堕ちる
聞こえるはずのない声が聞こえた。
漆黒の闇が、一人の男を包んで離さなかった。
そこは誰にも属さず、何にも関わらない、彼だけの空間。その場所で、彼は一人ぼんやりと眠りに落ちるのが好きだった。
指の先から髪の毛の先まで、わずかに重みを感じさせる闇に浸される感覚がたまらなく好きなのだ。
彼は今もまだ、耳朶に残る声質を思い出しては感じていた。
夢か現なのか、彼はどちらでもかまわなかった。
『彼女』が自分を呼んだのは『あの時』以来だったから。
嘘でも良かった。今の彼にとってそれは重要な事ではないからだ。
もう少し、異変に気付いていればよかったのだろうか、なんて、それは世迷言だと、彼は思っていた。
気付いてても何も変わらないだろう。
最初に『彼女』を変えたのは彼だから、また『彼女』を変えてしまったのだろう。
不安に押し潰されるほど軟な心ではないはずだった。
感傷に浸り、自責の念に囚われるほど、弱い精神ではないはずだ。『彼女』も彼も。
『彼女』は作られたと言った。それなら自分もだと彼は答えた。すると『彼女』が笑った。そう。『哂った』のではなく『笑った』のだ。それは彼に初めて心から嬉しいという気持ちを覚えさせた。
闇がきた。
ああ。また闇がきた。また『彼女』を隠してしまう。
闇が憎い。闇が怖い。闇が消してしまう。『彼女』のすべてを消してしまう。
ああ。また闇に堕ちる。『彼女』は漆黒の闇に堕ちる。もう、光が射すことはない。
この地は、闇に沈んだのだ。