。
「ザンカ。私の目を見て言いなさい」
厳しさを含ませた声音であった。こんな時だけ、姉と弟になる。ザンカは嫌々に目を合わせる。
「私、貴方に言っていないことがあるのよ」
視線を反らせたザンカの頬を両の手で挟んで、自分の方へと向けさせると、サラは続けた。
「クルクは確かに人間の女性と婚姻をしたわ。子供も成した。でもね、称号は返してないわ」
なぜ、サラがそんな話をしているのか、最初ザンカはわからなかった。
「クルクはあの頃からまだ追い続けているんだわ」
サラの手が震えていた。
「お願い、ザンカ。クルクを信じて。クルクを裏切らないで」
「裏切ったのは奴の方だよ」
「違うのよ! 違う、の……彼はただ、アザの者として女神が再び現れるその時まで、彼女の愛した世界を取り戻そうとしているだけ」
「ちょっと待ってくれよ。なんでクルクがそんな事を一人でしてるんだよ。俺だってアザの称号を引き継いだはずだ」
ずっと感じていた不安。だけど、誰にも聞けなかった。それは自尊心を守りたかっただけなのかもしれない。
「姉さん。俺、本当にアザを受け継いだのか?」
サラの手の震えが止まった。
「……いつ、聞いてくるのかと、ずっと思ってた」
ポツリ、ポツリと、呟くサラの言葉は、地に落ちて消えないように静かに紡がれた。
「この国は、女神が愛した世界の中心なの。そして、各地に散っている使徒の子孫の中でアザの称号を持つ者は限られている。おそらく、指の数より少ないでしょうね」
ザンカの身近なアザと言えば、ザンカの両親とクルクの父親だけだ。使徒の数は多いが、アザの血は違う。継承する事叶わず消えたアザがほとんどだった。
「姉さんはアザを継がなかったはずだ! そうだろ?!」
サラがザンカを一瞥した。その目は冷え冷えとして、いつものサラには思えないほどだ。
「…貴方は私にこだわりすぎて周囲を見なくなった。そうでしょ? 貴方は一人になりたくないから、私を言い訳の材料にしているだけ。怖いんでしょ? 世界と共に消えるかもしれないから」
黙って話を聞くザンカに、サラは続けた。
「私は貴方がいるから大丈夫。だけど、貴方は……私がいてもいなくても、生きていかなければならない」
女神が現れるその時まで。彼女にアザの血を返すその時まで。
「貴方はわかっているはずよ、ザンカ。クルクは貴方を裏切ってなんかいない。ねえ、周りをよく見て。貴方を欺き偽りの情報を与えた者がいるのよ。それは、クルクがずっと追い続けてた事と深く関係してるはず」
ザンカはサラの話に違和感を強く覚えた。
なぜ、はっきりと言わないのか。サラは知っているのだ。誰が誰を裏切ったのか。だがその者の名を口にしないのは、彼女に近い存在の者だという事なのだろう。それは、ザンカにも同じことが言えた。
「明日、気を付けて行きなさい」
サラはザンカの問いには答えずに、代わりに課題を与えた。
翌日、朝日が昇る前に馬車が店先に止まっていた。隣の親父に再び御者を頼んだのだ。
「……」
自室の窓から通りを眺めるサラの目に、ザンカの姿が映る。
「ごめんね、ザンカ。私はこれでも貴方を守ってるの」
何の力も持たないサラにとって、大切な者を守るための力が必要だった。
弟がアザの血を継承すると決まった時、サラ自身も継承を受けたのだ。それは、ザンカが引き継いだアザの血。女神が使徒に与えた力の根源。その力の流れを自分の中へと導く術を、両親から密かに受けた。
アザの血が危険に晒された時、継承者へたどり着く前に危険分子を自分へと導き、ザンカに逃げる時間を与えるためだった。
「貴方を守れば、クルクも守られるはずだったのに、彼は私の手には負えない人だった」
追いかけたかった。追いつける足もあったのに、捨てられなかった。
守るつもり立てた誓いが、その時初めて重荷に感じた。
精霊宮からの知らせにクルクは向かった。そして、戻ってきた時、彼の傍らには見知らぬ人間の女性がいた。
『しばらく、彼女を匿ってくれないか、サラ。追われてるんだ』
突然現れて女性を守れと言うクルク。嫌だった。だけど断れなかった。断れるはずがなかった。その女性は身ごもっていたのだ。




