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奴隷戦士ロマリエ

 ベッドに横たわる奴隷戦士の傍らには、心配そうに少年が寄り添っていると、シュコウが音もなく歩み寄る。そして、無言でクリパスを抱き上げその場から離れた。ヨウヒがクリパスの代わりにベッドの際に腰を下ろす。

 奴隷戦士の背中の包帯は血が広範囲に滲んでいた。

 ヨウヒは奴隷戦士の額に手を当てる。

「精霊の導きを受け入れる覚悟はあるか、否か」

 意識がないので当然返答はない。それでもヨウヒは問い続けた。

「我は神であり悪でもある。この声は刻印を抹消するもの。泥沼に身を落とすことを正義として、汝は何を欲する?」

 少年の顔色が更に蒼く一変し、身をよじらせた。シュコウは腕に力を込めて囁いた。

「邪魔をするな。さもなくばこの場で斬り捨てる。――――俺にとってお前は単なる子供。主に禍を成すというのなら容赦はせんぞ……」

 それは恫喝を感じさせるには十分な声音であった。

 驚愕したのか、クリパスはシュコウの腕の中で大人しく力を抜いた。

 周囲を気にする様子もなく、淡々とした口調のヨウヒの横顔がクリパスの胸を締め付ける。

『……心身ともに苦痛を味わってきたか。だが、それは本当にお前に必要なものだったのだろうか?』

 彼女は彼の罪を知っているようだった。

 あの黒い瞳は、すべてを呑み込み虚無に変える混沌の闇のようだと、クリパスは怯えから固く瞼を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、焼き爛れ皮膚を裂く烙印。それは奴隷戦士の背中に生涯残るであろう呪縛の刻印だった。

 ザンカが応急処置をしているときに、誰にともなく言ったのだ。

『奴隷の代わりなんていくらでもいるって言うのに、この男よほど好まれたんだな』

 邪法まで施して戦士を手元に置く貴族はないと言う。それもそのはずだ。貴族や富裕層の彼らは、奴隷を使い捨ての玩具と思っているからだ。

 奴隷戦士の背中には、奴隷の印である刺青を消すように押された烙印があった。

 烙印を烙印で焼き消す二重烙印が奴隷戦士には施されていた。

 奴隷戦士のあの研ぎ澄まされた殺意の目は、まさしく魔の目だったということだ。

 二重に烙印を押すことで肉体に悪鬼の力を宿らせることができるという邪法を、彼は勝ち続けるための手段でその身に受けていたのだから。

 普通の戦士なら間違いなく狂気に呑まれて狂い死にしているところだ。しかし、強運なのかこの奴隷戦士の心は強靭だった。だからヨウヒは、奴隷戦士の背を斬り付けて邪を解放する方法を選んだのだが、その結果、奴隷戦士を出血多量で瀕死の状態に陥らせてしまったのも間違いなく彼女である。

 不安に駆られるクリパスの胸中を知ってか知らずか、ヨウヒの呪文は続いた。

「戒めは忌まわしきその身を犯す。この声は癒しであり活力を与えるもの。深淵の闇へと身を落とし、その穢れを打ち払え。焼き尽くす業火の炎は苦痛を和らげ、新たな傷を生む。我が声に応えよ」

 奴隷戦士から放たれる閃光は、承服の意を示すものであった。

 ヨウヒが天井を仰ぎ見ると一呼吸。彼女は誰かに耳打ちするかのように呟いた。

「……天は神、地獄は悪魔なんてそんな事、一体誰が決めたんだろうな」

 奴隷戦士の背中の包帯にはもう血の滲みはなく、真新しい清潔なものへと変わっていた。

「風呂に入る!」

 明瞭なその一声が、澱みかけていた部屋の空気を一掃した。 

「うう? ああ……あう?」 

 シュコウが少年を床に下ろした。見上げるクリパスの目は、手際良くヨウヒの身の回りの世話を始めたシュコウへと注がれる。

 シュコウは、ヨウヒの衣服を脱がせると浴室へと誘う。その光景にクリパスは違和感を覚えた。

(こういうことは女性がするものではないだろうか?)

 浴室へはヨウヒが一人で入り、水が流れる音が室内に響く。すると、シュコウはおもむろに剣を鞘から引き抜いた。

「おおお?!」

 仰天したクリパスは、床を転がりながら奴隷戦士が眠るベッドへと身を寄せる。

 がたがたと震える少年を視野の端に置き、シュコウは虚空へと剣を向けた。手首を回し刃先で器用に円を描く。すると、描かれた円の空間がぽっかり切り取られたではないか。

 シュコウは現れた黒い穴の中へ躊躇なく手を突っ込む。

 瞳を瞬く少年の視線を気にせず、シュコウはゴソゴソと穴の中で何か探すような動きをしていた。そして、引き抜かれた手には布を握っていた。

「……」

 クリパスは興味深くシュコウに見入っていた。

 面白いというより不思議なのだろう。なぜなら、次から次へと穴から引き出されるのは衣服ばかり。中央のベッドの上に無造作に放り出された衣類たちは、あっという間に小さな山となった。良質な生地ではあるが装飾などはなく色も地味な物ばかりだった。ヨウヒの好みなのだろう。そして、従者であるシュコウの衣類もその中に紛れていた。神経質な性格なのか、シュコウは一枚ずつ広げ畳み直す。そして、長期間宿泊するつもりなのか、備え付けの棚へ収めはじめた。

 呆気にとられる少年に気を留めることなく、シュコウは主が入浴を終えるまで、その作業を淡々とこなし、収まりきらなかった衣類を再び穴へと放り込んだ。

(せっかく畳んだのに……)

 シュコウが神経質かどうかは疑問になった。

 クリパスは好奇の目を穴に向ける。魔法使いならではの『へそくり袋』という物に似ているようで少し違う物に思えた。

「――あ…ああ…ああう」

 その穴が何なのか知りたいクリパスは懸命に声を上げた。しかし、発声はできても言葉を繋ぐことができない。身振り素振りで伝えようとしたが、シュコウは煙たそうに目を細める。

「……傷は癒えているだろう。しばらくすれば目を覚ます」

 奴隷戦士の事だと思ったのだろう。ぶっきら棒な物言いだった。

 自分の意思が伝わらないことは分っていたが、クリパスは落胆した。筆談できればよいが紙は高級だ。それに奴隷の言葉など聞き入れてくれる貴族などいるはずがない。

 がっくりと肩を落とし消沈するクリパスを視界の端で訝りながら、シュコウは入浴を終えた主の世話を着々としていた。


 

 背中半ばまで垂れた黒髪は、水分をたっぷりと吸い込み重さを感じさせる。

 シュコウが用意していたのは薄紫色の寝衣だった。日はまだ高い。一瞬戸惑ったヨウヒだったが、出掛けるつもりはないぞ、という従者の意思表示に渋々従うことになった。

 膝下丈の襟も袖もない簡素なワンピースだが白い肌に良く映える。ヨウヒは室内履き用に出されたスリッパは履かずに裸足で床を歩くと、窓に近い椅子へと腰を下ろした。

 シュコウが丁寧に髪をタオルで包みながら水気を取っていた。

 ヨウヒの裸足が気になるシュコウだったが、それより先の気掛かりを解決しようと、少年に聞こえないよう声をひそめる。

「所有者の名は?」

 ヨウヒの眉が曇る。

「―――んん……」

 彼女の唇が開きかけた時、ドアを叩く音で会話は中断しざる得なくなった。

 ザンカが帰ってきたのだ。

「おぉお! 湯上り美人ってやつだな。なかなか色っぽく見えるぜ、お譲ちゃん」

 飄々と荷物を抱えて入ってきたザンカに、シュコウは鋭い眼光を飛ばした。彼にとって重要な話だったのだ。

「戻ったばかりで悪いがそいつを風呂に入れてやってくれ」

 ヨウヒが少年を指差した。

「ああ、いいぜ! 夕飯まで時間あるしな。そうだ、飯は部屋に運ぶんだろ?」

「そうだな」

「わかった。じゃあ、すっきりこっきりと全身の垢を落としてやるからな」

 にかっと笑うザンカに恐怖を感じ、クリパスがたじろぐ。――が、軽々と担ぎ上げられ浴室へと向かった。その後姿はまるで人攫いだ。

 浴室で木霊する水を打つ音を耳に、ヨウヒは奴隷戦士が眠るベッドへと歩み寄ると、奴隷戦士の額をパチッと指で弾いた。

「随分と演技達者だな。あの子に聞かれたくないことでもあるのか?」

 奴隷戦士がゆっくりと瞼を上げた。青い瞳に狂気は滲んでいなかった。

「精気を分けてやったんだ。動けるだろ」

 さっさと起きろ。と言われていると思ったのか、奴隷戦士がのそりと体を起こすとベッドに足を下ろす。負傷部分が完治していることを実感すると、奴隷戦士はヨウヒを真っ直ぐ見た。

「男娼として売られることを思えば武人で助かったな。とりあえず、あの子の名を聞こうか。ロマリエ」

 シュコウはヨウヒの後ろで控えていた。

 ロマリエは厳かに頷き返すと、口を開く。太陽が翳ったような低い声音であった。

「彼の名は、クリパス。この国の第三王子であり、現在唯一の王位継承者でざいます」

 発せられた声には若干疲労が交じってはいたが、凛々しいものであった。驚かない二人の様子に、ロマリエは逆に驚いていた。

「貴女はどうして彼を……」

「その問いは今必要か?」

 ヨウヒはロマリエの問いを容赦なく遮断した。

 今は、クリパスが入浴を終えるまでの時間しかないのだ。それに、ヨウヒは不必要な会話をするつもりは最初からなかった。

「……彼を――。王子をお守りくださいますか?」 

「内容次第だな」

 受ける気満々だとピンときたシュコウは迷わず口を挟んだ。

「俺は反対だ。王位継承権を持つ者を奴隷に格下げするなど、ちょっとした事で成せるものではない!」

 ふっと息をはき、ヨウヒが答える。

「そう声を荒げる必要はないだろうが。お前は何でもかんでも疑いすぎる。話を聞いてみなくては真実など見えるものではないだろ」

「だが――」

 ヨウヒが手を軽く挙げ制止した。シュコウは渋々口を噤んだが、ロマリエは当然とばかりの口振りで返す。

「……その方の言う通りです。王子は大罪を犯してしまった。けれど、止められなかった私にも責任はある」

 苦痛は体の傷ではない。心の中に隠している傷が痛むのだろう。ロマリエは顔を伏せた。拳に力が入る。

「罪、とはなんだ?」

 ヨウヒの問いに、ロマリエは深呼吸をして心を落ち着かせようとしていた。そして、つい、と顔を上げる。心が決まったのだ。

「王宮を守る、精霊宮の長である法王を手にかけてしまったのです」

 衝撃の事実だった。

 国王の血脈者は息子三人と、娘が一人しかいない。クリパスが第三王子ということは、三番目の息子だ。それでも第一王位継承権を持つということは……

「上の二人はすでに亡き者ということか。それならば尚更、跡取りであるクリパスの存在は必要不可欠ではないか。なぜ法王殺害など汚名を着せられたんだ?」

「それは――――汚名ではございません」

 搾り出すようにロマリエは言った。

 ヨウヒとシュコウは愕然とした。

 言葉が続かない。しかし、あの少年がそんな大それたことを仕出かすだろうか。押し黙るヨウヒの代わりに、シュコウが問うた。

そそのかされたとか……それこそ操られた可能性はないのか?」

 ロマリエは首を横に振る。

「以前の王子は、傲慢で自尊心が強く、他人に対する哀れみなど持ち合わせていなかった。廃止していた奴隷制度を復活させたのは彼なのです」

 クリパスの父である国王は、生まれつき胸を患っており、年々体は弱る一方だったという。床に臥せることが多い王に代わって政をしていたのは、クリパスと年の離れた二人の兄たちだった。彼らは聡明で人当たりも良く、国政も穏やかに成し遂げられていた。だが、その兄たちは流行り病で次々と亡くなり、母親である王妃は嘆き哀しむあまり、後を追うように逝去したという。そうなると、残された王子はクリパスのみ。彼の傲然たる振る舞いをとがめる者などいなかった。しかしたった一人、異を唱えた者がいた。それが精霊宮の長であり法王バルカンだったのだ。

「王子はバルカン様を呪い殺し、その身体を無惨に切り裂いた所を、神官たちに見られたのです。当然のことながら、釈明の猶予は与えられませんでした。そして王子に実刑が下った。ですが、私は彼を救いたかった。跡継ぎなしでこの国の行く末はどうなるのです。だから私は減刑を強く申し出、願いました」

「……それで下層階級への降格処分で奴隷になったと言うのか?」

 神妙な面持ちでロマリエは深く頷いた。

「だが俺たちに王子を守ってくれとは、一体どういうことなんだ」

「元老院での決定は一時降格なのです。ゆえに王位継承権は抹消されていない。元老院は寛大な処分を下されました。国王がご逝去されるまでの期間で、王子が心を入れ替え変わる事ができる機会を与えてくださったのです。ですが、その時に王子が王位を継ぐ者としての素質がなければ、先代国王の弟君であらされる方々へと継承されると……」

 もしくは、すでに亡き者となっていれば自然と継承権は、親族へと流れることになる。

 なるほど、と納得がいく話ではあるが……。

「私からも聞きたいことがある。クリパスは魔術で舌を切られている。しかも容易に癒せないよう邪術を用いたようだ。その経緯はなんだ」

 王として、帰還を果たすかもしれない可能性がある者に普通施すだろうか。それに、神に仕える神官が禁を犯すことになる邪術を使うとは考え難い。

 もし万が一、クリパスが王位を継承すると決まったら、舌を戻すことになる。だが邪術は一度掛けたら術者であろうと跳ね返ってくる。しかも、奴隷に施す邪法とは違い、難易度が高い分、反動は拒絶できないだろう。

 元老院の決定は覆すことを良しとしない。だが、そんな危険を伴う判決を元老院がするだろうか。危険を侵すのは神官だ。精霊宮の長が殺害されたからとて、神官が承諾するとは思えなかった。

「邪術で切断――……?!」

 ロマリエは青ざめた。どうやら彼は知らなかったようだ。

「発語が上手くできないような魔法は掛けられました。王子も魔力をお持ちですから……でも、切られているだなんて!」

 シュコウはふいに、商人の男の言葉を思い出した。

「そう言えば、商人が言っていたな。意味不明なことを喋るからと。だがあの商人の元に届いた時にはすでに切られていたと強く主張していたぞ」

 ということは、城を出る時すでに、切断されていたかもしれない。

「まぁ…商人は雄弁であるからな」

 ヨウヒが他人事のようにさらりと返す。と、話がひと段落したのを見越したように、浴室の扉が開かれた。

 湯煙を体にまとい、クリパスが新品のシャツを羽織っている。髪の色に合わせてなのか、黄褐色の綿のシャツと半パンツを履かせられている。体力がない少年のためなのだろう。靴は履かせず裸足だった。幼子のような足取りでクリパスは進み出た。

 ロマリエは柔和な笑みを浮かべてクリパスを抱き寄せる。

「よくぞ、生きておられた! こうして再び貴方に触れることが叶おうとは………夢にも思いませんでしたよ」

「うううあああッ」

 号泣するクリパスの頭を優しく撫で下ろす。ロマリエの目にも涙が滲んでいた。

 感動の再会を見守るシュコウもまた、鼻をすする。それを見てヨウヒが目を瞬かせた。

「なんだ、お前。散々文句を言っていたくせに!」

「俺だって、お前がクリパスと同じ境遇に合っていたらと思うと……」

「――」

 大袈裟に目頭を押さえるシュコウに、ヨウヒは何も言わなかった。

 涙を誘う雰囲気に包まれた室内だったが、ザンカの登場でがらりと空気を変える。 

「あっちーなぁ~ おおっ!! あんた目覚めたのかッ」

「空気を読め……」

 ヨウヒの嫌味にも気付かず、ザンカはその場を仕切り出した。

「腹が減ってきたな。そろそろ食事の準備をするぜ。あ! もちろん俺も同席だよな?」

 シュコウが露骨に嫌な顔をするが、ヨウヒは「もちろんだ」と喜色満面で返した。

 ザンカが部屋を出るのを待っていたとばかりにヨウヒは話を切り出す。

「では急いで話を付けるとしよう」

 咄嗟にクリパスはロマリエにしがみついた。引き離されると思ったのだろう。恐怖の影が彼を包む。その影を祓うようにロマリエがそっと背中に手を置いた。見上げる黄褐色の瞳は潤んでいた。

「人を甚振るのは嫌いじゃないがな」

 冗談のつもりで言ったはずが、クリパスの表情は異常なほど凍りついた。競戦場でのヨウヒを目の当りにしているのだ。笑えるはずがない。

 ばつが悪くなったヨウヒは一つ咳をして本題へと入った。

「私がお前たちを買ったのは、ある宝石を手に入れるためだ。各国探し回ったがシュコウと二人では限界があると悟った。見知らぬ国で動くには、土地勘もないし、法令もわからん。うっかり牢獄なんてことはできるだけ避けたいのだ。かといって、情報屋を雇うと足がつく。横取りされちゃそれこそ、今までの苦労が水の泡だからな」

「ある宝石とはなんですか?」 

「それが私にもよくわからんのだ。希望の石とも呼ばれるらしい」

「形状は?」

「分れば苦労はせん」

 存在しているのかさえも不明だとヨウヒは続けた。

「法令についてなら少しは役に立てるかもしれませんが、道案内はちょっと難しいです」

「それに関しては心配はいらんぞ。ザンカがおるからな」

 ヨウヒとロマリエの会話に、シュコウは激昂し声を張り上げた。

「ちょっと待てっっ! 俺に一言も相談なしなのかっ」

 信じられないと言いたげなシュコウを見て、ヨウヒは意地悪く口を開いた。

「あいつは意外に役に立つ。よく気が利くし身動きも早い」

「宿までの案内じゃないのか!」

 シュコウはそのつもりだったのだろう。だが、

「何を言う。私はここを拠点に動くつもりだ。お前は何でもダメダメと言うからな」

「ダメなものをダメと言って何が悪いんだ?」

 ヨウヒを見下ろすシュコウの目が据わってきている。

「……従者のくせに、お前は私にえらそうだ」

 その一言で、ぐっと押し黙るシュコウだった。

「おーいっ。ここ開けてくれよ~」

 扉の向こう側からザンカの声が聞こえた。

 両手が塞がっているのだろう。つま先でドアを蹴っているのが分かる。

「こんな無作法な奴を……」

 ぶつくさ文句を言いながらシュコウが扉を開ける。

 予想通りにザンカの手は大皿で塞がっていた。その後ろには一人の女性がザンカと同じように料理皿を手に立っている。シュコウの目が彼女に釘付けになった。

「ごめんなさいね。大人数だからお皿も多くって……」

 灰色の髪を後ろで軽く束ね、くすんだ水色に白いフリルのエプロンドレス姿の小柄な女性であった。三日月型の眉の下には、深みのある青い瞳が慈愛に満ちた笑みを浮かべている。ザンカと並ぶとなお美しさが際立っていた。まさに美女と野獣。

「姉貴のサラだ」

 目を瞬き呆然とするシュコウに、サラは言い慣れた挨拶を述べた。

「この度はご利用ありがとうございます。必要な物があったら何でも言って下さいね。でも普通の人たちでよかったわ。ザンカがいつも連れてくるお客人は、一癖も二癖もある人が多いから…ちょっと安心しました」

 爽やかな笑顔だ。シュコウはうっとりした眼差しで見つめている。

 テーブルの上には、二人が運び込んだ料理が並んだ。

 鶏肉の丸焼きに香草入りのサラダと冷製パスタ。バターの香りが新しいロールパンに、自家製の分厚いウインナーが添えられている。ロマリエとクリパスは空腹感を思い出した。

「こちらこそ、慣れない土地で逆に助かりました。私はヨウヒ。そこで突っ立っているのがシュコウです。こちらがロマリエ、クリパス。しばらく滞在するのでよろしくお願いします」

 主らしく丁寧な語調で礼を述べるヨウヒに、サラがくすくす笑った。

「ふふっ。なんて可愛らしいご主人様かしら。ザンカから話は聞いていたけど本当に黒髪なのね。この辺りは今夏季に差し掛かったところだからさぞかし暑いでしょう? 日中出歩くならケープを用意させて頂くわ」

 この国では黒髪に黒い瞳は珍しいようだ。サラはヨウヒの瞳をじっと見つめ、 「でもその瞳……素敵ね。まるで黒曜石みたいだわ」

 ヨウヒは薄く笑って返した。

 次々と運ばれてくる料理は本当に美味しくて、食べ過ぎるくらいだった。

「な? 姉貴の手料理は絶品だろ?」

 晩酌であるワインでほろ酔い気分のザンカは、至極ご機嫌である。それとは正反対のシュコウは仏頂面で黙々と食していた。

 クリパスはロマリエの傍から離れず、あどけない笑顔を曝け出している。

「……つうかさぁ」

 突然、ザンカが口を切った。目が据わっている。呑み過ぎのようだ。

「お前ら、普通に飯食ってるけど奴隷なんだぜ? このお譲ちゃんに感謝しろよな」  

 それに関しては同感のシュコウは無言で頷き返す。

「生きるために、泣く泣く愛しいわが子を売りに出す世の中だ。俺はお前らに同情はしねーぞ。運が良かったと思えよ……ひっく…。まぁ……俺も偉そうに言えた義理じゃねーけどよ」

 競戦場の受付は他の仕事より歩合がよかった。それに、宿屋への客寄せにもなる。一石二鳥と言いたいところだが、現実は残酷なものだ。

「ろくに飯を与えられず、がりがりの体で客を取らされる女子供を数え切れないくらい見てきた。病気を移されて客が取れなくなったらポイ捨てさ。代わりはいくらだってあるからな。奴隷制度が成立する前からもずっと行われてきたんだ。裕福な者がいれば貧しい者もいる。それが世界だ。誰も助けてなんかくれない。皆生きることに一生懸命だからな。だからどぶ川に生まれたての赤子を流す親だっている。生きることが苦しいと知っているからだろうな」

 室内がしん…と静まり返った。

 ヨウヒがワインに口を付けると、シュコウが煙管の用意をする。

「……お譲ちゃん」

「ヨウヒでいい」

 はっとシュコウが主の顔を見る。

「じゃあ、ヨウヒ。お前さん一体何者だ?」

 核心を得た質問にヨウヒは苦微笑をする。

「何者でもない。ただの『人』さ」

「『人』……ねぇ。魔法使いならさ、お前さんくらいの年の子はざらにいる。でもよ、魔道師はちょっと違うだろ。こう見えても俺は人を見抜く目だけは肥えてるんだぜ?」

「ではお前は何者だ?」

 微笑を湛えたままヨウヒは問うた。

「俺は俺さ。競戦場の受付で、サラの弟だよ」

 ザンカがワイングラスの口を指先でなぞる。キュイキュイと金属片が擦れるような音を立てた。耳障りだったようで、隣に座っていたシュコウがザンカの手を押さえる。

「私も私だ。誰も私の代わりはできないし、私も誰かの代わりには成り得ない。私はお前を気に入っている。だから宿もここに決めた。しばらく競戦場の仕事を休め。私の仕事を手伝ってもらいたいからな」

 シュコウの手を払いのけたザンカは、グラスになみなみとワインを注いだ。

「んー……それは別にかまわねーけど。奴隷を二人も買い取ってさらに俺も必要なのか?」

「さぁな。必要か必要でないかはわからんがな。それに彼らは奴隷ではない。私の従者だ」

 ほろ酔い気分ではあるが、ザンカの思考は研ぎ澄まされていた。

「奴隷から格上げかよ。だが刻印は一生付いて回るぞ?」

「そこまで保障する気はない。私は人を縛るのは好きではないからな」

「へッ……よく言うぜ――――――わかった。引き受けてやるよ。あんたに付いたほうが歩が良さそうだしな」

 商談は難なく成立したが、二人の会話を見守っていたシュコウはヨウヒが煙管に手をつけた時点で席を立つ。少し機嫌が悪いようだった。

「早速だがお前に調べてもらいたいことがある」

 ザンカがごくりと音を立てワインを飲み干した。

「希望、奇跡、そんな類の店、物品の情報を片っ端から集めてくれ」

「……なんだそれ? あんたらの目的は物探しか?」

「まぁ、そんなところだ」

「ふーん。物探しねぇ……ま、いいぜ。本業ではないが裏の裏まで知ってるからな。片っ端から訊ねていきゃあ、そのうち何らかの手掛かりに当たるだろ」

「やはりお前に決めて正解だったようだ」


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